
日本の国技・大相撲興行とともに歩んできた墨田区
東京日本の国技・大相撲興行とともに歩んできた墨田区
まいどまいど! 日本の国技を代表する相撲興行のおひざ元として知られる東京都墨田区横網。 地名もどことなく相撲を連想させられるような横網ともなってまんねやけど、ここでは両国国技館だけやく、ぎょうさんの力士が所属する相撲部屋が各地に点在しているなど、古くから相撲と歩んできた歴史があり、今日もぎょうさんの相撲ファンが当地を訪れている。 ここの最寄は両国駅で、駅を出ると、両国国技館で活躍する力士を模した像が国技館通りに建立され、来場者を楽しませてくれる。 ほんでまた両国という場所は相撲との関わりが深いだけでなく、置き去りを意味する「置いてけぼり」の語源の発祥とされる本所七不思議と呼ばれる奇談・怪談の1つである「両国物語 置いてけ堀・御竹蔵跡」も語り継がれてはりまんな。 さらに、今、日本国民だけでなく世界的に愛されてきた寿司という料理も実は領国が発祥の地とされ、ワサビを使用した握り寿司を考案した与兵衛鮨発祥の地の碑も建立されてまんねん。 っちゅうことで、両国は相撲あり、置いてけ堀あり、寿司あり・・・で、まさに日本文化の原点。 そんな両国をとことん散策し、日本の原点を探しにお出かけしまひょ!
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正式名称は、国技館。 愛称は、大屋根が巨大な傘に見えたことから、大鉄傘。 日本相撲協会が主催する相撲興行・大相撲を行うための施設。 その他、ボクシング、プロレスリングなどの格闘技の試合、一般企業の株主総会の会場等に使用されることも。 番付では、旧字体で國技館と表記。 1833年、諸宗山無縁寺回向院で相撲興行が催されていた。 1909年、同境内に旧国技館にあたる「常設館」が建設。 設計は、辰野金吾と葛西萬司。
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辰野金吾
辰野金吾は、日本銀行本店や東京駅、浜寺公園駅を設計。 日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築の建物が完成。 屋根は法隆寺金堂と似た形状。 旧国技館は当時、東洋一の規模の建物として称えられた。 1944年、大日本帝国陸軍に接収され、風船爆弾の工場として使用。 このため、場所を後楽園球場(小石川後楽園球場)に移し、土俵作りが行われた。 1945年、東京大空襲により焼失。
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日本初の公開プロレス
1951年、日本初の公開プロレスが開催され、大相撲を廃業した力道山がプロレスデビュー。 1958年、日本大学が日本相撲協会から旧国技館を買収、1982年まで日本大学講堂となった。 当初、設立委員会委員長の板垣退助が「尚武舘」と提案したが、作家の江見水蔭による「角力は日本の國技なり」という一文を元に「國技舘」と提案。
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日本相撲協会 国技館カレー
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1993年、江戸と東京の歴史や文化を伝える博物館として開館。 小金井市の小金井公園内に江戸東京たてもの園は分館とする。 ここでは、失われていく江戸、東京の歴史と文化に関わる資料を収集、保存、展している。 設計は菊竹清訓。 1階に企画展示室、3階に江戸東京ひろば、5階と6階に常設展示室があり、江戸ゾーンと東京ゾーンに分かれている。 江戸ゾーンでは絵図、浮世絵などの資料や、日本橋、中村座、長屋などの模型、千両箱などの展示があり、庶民の日常生活、火消し、食生活、文化など、城下町としての江戸に関する展示が行われている。 東京ゾーンでは明治維新、文明開化、関東大震災、東京大空襲などの展示がある。
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戦国時代から江戸初期にかけて活躍した戦国武将の一人。 江戸に幕府を開いた偉人として知られ、江戸東京博物館前には像が建立されている。 像に使用されている台座は、亀に似た幻獣・贔屓(ひき)で、重荷を背負うことも耐えられるとか。 また、亀の姿は、河川の多い江戸の町に因み、「水の神」ともいわれる亀の存在をかけたもの。 贔屓の上には、15代続いた徳川幕府に因んだ台座は15段。 その上には、家康が好んだ鷹と鷹狩り装束の立像が建立されている。
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江戸時代、江戸幕府の御米蔵である本所御蔵があった。 別名、御竹蔵。 1734年、12棟88戸前の倉庫群が造られた。 1858年、37棟246戸前の増築がなされた。 また、隅田川から続く舟入の堀が設置されていた。 近年の発掘調査により、御蔵の一部である掘割や護岸の跡、徳川家の家紋である三葉葵紋の瓦も出土したとか。 その他、近代の建物跡や「陸軍被服廠(衣料品を取り扱う施設)」と書かれた木製の荷札が発見された。
