唐戸市場で美味しい海鮮を味わい、いざ!巌流島へ!
山口唐戸市場で美味しい海鮮を味わい、いざ!巌流島へ!
まいどまいど! 美味しい海鮮料理を味わいに、山口県下関市にお出かけしまへんか? 下関市には美味しい海鮮料理を味わうことのできる商業施設のカモンワーフや唐戸市場があり、美味しそうなお刺身やお寿司、海鮮丼等がずらり。 また、周辺には、フクと呼ばれる名物のフグの像があり、記念撮影も楽しむことができまっせ! 市場内に入ると、活気と熱気にあふれ、観光客もぎょうさんいてはるので、さらなるにぎわいがそこにおました。 新鮮な魚介類・海鮮丼を味わい、付近に鎮座していた亀山八幡宮へお散歩。 境内にもフクの像があり、カメも記念撮影。 また、周辺は明治維新の舞台の地としても知られ、高杉晋作さんが歩んできた名所や奇兵隊ゆかりの地もめぐります。 その他にも水族館や遊園地などがありますが、最後には学校の歴史の教科書にも登場した巌流島へ。 島内には決戦に挑んだ佐々木小次郎と宮本武蔵の像が建立され、観光客を中心に記念撮影を楽しむ人の姿も。 そして、周辺には関門海峡という雄大な景色を楽しむことができ、充実した一日を楽しむことができまっせ! 今度の休日には下関に行こう! 必ずそう思いたくなるお出かけプランでおまっせ。
海の幸を中心としたレストランや土産物店が立ち並ぶシーサイドモール「カモンワーフ」。
聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地
ザビエルの来日450年を記念して建立された。 1550年、フランシスコ・ザビエルは天皇が住まう京都に向かうために九州を発ち、本州最初の地である下関に上陸した。 ザビエルは京都に向かう前に山口の大内義隆を訪ね、布教の許可を得たのち、数ヶ月の間山口県内で宣教活動を行ったとか。
金子みすゞ詩の小径
金子みすゞは山口県長門市仙崎生まれ。 下関には20歳から26歳まで過ごしていたとか。
ふくの像
下関の名物「ふく」の像と記念冊をすることができる。
ふくの像
下関の名物「ふく」の像と記念冊をすることができる。
坂本龍馬とお龍
下関市内中心部や巌流島などゆかりの地として知られる坂本龍馬とお龍。 一緒に記念撮影して楽しもう。
1909年、かつて交通の要衝として栄えた唐戸に位置する市場は、路上での野菜・果物の販売の公許に始まる。 後に、阿弥陀寺町から移転した魚市場「唐戸魚市場」、「下関市唐戸魚菜市場」なり、現在に至る。 青果の卸売部門が分離移転、施設の老朽化に伴いウォーターフロントの再開発事業により現在地に移転し、魚介類を中心とした総合市場となった。
市場内の雰囲気を2階から
2階の高さから眺めた市場内の雰囲気は活気があり、新鮮な寿司や刺身、海鮮丼などを販売する鮮魚店がずらりと並ぶ。
フク
市場では、早朝に水揚げされたという新鮮な魚介が並ぶ「直売所」としての人気を集め、回転寿司や食堂もある。 4月と10月には、唐戸祭りが開催される。
魚や寿司、海鮮丼など
マグロやサーモンなどの寿司をはじめ、クジラやフグが味わえる他、海鮮丼も味わうことができる。
祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇、武内宿禰。 859年、行教が宇佐から石清水へ八幡神を勧請する途中、当時は島であった亀山に碇泊した。 そのとき、神託により、亀山に行宮が設けられ、当社の起源となった。 関門海峡鎮護の神社として歴代領主の大内氏・毛利氏らの崇敬を受け、下関の総鎮守、長門国三宮とされた。 下関では「ふぐ」のことを「ふく」と呼び、幸福を呼び込むとされている。 明治時代、総理大臣伊藤博文が下関でふく刺しを賞味し、その美味を絶賛したことから全国に先駆けて、ふく食用禁止が山口県で解禁。 毎年11月には、下関理容組合、宇部理容組合による毛髪供養祭が執り行われている。
ふくの像
昭和時代、関門ふく交友会が「波のりふくの像」を建立。 金属供出により鉄砲玉となり台座のみが残った。 平成時代、ふく銅像再建推進委員会が結成し、46年ぶりに再建。 除幕式は、平成2年9月29日の語呂合わせでフクフクの日。 以後、毎年9月29日にはふく漁解禁にあわせてふく像前にて、シーズン中の航海安全・豊漁・商売繁盛を祈願するふく祭りが執り行われている。
神亀
御影石の大亀。 撫でると延命長寿といわれている。
亀山砲台跡
