
聖徳太子ゆかりの四天王寺界隈を徹底解剖!
大阪聖徳太子ゆかりの四天王寺界隈を徹底解剖!
まいどまいど! 大阪湾に沈みゆく夕日が美しい。 そんな思いから夕陽が丘という地名が名付けられたという天王寺区。 かつては四天王寺付近にまで大阪湾が迫っていたといい、四天王寺がある上町台地周辺は海に囲まれた自然豊かな地域でおました。 また坂もぎょうさんおまして、「天王寺七坂」と呼ばれるほど歴史や文化が集中しておます。 古くから聖徳太子ゆかりのお寺さんとして知られ、今も地元を中心に親しまれ続けている四天王寺さんを中心にぎょうさんのお寺さんが集中する天王寺駅界隈。 周辺には真田信繁(幸村)ゆかりの安居神社・一心寺をはじめ、阪神タイガースファン必見の大江神社、大阪の夏の訪れを感じさせる愛染まつりが風物詩として有名な愛染堂勝鬘院(愛染さん)、赤穂浪士ゆかりの寺院など、見どころはぎょうさんおまっせ。 さらに周辺では釣鐘を模したカステラや亀の形をしたカステラ、コマーシャルで有名な茜丸などなど大阪名物や大阪銘菓をとことん味わうことができる界隈でおまっせ。
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ももてんちゃんは、 区の花「桃」がモチーフ。 サブキャラクターは友達の「かぶ太子」「天の王子」。 「かぶ太子」はなにわの伝統野菜「天王寺蕪」が、「天の王子」は四天王寺の五重塔がモチーフ。
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「金光明四天王大護国寺」とも呼ばれている。 593年、聖徳太子は摂津難波の荒陵で四天王寺の建立を開始する。 1946年、天台宗に属したが、「日本仏教の最初の寺」として、和宗総本山となった。 四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び本格的な仏教寺院としては国内最古である。 当初、四天王寺は大阪市中央区玉造の岸辺にあった。 今でも、甲子園球場の約3倍の広さを有する境内が特徴。 大阪市天王寺区に本社を置く日本最古の企業・金剛組が建立に携わったとされ、飛鳥時代の創建当時から残す建築物が数多く現存。 500点にも及ぶ、国宝・重要文化財は宝物館にて所蔵。 亀の池では、実際に亀が飼育されている。
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夕陽ヶ丘から眺める夕陽が美しい
大阪がまだ海の底であった頃。 時代の流れとともに、河内湾、河内湖へと姿を変えました。 現在も大阪城から天王寺、そして住吉にかけては小高い丘になっており、まだ目の前に海が迫っていたころ、ここから眺める夕陽が美しいと評判になり、いつしか、夕陽ヶ丘という地名になりました。 この看板周辺はビルに囲まれ、大阪湾に沈みゆく夕陽を眺めることは困難ですが、当時を過ごした人の思いを感じました。
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鎧かけ松
源義経は、四天王寺にて一宿した。 その際、松を見つけて、自分の鎧を掛け、ひと時の休息をしたとの伝説がある。
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野沢菜原種 旅の起点
1756年、野沢菜は、健命寺(長野県下高井郡野沢温泉村)の住職が京都遊学の際に四天王寺から持ち帰った天王寺蕪の種を寺で育てたのが起源。 高冷地のためカブの部分が大きくならず葉だけが育ったとか。 天王寺蕪は、天王寺が発祥で、なにわの伝統野菜にも指定されている。
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饅頭、カステラ、煎餅を製造販売する専門店。 1900年、創業。 1897年、四天王寺では聖徳太子没後1300年の記念事業として鋳造が計画され、1903年に世界最大の釣鐘「頌徳鐘」が完成。 当時の大きさは京都・知恩院の梵鐘の2倍以上とか。 頌徳鐘は第二次世界大戦中の1942年に金属回収令で共出したことにより、消滅。
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釣鐘まんじゅう
代表銘菓「釣鐘まんじゅう」は世界最大の釣鐘がモチーフ。 カステラ生地に中は餡がたっぷり。 手焼きの職人が一つ一つ丁寧に焼き上げたという。
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あーほんま あーまんま 一日暮れて また日が昇る あのでっかい夕焼け みてないなぁ 茜が人生応援しとる♪ 関西地域で放送されているテレビで流れてくるコマーシャルの歌でおなじみの茜丸五色どら焼きでおなじみの茜丸本舗さん。 1940年創業という和菓子専門の老舗で、「茜丸五色どらやき」や「豆問屋」等を販売している。 茜丸本舗の入り口には関西地域のコマーシャルでおなじみのキャラクターが店頭に立っていた。
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五色どら焼き
外見は、一般的によく見るようなどら焼きですが、上部には、茜丸という刻印があり、中には餡子がぎっしり。 五色どら焼きは、その名のとおり五色の甘納豆(金時豆・虎豆・うぐいす豆・白小豆・小豆)が入っているといい、茜丸らしさがここにあふれている。
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アイスモナカ
この暑い時期、特におすすめなのが、アイスモナカ。 サクサクっとした食感の中で、口の中一杯に広がる冷たいアイスは、夏の暑い時期などにぴったり。
