
町工場が密集する大阪府守口市。かつての守口宿で江戸時代を偲ぶ。
大阪町工場が密集する大阪府守口市。かつての守口宿で江戸時代を偲ぶ。
まいど! 大阪市に隣接し、商業のまち・産業のまちとしての両面を持つ大阪府守口市を散策しまひょ! かつては、東海道五十七次の一つにも数えられる宿場町「守口宿」が存在した。 江戸時代に存在した宿場町とその付近では、当時の名残をそのままとどめている場所もあり、江戸時代の雰囲気を今に伝えている。 また、付近には、淀川が流れていたとされ、堤防「文禄堤」の名残も。 さらに、大塩の乱で知られる大塩平八郎や小説家・推理作家として知られる江戸川乱歩、菅原道真ゆかりの地として知られ、大塩平八郎の書院跡には石碑が、江戸川乱歩の住居跡、菅原道真が太宰府への左遷の途中に立ち寄ったとされる神社も。 その他、岸和田市を中心に注目を集めるだんじり祭りの熱気は大阪府全域に広がりつつあり、5月には守口市でだんじり祭りを見物することができる。 威勢のいい掛け声に自慢の装飾で御神輿が躍り、見物客を楽しませる。 だんじり祭りの主会場付近には京阪百貨店。 かつては京阪電車の車庫が存在していたため、碑が建立されている。 歴史的にも文化的にも色濃い、大阪府守口市。 さあ、さっそく、皆さんにご案内していきまひょ!
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江戸時代、宿場「守口宿」として栄えていた。 守口宿は、大坂を出て最初の宿場であり、東海道五十七次の57番目に数えられる。 1616年、大名・幕府役人・勅使・宮門跡等が宿泊する公認の宿舎に指定された。 守口宿から枚方宿へは馬継ぎ、舟運等、移動手段がなく、徒歩で移動していた。 淀川の舟運が発展していくにつれ、宿場は衰退したが、清滝街道(現在の国道163号)の分岐点であったため、旅籠や茶屋が建ち並んだ。 特産物は、守口漬。 周辺は淀川左岸の堤防「文禄堤」など宿場町の名残を今に伝える。
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大雨等により淀川が氾濫し、洪水が頻繁に発生した。 1594年、洪水の発生を防ぐため、豊臣秀吉が諸大名の毛利輝元、小早川隆景、吉川広家に命じて建設した。 文禄年間に建設されたため、文禄堤と呼ばれている。 1596年、完成し、現在の大阪府枚方市から大阪市長柄までの約27kmを結ぶ。 堤防道は大阪と京都を結ぶ京街道(または大坂街道)として利用された、
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江戸時代、大塩平八郎は、陽明学者で大坂東町奉行所の与力として活躍した。 守口近郷の農民に陽明学を講義した。 白井家の隠居所としても知られ、当主の白井孝右衛門は、大塩の私塾「洗心洞」の有力門人として経済的な支援を行った。 1837年、大塩平八郎の乱に参加した一人。
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祭神は、天之御中主神。 聖武天皇の勅願により行基が高瀬里に鎮座した。 南北朝時代、足利氏と楠木氏の戦場となった。 応仁の乱では畠山氏、三好氏などの同族争いの場となった。 1570年、三好3人衆が四国より侵入、織田信長に味方した三好義継、畠山昭高らを攻めた。 1574年、佐久間信盛が河内の三好氏、一向一揆勢と戦った。 高瀬神社、高瀬寺が荒廃する。 江戸時代中期、高瀬神社が再興。
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高瀬川
行基は高瀬付近で高瀬川(旧淀川)に架けた高瀬大橋とその橋を管理する高瀬橋院を建立。 高瀬川は、古歌にもうたわれ、平安時代には高瀬の淀、江戸時代には守口川とも呼ばれていた。
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1918年、網島より、守口車庫と車両工場を移設、竣工。 1972年、守口から寝屋川までの信号所間の複々線高架化に伴い、車庫と車両工場を寝屋川市へ移設し、撤去した。 跡地には、京阪百貨店、駅前広場「カナディアンスクエア」が整備された。
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落ち着いた雰囲気の店内にカウンター席とテーブル席の2種類。
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大盛り無料のカツ丼