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日本の小説家として活躍した舟橋聖一氏。 1904年、生まれ。 キリストの降誕日に因み、聖一と命名。 旧制水戸高等学校、東京帝国大学文学部卒。 弟は脚本家の舟橋和郎。 父はドイツ留学し、神奈川県腰越長山に転居。 東京都文京区、東京都新宿区などに転居。 大学在学中、「朱門」の同人になり、四代目河原崎長十郎や村山知義らと共に劇団「心座」の旗揚げに尽力。 1926年、「新潮」に戯曲「白い腕」を発表。 明治大学で教授を務めた一方、雑誌「行動」に参加して「ダイヴィング」、「文學界」に発表した小説「木石」を執筆。 行動主義、能動精神運動の中心となり、行動的ヒューマニズムによる現実改革者としての地位を確立。
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横綱審議委員会
戦後、風俗小説で流行作家となり、作家連合の「伽羅(キアラ)の会」を結成、「風景」を創刊。 日本文芸家協会理事に選出、著作権問題の解決に尽力。 幼少期、相撲好きで、横綱審議委員会の委員を務めた。
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小島の浮かぶ心字池を木々と散策路が囲む潮入り回遊式庭園として整備された大名庭園。 雪見灯篭が配置され、池には鯉、亀が解放されている。 江戸時代、本庄松平氏(常陸笠間藩、のち丹後宮津藩)の下屋敷。 本庄宗資により大名庭園として築造され、隅田川の水を引いた潮入回遊庭園として整備された。 明治時代、旧岡山藩主池田章政の邸宅となった。 1889年、安田財閥の祖である安田善次郎の所有となった。
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飲食店や居酒屋等が並ぶ商店街。 両国には古くから国技館、両国国技館があり、大相撲の興行が行われてきた歴史を持ち、大相撲との縁が深い。
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日本刀専門の博物館である。 刀剣・刀装・刀装具類を収蔵・公開する。 1948年、日本刀を保存継承するために、日本美術刀剣保存協会が設立された。 1978年、刀剣博物館が開館。 2017年、渋谷区にあった旧刀剣博物館が閉館。 2018年、新刀剣博物館が開館。
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主にべっ甲を展示、公開している施設。 べっ甲工芸は奈良時代から行われてきた伝統工芸技術の一つ。 江戸時代、儀式用の装身具として使用された。 現代、アクセサリー、インテリアまで多くの幅広い分野で使用されている。 材料は亀の甲羅「タイマイ」。 くし、かんざし、こうがいなども展示、公開している。
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東京都立の公園である。 1922年、かつて、陸軍被服廠があったが東京都北区に移転し、公園として整備。 1923年、関東大震災が発生し、避難場所として被災者が集まった。 地震の発生により火災となって家財道具などに火が燃え移り、火災旋風が発生。 荷物や馬車まで巻き上げ、炎に包まれた結果、38000人が犠牲となり、遺骨は慰霊堂に収容された。
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歴史
1930年、建築家・伊東忠太の設計の元、関東大震災による遭難死者の遺骨を納める納骨堂(三重塔)や慰霊堂が建てられた。 また、公園としても開園し、関東大震災の惨劇とそこからの復興を後世に伝えるため、復興記念館が完成した。
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1945年、第二次世界大戦により東京大空襲となり、犠牲者が埋葬され、「震災記念堂」に合祀されることになった。 「東京都慰霊堂」に改称し、現在に至る。
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置行堀(おいてけぼり、おいてきぼり)は、当地を舞台とした本所七不思議と呼ばれる奇談・怪談の1つ。 置き去りを意味する「置いてけぼり」の語源。 江戸時代、当地周辺には水路が多く、町人たちが錦糸町あたりで、釣り糸を堀に垂らしたところ、よく釣れた。 夕刻、帰宅しようとすると、堀の中から「置いていけ」という声が聞こえ、恐怖に駆られて逃げ帰った。 帰宅して魚籠を覗くと、大漁であった魚が一匹も入っていなかった。 東京・堀切駅付近には、置いてけ堀と呼ばれる池があり、ここで魚を釣った際、3匹逃がすと無事に帰宅できるが、魚を逃がさないと迷子になったり、釣った魚を全て取り返されたりするという千住七不思議の一つ。
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仕業はカッパ?タヌキ?
