宗右衛門町で遊び、島之内で学ぶ
大阪宗右衛門町で遊び、島之内で学ぶ
まいどまいど! 日本最大規模の繁華街として知られるミナミでおまっせ。 ミナミとは俗に大阪市中央区の心斎橋、道頓堀、難波やその周辺のことを指しまんな。 まあせやけどここには、全国的に有名なくいだおれ太郎をはじめ、グリコやかに道楽、づぼらやなどの”にぎやか”で”華やか”な看板がぎょうさん目立つ界隈として知られてはりまんな。 ちなみに、キタとは、大阪市北区の梅田から中之島やその周辺のことを指し、ここには、西日本最大のターミナルとして有名な大阪・梅田駅がある他、梅田スカイビル、グランフロント大阪などの超高層ビル、大阪市役所などがある大阪市の中枢のエリアとして知られ、それぞれ、大阪市内の中心部にある船場の北船場、南船場から派生したと言われてまんねん。 そんな日本最大規模の繁華街として知られるミナミの一角に宗右衛門町と呼ばれる繁華街がおまして、ここにはレストランをはじめ、居酒屋などが立ち並んでまんな。 そのほか、島之内では道頓堀ゆかりの安井道頓・道卜、そして、住友財閥ゆかりの場所があり、歴史的にも文化的にも重要なエリアとして位置づけられてまんねん。 さあ、宗右衛門町と島之内を散策していきまひょ!
地名の由来は、道頓堀川開削に関わった人物の一人である、山口屋宗右衛門から。 江戸時代初期、道頓堀川開削とともに、道頓堀川の北岸に町家が建ち並んだことが、町の原型となった。 昭和時代初期、花街として発展していた。
宗右衛門くん
日本最大の繁華街・ミナミの中心地に位置する宗右衛門町のイメージキャラクター。 宗右衛門町の魅力をアピールしている。
南端が堀止になっていた東横堀川と西横堀川。 その二つの川を木津川へ結ぶ開削を開始した。 久宝寺(摂津国住吉郡平野郷)に住む商人の安井成安(通称は市右衛門、後の道頓)が新川奉行に任命。 大坂の陣で道頓が戦死したため、従弟の九兵衛(安井道卜(どうぼく))や安藤藤次(平野藤次)らが引き継ぎ、1615年に完成した。 当初は新堀・南堀川・新川などと呼ばれていたが、大坂城主の松平忠明が道頓の死を追悼し、また、相当な私財が投じられたことや功績を鑑み「道頓堀」と命名した。 「九郎右衛門町」、「宗右衛門町」などの人名のついた各町は安井家出入りの百姓で、この時開発の衝にあったものの名に因んだものであるという。
山号は志宜山。 高野山真言宗・準別格本山。 通称、日本橋聖天。 大阪七福神の一つに数えられ、多くの人が参詣に訪れる。 本尊は、薬師如来。 聖観音・歓喜天(聖天)・不動明王・弘法大師、弁財天・不動明王・地蔵菩薩などを祀る。 聖徳太子が大阪市城東区鴫野に法案寺を建立。 神仏習合により、生玉明神と習合して神宮寺の別当となったが衰退。 松永政廣が称光天皇の勅命を受け、再興。 法案寺第3世・正教が蓮如に帰依した為、蓮如が法案寺の敷地に石山本願寺を建立、後に寺地を譲渡。 大阪城の法円坂付近に位置していたが、生玉明神とともに生国魂神社に移転。 明治時代、神仏分離により法案寺住職・栄達は当地に復興再建。
大阪市中央区内を流れる道頓堀川に架かる橋。 道頓堀1丁目と島之内2丁目とを結ぶ。 土木学会関西支部「浪速の名橋50選」に選定。 江戸時代、近松門左衛門の戯曲「生玉心中」の舞台ともなった。 付近には大和橋と中橋が架かっていた。 大和橋が廃され、上大和橋が架けられたことにより、中橋が下大和橋に改称。 1928年、架橋以来木橋であった。 1987年、現在の橋に架橋。