江戸時代、開国を迫る諸外国への危機感が高まり、長州藩は外敵防禦策をとり、長州藩主毛利元周公は境内の要所に砲台を築き、攘夷戦に備えていた。 1863年、久坂玄瑞の指揮により、アメリカ商船攻撃合図の砲弾が亀山砲台より発射、米仏蘭三国相手に6回にわたる馬関攘夷戦の火蓋がきられた。 藩主は亀山八幡宮に夷敵降伏を祈願。 4カ国連合艦隊襲来により攘夷戦は幕を閉じ、開国・尊皇討幕を経て明治維新を迎えた。
鎌倉時代、亀山天皇に仕えた京都御所の北面の武士は、宝刀紛失の責任をとってその職を辞し、当時蒙古襲来で風雲急を告げていた長門国下関を訪れた。 新羅人の髪結職から技術を学び、我が国初の結髪所を開き生計を立て、宝刀の探索を継続。 その結髪所の奥には、亀山天皇と藤原家祖先を祀る立派な床の間(とこの祭壇)があり、「床の間のある店」「床場」「床屋」と呼ばれるようになった。 その後、宝刀を発見した。
長府藩の本陣を務めていた豪商伊藤家は鎌倉時代から続く名家と言われていた。 坂本龍馬は下関に何度も訪れ、当時の伊藤家の当主助太夫(九三)と親交があり、伊藤家に滞在することが多かったという。 1867年、妻お龍とともに伊藤家に寄宿するようになった。 龍馬はこの部屋を自然堂と名づけ下関での本拠地としたが、龍馬はここから京都へと旅立ち、近江屋で暗殺された。 お龍はその知らせをこの自然堂で受け取ったという。
祭神は、安徳天皇。 水天門は、竜宮城をイメージ。 当時8歳であった安徳天皇が「どこへ行くのか」と祖母で二位の尼に尋ね、「波の下にも都がございます」と答え入水したことにちなむ。 境内には平家の武将を祀った七盛塚、平家の幽霊たちに壇ノ浦の合戦の哀しい物語を琵琶で奏でながら語った耳なし芳一の像などがある。 祭は、平家の女官が遊郭に身を落としながら、安徳天皇の命日に連れ立ってお参りしたことが起源とされる先帝祭。 お参りの光景をあらわしたもので、昔の遊郭があったとされる場所から神社までを花魁が練り歩く。 高杉晋作の発案により結成された奇兵隊は廻船問屋の白石正一郎邸に本拠地を置いたが、当地に移転した。
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豊前中津の藤野玄洋が伊藤家の紹介で眼科医院を開院。 玄洋の妻・みちは、割烹「春帆楼(伊藤博文が命名)」を開き、ふぐ料理公許第一号に認定された。 玄洋は奇兵隊の軍医を務め、長州の志士との親交を深め、伊藤博文や山縣有朋なども訪れた。 伊藤博文が宿泊した折、禁制であったふぐを手打ち覚悟で出したところ、大変、喜ばれ、当時の山口県令(県知事)に命じて、豊臣秀吉の頃から続いていたふぐ食の禁令を解いた。 日清戦争で敗北が濃厚になった清国が日本に講和を打診。 伊藤は講和会議を春帆楼で開催し、日本全権の伊藤と陸奥宗光、清国全権の李鴻章が両国の代表団を率いて講和会議に臨んだ。 下関条約(馬関条約)が締結された。
江戸時代、鎖国政策を実行していたが、唯一、国交を維持していたのは、朝鮮国。 1607年から1811年までの間、12回、来日し、現在は、朝鮮通信使上陸淹留之地として石碑が建立。 阿弥陀寺と引接寺に滞在し、儒学の先進国であった朝鮮の文人から水準の高い文化を吸収しようと多くの藩士、文人が集まったとか。 阿弥陀寺は、明治維新の神仏分離、廃仏毀釈で赤間神宮となっている。 長州藩には船島(巌流島)から上関(現在の上関町)まで通信使を護衛する任務を負っていて、徴集した船は600隻を越えたという。 長州藩主毛利吉元が自ら接待にあたり、「長門下之関御馳走一番」(長州藩の御馳走が一番)と評されている。
古くから関門海峡は、本州と九州とを結ぶ交通の要衝として栄えていたがその一方で、与次兵衛岩、金伏瀬を初めとする岩礁、浅所が随所に散在し、航路における難所としても知られていた。 政府は、海難の防止と海運の振興のため、海峡の大改良を開始した。 当地には、内務省下関土木出張所を開設し、西日本一体の公共土木事業を所掌させることとした。
2001年、「下関市立水族館」の老朽化に伴い、移転。 世界各地から集まった100種類以上のフグを展示。 また、下関が調査捕鯨基地であることに関連して、ノルウェーのトロムソ大学付属博物館のシロナガスクジラの全身骨格標本を展示。 水族館の建物の形もクジラをモチーフにデザイン。 「フンボルトペンギン特別保護区」は、チリ国立サンチアゴ・メトロポリタン公園よりフンボルトペンギンの生息域外重要繁殖地として指定。 世界最大の旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」より「トラベラーズチョイス(TM)世界の人気観光スポット2015 ~動物園・水族館編~」において、日本の水族館3位、アジアの水族館5位に選定。