仕業は河童とされ、墨田川をはじめ、向島の源森橋、江東橋の錦糸堀、仙台堀(仙台堀川)などに河童の伝承がある。 また、仕業は狸とされ、多聞寺に狸塚が存在することから。 その他、「狸囃子」「燈無蕎麦」「足洗邸」など、狸にまつわる話が他にもあるという。
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東日本旅客鉄道(JR東日本)中央線と総武線、東京都交通局(都営地下鉄)都営大江戸線の停車駅の一つ。 1904年、総武鉄道が両国橋駅として開業。 日本の鉄道では初めてとなる高架区間であった。 垂れ流し式のトイレからの汚物が沿線に被害を及ぼすことを避けるため、本所より西側ではトイレの使用が禁止された。 2015年、長距離列車の発車ホームとして使用された3番線の通路が両国ステーションギャラリーとしてリニューアルオープン。 ここでは、両国駅の歴史や両国駅周辺の歴史、過去に使用されていた列車の写真や資料の展示、公開を行っている。
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国技館通り
国技館と回向院を結ぶ国技館通り。
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国技館通り
回向院にはかつて旧国技館が存在していた。
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国技館通り
国技館通りには多くの力士像が建立されている。
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国技館通り
国技館通りには多くの力士像が建立されている。
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勝海舟の生誕地。 武士、政治家等として活躍。 山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれた。 1823年、生まれ。 幼名は麟太郎。 諱は義邦、明治維新後、改名して安芳。 幕末、武家官位「安房守」を名乗り、勝 安房として知られていた。 維新後、「安房」を避けて「安芳」に代えたもの。 勝本人は「アホゥ」とも読めると発言。 海舟は号で、佐久間象山直筆の書、「海舟書屋」からとったもの。 島田虎之助に入門、剣術・禅を学び、直心影流剣術の免許皆伝となる。 家督を継ぎ、永井青崖に蘭学を学び、赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。
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渡米後
長崎海軍伝習所に入所、咸臨丸で渡米。 帰国後、軍艦奉行並となり、神戸海軍操練所を開設。 戊辰戦争時、幕府軍の軍事総裁として徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張。 明治維新後、参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任、伯爵に叙せられた。 1873年、福沢諭吉らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。 足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、東洋大学や専修大学の繁栄にも尽力。
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吉良義央の邸宅跡で、稲荷社や井戸、桜の木などが植樹。 吉良上野介の屋敷は、鍜治橋の屋敷を拝領していた。 松の廊下の刃傷事件後、幕府の命によりに御用地となり、松平登之助の屋敷に移住。 江戸時代、付近一帯は吉良義央の邸宅であり、その広さは約8400平方m(2550坪)程度。 邸宅は、赤穂浪士によって討ち入りが決行され、赤穂事件の現場となった。 赤穂事件とは江戸時代、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介義央を斬りつけたとして、切腹に処せられた。 浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央、小林央通、鳥居正次、清水義久らを討った。
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現在
以後、敷地は幕府に没収され、宅地開発。 ここでは、忠臣蔵に基づいた各種の展示の他、赤穂事件による吉良家家臣の石碑や吉良上野介追慕碑、吉良上野介義央公座像が建立。
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1700年代、中島伊勢は幕府用達の鏡磨師。 浮世絵師の葛飾北斎となる時太郎を養子とした。 赤穂事件(忠臣蔵)後、町人に払い下げられ、本所松坂町となった場所に住居を構えた。 葛飾北斎は、中島八右衛門を通称とした。