サラダを追加すると、100円プラス。 丼のなかは、ふわふわの玉子にカツが乗って、ボリュームたっぷり。 甘い食感があった。 カツサンド、定食など、いろんな楽しみ方があるとんかつ専門店。 丼や定食など、予算は、880円から1500円程度。
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京阪電車守口市駅下車すぐの広場ではイベント「守口市だんじり祭り」が開催された。 取材した当日は朝から晴天に恵まれ、駅を出た頃にはだんじり囃子が鳴り響いていた。 すでに広場には、守口市内各所に保存されただんじり神輿が集結。
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自慢の装飾に高鳴る鼓動。
近くで見ると、デザインだけでもかなりの迫力。
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岸和田だんじり顔負けのパフォーマンス
道路奥から、だんじり神輿を前に傾かせて、よい♪よい♪よい♪よい♪ まだまだ~♪まだまだ~♪ よい♪よい♪よい♪よい♪ まだまだ~♪まだまだ~♪ とリズムに乗せて、パフォーマンス。 見物に訪れた観光客は、その迫力に歓声をあげていた。 また、広場には売店が立ち並び、にぎわっていた。 毎年、開催されている守口市だんじり祭り。 お土産には、だんじり神輿がパンフレットになったカレンダー。
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1606年、教如上人を開基として、創建。 大坂夏の陣の兵火に遭って焼失し、本堂を再建。 大塩平八郎が大阪西町奉行所与力「内山彦次郎」に宛てた手紙が保存。 大政奉還後、王政復古の大号令。 鳥羽伏見の戦いが勃発、薩長軍が勝利を収め、大久保利通氏は、大阪を首都とする大坂遷都白書を提出。 京都府から猛反対に遭い、大坂御幸に変更。 京都から大阪に移動した明治天皇は難宗寺(大阪府守口市)にて一泊、盛泉寺にて内侍所(賢所)を置き、大阪府が首都となる。 日本の近代郵便制度の創設者で政治家・前島密氏が東京遷都論を提出。 天皇は大阪から東京へと移動したが、京都府は反対し、東京遷都論は、正式に採用された。
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1477年、蓮如上人が「守口御坊」を創立。 1611年、本願寺掛所となり西御坊となった。 1810年、石清水八幡宮護国寺仮堂の古材を利用して再建した。
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地下鉄谷町線守口駅付近にこの碑はある。 碑の設置場所は一般住宅のため、詳細は省略。 江戸川乱歩とは、1900年代に活躍した小説家・推理作家、評論家で本名は、平井 太郎。 筆名の由来は米国の文豪エドガー・アラン・ポーから。 また、日本推理作家協会初代理事長であり、位階は正五位、勲等は勲三等である。 1894年、三重県名張市生まれ、亀山町や名古屋市に移る。 1924年、当時は、大阪府守口市に住んでいた。 現在も家が残っており、「江戸川乱歩寓居の跡」の碑を建立。 ここでは、初期の作品を含む21作品がこの家で執筆され、「D坂の殺人事件」や明智小五郎もここで執筆された。
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901年、太宰府に左遷され、菅原道真が赴任途中に当地で滞在したと言われている。 950年頃、道真が残していった木像を御神体として祀ったのが、当社の創建とのこと。 1643年、拝殿は当時の淀城主永井氏の再興による。 境内にある「菅公水鏡の池」。 道真は滞在中、この池に自分の姿を写し、自画像を描いたといわれ、「大阪みどりの百選」に選定されている。
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大阪市鶴見区の鶴見緑地公園付近から大阪府守口市の京阪電車西三荘駅までの全長は約2km。 鶴見緑地公園付近は、緑と空間のゾーンとなっており、様々な種類の草木が植樹されている。 文化・教養のゾーンやフィットネスゾーン、水のゾーン、花のゾーンへと続く。
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市内中心部を貫き、季節になると桜のトンネルとして親しまれている。