1729年、石田梅岩を中心に心学が活発となる。 1785年、大坂の明誠舎は、梅岩の孫弟子井上宗甫によって開かれた。 1790年、明誠舎や静安舎、倚衡舎、恭寛舎、敦厚舎が設けられた。 1938年まで当地にあった。
江戸時代、日本は世界有数の銅産国だった。 大阪市中央区にあった住友長堀銅吹所は日本最大の銅精錬所であった。
住友銅吹所
1876年、銅吹所が廃止され跡地は住友家の邸宅となり、東側にビリヤード場が建てられた。 独立建物のビリヤードとしては、わが国最古のものである。
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江戸時代、綿花は摂津・河内・和泉地域の主要作物の一つであった。 綿花の種子を取り除いた未精製の状態を繰綿と呼び、需要の多い商品の一つで、大坂市中の商人による先物買いの対象ともなっていた。 1787年、繰綿延売買会所は、繰綿の信用取引を行う会所として設置されていたが、信用取引の進展が市場価格の下落を招いたことで、大坂奉行所によって廃止された。
大阪市中央区瓦屋町2丁目と島之内2丁目を結ぶ。 橋の東詰一帯は西成郡西高津村領内に属していた。 1615年、御用瓦師の寺島惣左衛門がその一部を拝領し、1694年には南瓦屋町(現在の瓦屋町)として大坂三郷に組み込まれた。 当地周辺は古代より良質の粘土が取れ、江戸時代には瓦生産の中心地であった。 また、現在の大阪市立中央小学校付近には土浦藩が蔵屋敷を置いていた。 瓦屋橋は元禄時代には架けられていたとされ、約15年の間隔で橋が架け替えられた。
主祭神は、仁徳天皇である。 866年、遷都された難波高津宮の遺跡の探索がきっかけで、仁徳天皇を祀ったのに始まる。 1583年、比売許曽神社を地主神として摂社とした。
相合坂と西坂
明治時代、氏子の土地奉納によりできた坂で、別名「縁結びの坂」と呼ばれている。 この坂は、横から見ると二等辺三角形となっており、男女が両側から登って坂の上で出会うと相性が良い、幸せになったことから、知られるようになった。 ただし、反対に位置する西坂は、縁切り坂と呼ばれている。 高津宮参詣の際には注意が必要。
大阪市歌
大阪市歌にでてくる「高津の宮」は、高津宮がもとになったと言われている。 1921年、全国からの応募により選ばれ、大阪市歌が制定された。 歌詞は、1番から3番まである。
1692年、吉助氏は、植木屋を創業。 約3000坪の広大な敷地には、庭園を造営。 初夏の牡丹、晩秋の菊などのために花壇が設けられ、観賞用の座敷や四阿も建てられていたとか。 そのため、遠方からも見物客が訪れ、にぎわっていたとか。 「植木屋吉助」は、和漢の名木を船で各地に発送、江戸でも評判となった。 明治時代、松井吉助氏が植木商を続けていたが、廃業。
1772年、仁徳天皇の詠まれた「民のかまど」を偲ぶ碑として建立。 「高き屋にのぼりて見れば煙たつ 民のかまどは賑いにけり」 仁徳天皇は、日本最初の本格的な首都として大阪市中央区に難波宮を造営。 仁徳天皇は高殿より街を一望し、民が貧しいことを悟った。 その後、租税を免除し、3年後に一望すると、民の暮らしは豊かになり、あちこちの民家から煙が立ち上っていたとか。
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1877年生まれ。 1920年、解説註釈大近松全集を刊行した。 この作品では、近松門左衛門の出身や、経歴・人格などを考証した内容である。 以後、文楽今昔譚や浄瑠璃研究書、私の近松研究など、浄瑠璃関連の学術書を出版している。 幹事長として「大阪史談会」を設立した。