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塩原太助は、三遊亭円朝の「塩原多助一代記」で有名な江戸時代の豪商。 1743年、群馬県みなかみ町生まれ。 幼名は、彦七。 1761年、江戸に出た。 1785年、炭屋山口屋で奉公。 後に独立し、木炭の粉に海藻を混ぜて固めた炭団を発明し、大商人に成長。 以後も、私財を投じて道路改修や治水事業などを行った。 「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほどの成功を収めた。
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日本相撲協会に所属している相撲部屋の一つ。 現存する部屋としては横綱を最多の9人を育て、協会理事長を3人が務めるなど相撲界随一の名門。 当地は出羽海一門の本家で13の相撲部屋から構成。 初代出羽ノ海は寛政の前頭筆頭・出羽海運右エ門。 出羽ノ海部屋を設立し、大関・市野上浅右エ門らを育てた。 1917年、部屋所属の力士が10場所連続で優勝。 1922年、5代が逝去、6代は「ノ」を取り除き、出羽海となる。 1931年、番付の西方の20人全てが出羽海部屋の幕内力士で占め、隆盛を極めた。
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出羽海部屋
1900年から1959年までの60年間、138場所にわたって三役力士在位を記録。 1999年、部屋所属力士の幕内連続在位が101年で止まる。 1898年、常陸山が十両へ昇進して以来、関取が112年ぶりに部屋から途絶えた。 歴代の出羽海は日本相撲協会の要職を担い、筆頭取締、理事長、理事を務めた。
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東京都墨田区内を流れる隅田川に架かる橋の一つ。 江戸時代、当地は低湿地であったため、本所の開発を計画した。 洪水の被害を最小限に抑えるため、排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土は陸地の補強、嵩上げに利用した。 1659年、堅川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名された。 堅川の両岸には多くの商家や土蔵などが立ち並び、多くの人で賑わった。 また、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋であるとか。
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日本相撲協会に所属している相撲部屋の一つ。 1925年、出羽海部屋所属の横綱・栃木山が引退。 自身の養父である行司・木村宗四郎が所有する年寄名跡を継承して年寄・8代春日野を襲名。 出羽海部屋から独立し、春日野部屋を創設した。 開祖の栃木山に因み、四股名に「栃」と名乗る力士が多い。 2017年、高砂部屋所属の関取が1878年以来138年ぶりに不在となって以降、関取が最多となっている。 2018年、栃ノ心が幕内最高優勝し、46年ぶりの優勝力士が誕生した。
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1824年、華屋 與兵衛によって江戸三鮨のうちの一つ「与兵衛寿司」が開業した。 1799年、東京都中央区生まれ。 別名、小泉與兵衛、花屋與兵衛。 幼名、弥助。 ワサビを使い、現在の寿司の原型となる握り寿司を考案した。
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別称、本所回向院。 諸宗山 無縁寺 回向院。 山号は諸宗山。 宗派は浄土宗。 本尊は阿弥陀如来。 1657年、創建。 1657年、振袖火事と呼ばれる明暦の大火の焼死者を葬った万人塚が始まり。 人だけでなく、動物すべてのを供養するという理念から、軍用犬・軍馬慰霊碑、猫塚、唐犬八之塚、オットセイ供養塔などの慰霊碑、供養碑がある。 徳川家綱は、愛馬を供養した。 1793年、老中・松平定信の命によって水子塚が造立され、水子供養の発祥とされている。
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旧国技館
1781年、境内で大相撲の起源となる勧進相撲が興行された。 1909年、旧国技館が建てられた。 1936年、大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立。
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花火の歴史や技術に関する展示、公開している博物館。 1733年、両国の花火大会「両国川開き」が始まった。 1961年、終了した。 1978年、「隅田川花火大会」として復活した。 1991年、両国は日本の納涼花火大会発祥の地として知られ、両国花火資料館が開館した。 ここでは、隅田川花火大会の歴史、花火玉、花火師の舞台衣装などが展示されている。