薬のまち・道修町を散策!
大阪薬のまち・道修町を散策!
まいどまいど! 大阪の難読地名の一つに数えられる道修町(どしょうまち)。 江戸時代の大阪は大坂と呼ばれ、全国から物資が集まる天下の台所としての賑わいを見せ、ぎょうさんの船が行き交い、ぎょうさんの船着き場があったことから船場と呼ばれ、北船場の一部である道修町には現在も日本を代表する大手の製薬会社や薬品会社の社屋や工場が密集してはりまんな。 江戸時代、清やオランダからの輸入薬を扱う薬種問屋が目立ちはじめ、やがて薬種中買仲間を結成。 海外から輸入してきた薬は一旦、道修町に集められ、全国に流通させていたとか。 1780年に京都の五條天神社より少名彦命の分霊を勧請し、創建・建立されたという少彦名神社は、薬の神様として親しまれ、マスコットキャラクターも誕生。 また、道修町としての歴史や製薬会社、薬品会社の発展を中心に保存、展示する資料館も開設された。 そんな道修町では、西洋医学が広まり、日本で初めての薬学専門学校が設立された他、製薬会社、薬品会社の社屋の一部は洋風の雰囲気を取り入れたレトロ・モダニズム建築も多く、ファンの間では注目を集めている。 道修町が面白くなる、そんなおでかけプランでおまっせ。
1856年、小西儀助氏が京都から大阪に出て薬種業「小西儀助商店」を創業した。 1903年、小西儀助商店(現コニシ)の社屋として3年間かけて建設された。 1996年、主屋や衣装蔵、二階蔵、三階蔵が登録有形文化財に登録。 2001年、主屋、衣装蔵、二階蔵、宅地が重要文化財に指定。 主屋や納屋、貸家、土蔵、納屋、湯殿が設けられている。 主屋は、表通りに面して商いを行う店棟と、その奥にある住まいを中庭で結んだ表屋造と呼ばれるもので、完成当初は主屋の一部が三階建となっていた。
1928年、片岡建築事務所の松室重光氏により、旧武田長兵衛商店本店として建設された。 かつて、地上3階として建設されたが、増築を行い、4階建となっている。 現在は、武田薬品のオフィスビルとなっている。
通称、神農(しんのう)さん。 祭神は薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神。 薬の神として健康増進、交易の神として商売繁盛の御神徳があるとされている。 1780年、五條天神社(京都)より少名彦命の分霊を勧請した。 1837年、大塩平八郎の乱で焼失した。 1837年、祭神を遷座した。 2007年、薬祖講の行事が、大阪市無形文化財に指定。 神農祭が11月22から23日までの三日間行われる。 1822年、大坂でコレラが流行した。
神農さま
大阪市中央区道修町に鎮座する少彦名神社で活躍するキャラクター。 古代中国の伝説上の神様でくすりの神様としても知られる「神農炎帝」がモチーフ。 性格は、気さくで能天気。 新薬開発に欠かせない治験のPR活動を行っている。
1722年、道修町の始まりと言われている。 専門家の検査が必要と判断し、幕府は、薬種仲買仲間に薬種供給の権限を与えたという。 明治時代、西洋医学の影響を受けて、大阪道修薬学校(大阪薬科大学)に入学する。 現在でも道修町には、製薬会社の本社ビルが立ち並んでいる。 くすりの道修町資料館では、歴史の紹介や薬種仲買仲間に関する文書、資料などがある。
現在は、大阪府高槻市に本部を置く私立大学である。 1904年、大阪薬科大学の前身として、大阪道修薬学校が設立された。 これは、平山松治氏や塩野吉兵衛氏らが中心となった。
1897年に創業した大日本住友製薬の歴史と資料が保存、展示されている。 1897年、大阪製薬として創業。 東京で設立された半官半民の大日本製薬会社と合併し、社名を大日本製薬株式会社に改称した。 特に長井長義博士は、エフェドリンの発見者として知られ、日本薬学会初代会頭に就任した。
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1678年に創業した田辺三菱製薬の歴史と資料を保存、展示。 1604年、初代田邊屋五兵衞の曽祖父・田邊屋又左衞門は、徳川家康より朱印状を交付され、フィリピンやタイ等、海外との貿易を盛んに行い、生薬等、海外の貴重な薬種を日本に輸入していた。 1678年、初代田邊屋五兵衞は、大阪市中央区土佐堀で店舗を開業し、田邊屋振出薬を製造販売。 店じるしは入り山に五兵衞の五の字を配したものであった。 1688年、たなべや薬を朝廷に納める等、朝廷の禁裏御用を勤めていたことから、黒川大和大掾藤原金永の称号を授かった。
田辺三菱製薬
1791年、六代田邊屋五兵衞は薬種中買株仲間の近江屋九兵衛名義株を譲り受け、薬種中買株仲間への正式加入を果たした。 1855年、十一代田邊屋五兵衞の時に現在地に新店舗を開業。