古典落語である「高津の富」や「高倉狐」、「祟徳院」の舞台として知られる。 境内の参集殿は「高津の富亭」と呼ばれ、落語の寄席や文楽などが行われている。 寄席では五代目桂文枝一門が深く関わる。
郡戸王子は、熊野古道九十九王子の3番目。 九十九王子とは、紀伊半島にある熊野古道沿いに鎮座する神社のことで、参詣者は安全祈願などを行った。 大阪市内には、窪津王子、坂口王子、郡戸王子、上野王子、阿倍王子、津守王子が存在する。 ただ、推定地とされているため、確証はなく、高津宮はその跡地とされている。
北野恒富氏は、世絵師、日本画家、版画家。 本名は北野富太郎。夜雨庵とも名乗っていた。 1880年、石川県金沢市生まれ。 加賀藩士族・北野嘉左衛門の3男。 月刊新聞「新日本」にて挿絵画家としてデビュー。 1901年、藤村歌と結婚、大阪新報社に入社。 展覧会への初出品作「揚げひばり」をはじめとして、「すだく虫」「賃仕事」「日照雨(そばえ)」などが入賞。 後に「恒富風美人画」を確立した。
かつてこの付近を梅川が流れていた。 別名、梅津川とも呼ばれ、道頓堀川へと流れていた。 高津宮が鎮座する上町台地は、名水が湧く場所として知られ、その湧き水の一つが梅川の水源であったと言う。 1768年、梅乃橋は天満九丁目の長浜屋五兵衛により奉納された。 また、梅乃井があり、谷町筋あたりを梅ヶ辻と呼んでいた。 献梅祭では梅園を抜けて公園を回り、梅乃橋を渡って本殿へ向かう。
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1616年、本山本法寺の信徒・矢倉法順が、娘である徳川二代将軍秀忠の側室の安産を機に秀忠から土地を拝領され、正法寺を開いた。 英国の外交官で、江戸時代から明治時代にかけて駐日英国公使を務めたサー・ハリー・スミス・パークスが宿泊。 日本名は佐藤 愛之助(または薩道愛之助)。 付近の旧本覚寺ではアーネスト・サトウが宿泊。 両者ともに来日中は、薩摩藩・長州藩と接近し、高杉晋作と会談、鹿児島や土佐を訪問し、徳川慶喜に謁見した。 兵庫の開港を進言し、廃藩置県に携わる傍ら、江戸幕府を倒幕させ、明治新政府を樹立させる政治路線に影響を与えた。
サー・ハリー・スミス・パークス
サー・ハリー・スミス・パークスは、イングランドのウェスト・ミッドランズのブロックスウィッチで鉄工場主の長男として生まれた。 中国語の通訳などを行っていた。 アーネスト・サトウは英国の外交官で英国公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。
上本町界隈で見つけた一軒の行列のできる人気のラーメン屋さん。 ここは、鶴橋駅界隈にある辛口炙り肉ソバ ひるドラ鶴橋店 大阪府大阪市天王寺区舟橋町18―3 の姉妹店。
行列の先に
朝11時に開店なので、10時半から付近を散策し、11時の10分前に店先に並んだ。 「店先で列に並んでお待ちください」と柵が設けられ、暑い時期でしたので、無料でお茶をいただく。
塩のトキメキ
塩のトキメキは、レアチャーシュー、地鶏のたたき(柚子風味)、味玉付き。 ちなみに一番人気は塩のキラメキであるとか。 塩のキラメキは、地鶏のたたき(柚子風味)、味玉1/2個付き こだわりのスープには鶏と蛤を使用しているといい、醤油や味噌とはまた違った独特の香りが特徴。 あまりの美味しさに、キラメキ・トキメキ、間違いなし!