2013年、遊園地(アミューズメント施設)が開業。 高さ約60m大観覧車を中心に、ジェットコースターやメリーゴーランドなどのアトラクションが楽しめる。
ロンドンバス
イギリスのロンドンで実際に使用されていたというロンドンバス。 下関からロンドンまでの約9500kmという距離を乗り越えて当地で展示、保存されている。 ロンドンバスの前にはベンチが設置され、座って強く念じれば願いが叶うとか。
ガス灯
ガス灯は、1915年に創業した山口合同ガス(下関瓦斯)の創立100周年事業の一つとして市に寄贈された。 当時のガス灯を再現したといい、灯が二つある2灯式が特徴で、遊園地「はい!からっと横丁」前から海響館の臨時駐車場前までの約1kmの道路沿いに13基、設置されている。 下関市では、この通りを「あるかぽ〜と海岸ガス灯通り」と命名し、日没から午後10時まで毎日、点灯するという。
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ここでは、山口県の下関・唐戸と福岡県の北九州・門司港とを結ぶ関門連絡船、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地で有名な巌流島(船島)までを結ぶ巌流島連絡船(発着は山口県の下関・唐戸または福岡県の北九州・門司港)がある。 その他、福岡県・北九州や山口県・下関付近の「門司港界隈」や「工場夜景」、「関門海峡の夜景」「市街地の灯り」を船上から観賞する夜景観賞定期クルーズ、関門海峡遊覧クルージング、門司港レトロクルーズがある。
関門海峡に浮かぶ無人島の一つ。 正式名称は、船の形に似ていたことから船島(ふなしま)と呼ばれていた。 特徴として、島全体が平らな地形となっていて、標高は海抜10m以下。
ようこそ 巌流島へ
山口県下関市または福岡県北九州市より船に乗船し訪れたのは巌流島。 最初に降り立った港より撮影。
下関と龍馬
1867年、下関にあった本陣伊藤邸に世帯を構えた坂本龍馬と妻お龍はある夜、巌流島に渡り、花火を打ち上げたという。
巌流島の歴史
江戸時代、船島は豊前小倉藩領に属していたが、小次郎は「巖流」(「岩流」とも)を名乗ったことから巖流島と呼ばれるようになった。 かつて、隣には岩礁があり、難所として恐れられていた。 豊臣秀吉が名護屋から大坂への帰路の途中、当地で船が座礁、転覆し、毛利水軍によって助けられたとも。 船長・明石与次兵衛の名を取って、「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれていた。
関門海峡
巌流島からは本州と九州の間を流れる関門海峡を見渡すことができる。
巌流島の歴史
大正時代、岩礁は爆破されたが、三菱重工業によって埋め立てられ、面積は約1万7000平方mの約6倍にあたる10万平方mに拡大し、巌流島の一部となった。 明治時代、コレラ患者の医療施設が立地していた。 第二次世界大戦が勃発し、周辺が日本軍の要塞地帯となり、一般の人は立ち入ることが困難であった。 戦後、約30世帯が住み暮らしていたが、再び無人島となった一方で、野生の狸が生息しているとか。
巌流島決闘の地
無人島の巌流島が全国的に知られるようになったのは、当時20代の宮本武蔵と50代の佐々木小次郎による決闘である。 1612年、当時、「岩流(がんりゅう)」と名乗っていた佐々木小次郎は「三尺の白刃」を手にし、剣豪として名を馳せていた宮本武蔵に挑んだが、「木刀の一撃」で敗れたとされる。 武蔵の必殺の一撃は「電光猶ほ遅きが如し」とも表現され、戦いの凄まじさを物語っている。
舟島神社
巌流島に鎮座する神社。 祭神は、地神大神、竜神大神。
佐々木巌流の碑
佐々木小次郎ゆかりの地として知られる巌流島には島の埋め立てを記念して明治時代に建立されたとか。 巌流とはかつて佐々木小次郎が名乗っていた名前。
巌流島決闘の地
像のモデルは、決闘に挑んだ佐々木小次郎と宮本武蔵。
舟
決闘に挑んだ佐々木小次郎と宮本武蔵の時代、実際に使用していたとされる船を再現し、展示保存されている。