
梅原猛の著作「柿本人麿論 水底の歌」散歩
島根梅原猛の著作「柿本人麿論 水底の歌」散歩
『続日本紀』元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本猨の死亡記事がある。この日が柿本人麿の水刑による死罪実施日であるとする。つまり、島根県益田市の高津川沖にあった鴨島の沖で錘のついた紐を首に巻きつけられた柿本人麿が船から突き落とされて死でいる。 柿本人麿が流罪となった場所、 (流罪地1) 猿丸神社(京都府綴喜郡宇治田原町禅定寺粽谷44) (流罪地2) 讃岐の狭岑(さみね)の島 (流罪地3) 島根の韓島 (流罪地4) 鴨島 桓武天皇の弟で 「憤死 」した早良皇太子の祟りを桓武天皇は死の床で恐れていた。その死の床で、桓武天皇は子孫繁栄の為に早良皇太子の祟りを鎮める為に早良皇太子に血の繋がる五百枝王を復権させ、鎮魂を依頼している。早良皇太子の鎮魂の為に、早良皇太子を崇道天皇とし祀るとともに、その一連の中で橘諸兄、大伴家持などが復権している。その橘諸兄、大伴家持が万葉集の第一及び二巻を流罪刑で水死した鎮魂の為に柿本人麿を復権させ、後に「聖」歌と呼ばれることになったとしている。五百枝王は御靈神社 (上御霊神社)に崇道天皇をまつり、五百枝王の子孫が代々別当を務めている。
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水刑により殺害された柿本人麿の鎮魂のために建てられた柿本神社。水刑が行われた海に向かって建っている。 柿本人麿は、流罪となり転々とする。最後に島根県益田市の高津川沖にあった鴨島に流され、その鴨島があった高津の沖合で水死刑にされたとする。なお、その鴨島は今の高津川と益田川に別れていなかった頃、その河口近くにあった小さな島としている。鴨島は1026年の大地震でで海底に没している。
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(流罪地1) 猿丸神社(京都府綴喜郡宇治田原町禅定寺粽谷44) この神社から北に山の奥に行くと大田という地名があり、八幡平と呼ばれる小さな平地があるとの事。そこが柿本人麿一家が最初に流罪になった場所であると推測している。この地は当時実権を握っていた藤原不比等の土地であり、柿本人麿を流罪にする場所として適していたとも言われている。
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(流罪地2) 讃岐の狭岑(さみね)の島 今の香川県坂出市沙弥島。現在、海が埋め立てられ島ではなくなっている。 讃岐の狭岑(さみね)の島にして、石の中の死人(しにひと)を見て、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌 玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神(かむ)からか ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月(ひつき)とともに 満(た)り行かむ神の御面(みおも)と 継ぎ来たる 那珂(なか)の港ゆ 船浮けて 我が榜ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波騒く いさなとり 海を畏(かしこ)み 行く船の 梶引き折りて (以下省略)
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(流罪地3) 島根の韓島 この島で一緒に住んでいた(現地の)妻と別れ、次の鴨島へ流される時に詠んだ歌がある。 柿本朝臣人麻呂、石見の国より妻に別れて上り来る時の歌二首 并せて短歌 石見(いはみ)の海 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも いさなとり 海辺(うみへ)を指して 和田津(にきたづ)の 荒磯(ありそ)の上に か青く生(お)ふる 玉藻(たまも)沖つ藻(も) 朝羽(あさは)振る 風こそ寄せめ 夕羽(ゆふは)振る 波こそ来寄(きよれ) (以下省略¥
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こちらを草壁皇子の墓とする説が強いようだ。
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柿本人麿の妻である依羅(よさみ)娘子(をとめ)が石見国から帰ってきて柿本寺に歌塚を作ったものとして伝えられている。隣にある和爾神社は、柿本と同祖と言われる和に氏族である。
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平安京を築いた桓武天皇の弟で 「憤死 」した早良皇太子を「崇道天皇 」として礼拝の対象とすることにより、桓武天皇は祟りを鎮めようとした。早良親王が藤原種継暗殺事件に関わったとする桓武天皇の企みに嵌り淡路島に護送される途中、自らの潔白を訴えて絶食し死んでいる。その祟りを恐れた桓武天皇が崇道天皇として格上げした、と言われている。
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文武天皇の父であり持統天皇の息子である草壁皇子の墓
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桓武天皇
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祟道天皇の神霊を祀ったのが始まりとの事。代々非業の死を遂げた人々を祀っている。ここの別当を五百枝王の子孫がつとめている。つまり桓武天皇が死の床で崇道天皇の祟りの鎮魂を頼んだ血の繋がる五百枝王の子孫である。崇道天皇、つまり桓武天皇の弟である早良親王、藤原種継を暗殺したとの無実の罪で桓武天皇が淡路島への流罪にしている。その途中崩御している。
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この神社をお守り続ける綾部家の方が、柿本人麿の流刑地であり今では海底に水没した鴨島の調査を実施した梅原猛氏にこの地の伝承にある柿本人麻呂の墓と言われる場所を掘り返す調査を依頼している。詳しくは、梅原猛の著書「万葉を考える」を参照して欲しい。また、秘仏として祀られている七体の像の調査も行われている。子供姿の柿本人麻呂と孤児である人麿を育てた帰化人である老夫婦、そして4人の従者の像からなっている。梅原猛氏は、鴨島で流刑で水死した柿本人麿の関係者が後にこの地に住んで柿本人麻呂を祀り続けた可能性を述べている。
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何度も訪れている川越氷川神社で今回初めて気がついたことがあった。 それは氷川神社内に柿本人麿が祀られていたことである。戦国時代、柿本人麻呂の子孫である綾部一族が川越に住んでいたとの事。その子孫が柿本人麿をここに祀っている。
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