1598年、真如院日信により創建。 1773年、鐘楼が建立。 薩摩藩御用商人・薩摩屋半兵衛の外護を受け、新選組に追われていた坂本龍馬が一時的に身を隠した。 オランダ人の在日医師として活躍したアントニウス・フランシスカス・ボードウィンが寓居として逗留し、大阪仮学校、大阪陸軍病院に勤務する傍ら、東京、大阪、長崎で蘭医学を広め、物理学や化学など養生所の基礎科学教育の充実に努めた。 江戸幕府・明治政府に医学・理学学校の建設を提言。 上野(東京都台東区)の自然が失われることを危惧して一帯を公園として指定することを提言(上野恩賜公園)。 日本初の検眼鏡を導入。 1945年、大阪大空襲によって焼失。
アントニウス・フランシスカス・ボードウィン
1820年、オランダドルトレヒトで生まれ。 ユトレヒト陸軍軍医学校とユトレヒト大学医学部で医学を学び、オランダ陸軍に入隊。 ユトレヒト陸軍軍医学校で教官を勤めた。 来日し、ポンペの後任として長崎養生所の教頭に就任。
1842年生まれ。 武市瑞山、通称、半平太の土佐勤王党に加わる。 藩を脱藩した土佐浪士達は進退に極まり、大坂に隠れ潜んだ。 土佐勤王党の残党である大利鼎吉、田中光顕、大橋慎三、池田応輔と善哉屋を営む石蔵屋政右衛門(本多内蔵助)らは、大坂市街に火を放ち、其の混乱に乗じて大坂城を乗っとるという計画を立てた。 1865年、万福寺(大阪市天王寺区)に屯所を置いていた大坂新撰組は、土佐藩浪士の不穏な情報を得、大坂出身の新撰組隊士の谷万太郎は谷三十郎、正木直太郎、阿部十郎を連れ、襲撃を実行。 そのとき、多くの浪士は外出中で、部屋にいたのは、店主で石蔵屋政右衛門(本多内蔵助)と大利鼎吉の2人のみであった。
大利鼎吉
1898年、大利鼎吉には正五位を贈られている。 石碑には、「ちりよりも かろき身なれど大君に こころばかりは けふ報ゆるなり」と刻まれている。 浪士の潜伏先がぜんざい屋であったことから、「ぜんざい屋事件」と呼ばれる。
瓦屋町という町名の由来は1615年に瓦師の寺島惣左衛門が徳川家康より当地を拝領したことに因む。 寺島惣左衛門の先祖は紀伊国粉川寺島(和歌山県紀の川市)出身の瓦職人頭で、寺島という姓はこれに由来する。 寺島惣左衛門は配下の瓦職人をここに住まわせ、大阪城の再建に尽力し、御用瓦師として独占的な地位を確立したという。 後に徳川家と縁故の深い寺島藤右衛門、尼崎屋又右衛門、山村与助は大坂三町人と呼ばれるようになった。 寺島藤右衛門は江戸馬腹より瓦土取場が与えられ、その場所は瓦屋藤右衛門請地と呼ばれるようになった。
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初代中村富十郎は、初代芳澤あやめの三男。 兄に二代目芳澤あやめ、弟に三代目芳澤あやめ。 初名は芳澤崎彌。 初代中村富十郎と薬王寺。 幼少期、初代中村新五郎の養子となり、舞踊は初代中村京十郎、地芸は父の初代あやめの薫陶を受ける。 1719年、色子として舞台に立つ。 江戸に移り、中村富十郎の名で市村座を勤める。 京都の都万太夫座で座本となる。 「極上上大吉」と評され最高位、「古今無類の妙 大至極上上吉」「歌舞伎一道総芸頭」に置かれた。 時代物と世話物を兼ね、若女形を本領としたが、立役も勤めた。 江戸中村座で演じた「京鹿子娘道成寺」は人気を博した。 八文字屋自笑編により「慶子画譜」を出版。
1864年、信濃国上田城下生まれ。 上田藩校明倫堂の後身校「松平学校」を卒業。 早稲田大学法律学科卒業、東京大学大学院法学政治学研究科修了。 在学中、穂積陳重の指導を受けて監獄制度に関心を持ったという。 法学博士号(東京帝国大学法科大学)授与。 内務省警保局監獄課に所属し、ドイツに留学しながら監獄状態を視察、警視庁典獄(監獄長)となった。 「未成年者に対する刑事制度の改良に就いて」で法学博士となり、監獄学の講師を務めた。 清国政府に招かれ獄制改革を指導。 帰国後、大阪府の救済事業指導嘱託となり、国立感化院院長事務取扱を経て、方面委員制度(民生委員の前身)の確立に尽力。
1877年、岡山県倉敷市生まれ。 上京後、上野書籍館と漢学塾二松學舍(二松學舍大学)に通学。 帰郷後、作詩を「新著月刊」に投稿し、後藤宙外、島村抱月らに絶賛された。 以後、島崎藤村、土井晩翠らに続く蒲原有明とともに活躍。 「茶を飲みながら喋る気楽な世間話」と言う意味が込められた「茶話」の連載を開始。 大阪毎日新聞社学芸部部長に就任、兵庫県西宮市に移住し、自邸を「雑草園」と名づけた。 選抜高等学校野球大会歌を作詞。 「金剛山の歌」は、「新小説」に発表した作品で、本長寺に仮寓していた頃、毎朝早く起きて付近を散歩し、華やかな朝日を浴びて金色に輝く葛城山嶺に感動して歌ったもの。
境内には田中金峰が眠る。 1844年、大阪市中央区北久宝寺町生まれ。 名は楽美金峰。 通称は右馬三郎。 幼少期、蔵書を読み漁り、自身で辞書を引くなど勉学に励んだ。 14歳の頃、父に代わって門生に「左伝」の講義を行った。 15歳で医学寮を設立。 漢方の施薬院では自身の蔵書を売り払い、経済的に貧しい人々に無料で治療を施した。 18歳で逝去。 代表作は江戸時代から明治時代にかけての当時の大阪の名所や風俗の様子を描いた「大坂繁昌詩」。 人々は「あなたは神童だ、人の及ばぬものを五つ持っている、一に従順で親孝行、二に慈悲深く人を憐れむ、三に博覧強記、四にもの静かで謙遜家、五になかなかの美男子だ」と絶賛。
本政寺境内にある石灯籠。 本政寺は江戸時代、大坂城代松平忠明が大坂城下の整理再編を行った際、城下にあった仏教寺院を郊外に移転させた。 このとき、当地付近には多数の寺院が集まり、寺町が形成されたという。 1616年、日秀上人が開山。 年に1度公開される秘仏「日蓮聖人座像」がある。 また、相撲の大阪場所の際には境内の一部を大鵬部屋に貸していたという。
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別名、水の寺。 1615年、善行院日政上人によって開山。 かつては京都の頂妙寺の末寺であった。 境内には仁徳天皇献茶水(高津宮)縁の古井戸があり、その2つからは清水が湧き出している。 室町時代に建造された鐘楼堂の梵鐘を保存。 境内には、115歳で逝去した儒学者の一井鳳悟が眠る。 一井鳳悟は、雲州(島根県松江市)生まれ。 名は先宣、字は桐助、別号桐吾。 青年時代、学者を志して京に出て、江戸に移って林羅山に師事した。 大坂の両替町(大阪市中央区)で開塾。 当時、儒学の講義で多くは素読であったといい、鳳梧は孔子や孟子の文言を現在の社会情勢に置きかえて、常に討論を勉学の根幹とした。 著書は、鳳梧論説。
1817年、豊前国宇佐郡の敷田村(現在の大分県)の二葉山神社の祠官宮本兼継の次男として生まれた。 以後、四日市町蛭子神社祠官吉松家の養子となった。 郷里の大儒の帆足万里、渡辺綱章らに学び、和学講談所の教官となる。 1863年、江戸の和学講談所に出仕、大阪に移住後、佐土原藩主島津忠寛に仕えた。 伊勢の神宮皇学館の設立に関わり、教頭に就任。 1888年、堀江に私塾「百園塾」を開塾させ、1897年に上本町に移転。