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祭神は、素盞嗚尊、宇賀魂大神、崇峻天皇。 100年頃、この地は当時、昼ヶ丘と呼ばれ、稲生の神を祀った。 500年代、四天王寺の建立と同時に社殿が造営された。 崇峻天皇を合祀して四天王寺七宮の一つに数えられた。 788年、摂津太夫、和気清麻呂が大規模な土木事業を提案し、工事の安全を祈願した。 この工事を境に、付近一帯の地名表記は古保礼から河堀と改まった。 1689年、素盞嗚尊を勧請し合祀。 1907年、清水谷に鎮座。 大阪城内に鎮座していた稲荷神社を合祀して、現在の社名に改称。 1945年、大阪大空襲により社殿は焼失後、再建された。
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741年、聖武天皇は、奈良にある東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺とした。 そして、全国に国分寺・国分尼寺をおいた。 当時、摂津国分寺を知る者は少なかったと言う。 この付近から奈良時代の蓮華文や唐草文軒瓦が出土したことから、国分寺跡と推定されたと言う。
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猫とジオラマの食堂として人気を集めるレストラン。 店先に描かれた特急くろしおは現在、西日本旅客鉄道(JR西日本)283系、287系、289系であるが、1978年の改正までは、このキハ82形特急気動車を先頭とした80系気動車特急が天王寺と名古屋を結んでいたという。 店内の中央部には高度経済成長期の地方都市をイメージした鉄道模型「Nゲージ」のジオラマがあり、鉄道愛好者らは持ち込みで車両を走らせるという。
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親猫と子猫3匹
最近、特に注目を浴びているのは店内に設置された保護柵内で飼われている親猫と子猫3匹。 親猫と子猫3匹は保護柵から逃げ出して走り回り、鉄道模型「Nゲージ」のジオラマの上を自由に歩いては回模型の車両を踏んづけ、照明やホームの屋根はなぎ倒した。 元々、親猫は野良猫であったが、隣の保育園前で子猫が弱っていた状態で保護。 現在、ソーシャルネットワークサービスを中心に話題を集め、猫を目当てに訪れる人も。
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1630年、創建。 赤穂義士討入り当時の住職縦鎌師は赤穂の出身であったため、参勤交代の折に浅野長矩らとの親交を深めた。 1739年、江戸や赤穂よりも先がけて、赤穂義士の墓を建立。 大石内蔵助をはじめとする46士は切腹したが、足軽の寺坂吉右衛門が46士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀10両を添えて義士の冥福を祈る碑を建ててくれるよう吉祥寺に依頼した。 毎年12月14日に「義士祭」が開催。
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1588年、曹洞宗最乗山鳳林寺として創建。 1615年、大坂夏の陣が勃発し、真田幸村に追われた徳川家康は一時、この付近で休息したという。 江戸時代、俳諧師として活躍した上島 鬼貫が眠る。 上島氏は、摂津国川辺郡伊丹郷(現在の兵庫県伊丹市)でも有数の酒造業者・上島宗次(屋号・油谷)の三男として生まれた。 幼名は竹松。 13歳、松江重頼(維舟)に入門、西山宗因の談林派に入門。 25歳、医学を志し大坂に出、松尾芭蕉らとの親交を深めた。 1718年、「獨言(ひとりごと)」の刊行をきっかけに、「東の芭蕉・西の鬼貫」と称された。
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通称、「なにわの十三まいり」と呼ばれる「十三まいり」がある。 男女問わず、13歳になった子供は、その御縁日に智福の授与を祈ってお参りする伝統がある。 このとき、女子は着物、男子は元服のお祝いをする。 三月十三日と四月十三日に御会式。 毎月十三日にも祈祷会が修行。 「 十三智菓」とは、「数珠」や「十三種類のお菓子」を求め、十三歳の成人を祝うと言う。
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1734年、大分県杵築市生まれ。 幼い頃、影の動きから太陽が動いているのに気づき、独学で天文学・医学を学んだ。 1771年、大阪で医師として活躍する一方、天文学の研究を続け、日食を予言した。 「崇禎暦書」を基盤に研究、望遠鏡・反射鏡などの観測装置を改良、理論を実測で確認するなど、近代的な手法であったと言う。 オランダ製の高倍率グレゴリー式反射望遠鏡を使用して、日本最古の月面観測図を記す。 ケプラーの第3法則を独自に発見。 弟子に高橋至時・山片蟠桃・間重富らがいる。 中井竹山・中井履軒兄弟・三浦梅園とも交流があった。 月のクレーターであるアサダは、麻田剛立の名に由来する。
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通称、「どんどろ大師」「どんどろ」と呼ばれている。 明治時代、この地にはかつて鏡如庵が存在した。 1909年、聖徳太子との縁が深い善福寺(大阪府豊能郡豊能町)がこの地に移転した。 1800年頃、大阪城代に在任中であった土井利位が参拝した。 このことから、「土井殿の大師」と呼ばれ、どんどろ大師の由来にもなったとか。 鏡如庵は、歌舞伎の「どんどろ大師 門前の場」の舞台として設定されている。
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聖徳太子が開いた四天王寺にある敬田院、施薬院、療病院、悲田院のうちの施薬院に始まる。 本堂に勝鬘夫人の像が祀られ、聖徳太子が勝鬘経を講ぜられていたことから施薬院は勝鬘院とも呼ばれた。 平安時代、金堂の本尊として愛染明王が祀られるようになると、勝鬘院は愛染堂とも。 鎌倉時代、北条時頼から寺領を寄進。 忍性によって真言院が創建。 織田信長と大坂本願寺による石山合戦によって伽藍が焼失。 1597年、豊臣秀吉により伽藍が復興、多宝塔が再建。 多宝塔は大阪市内最古の木造建造物。 大坂夏の陣によって焼失。 1618年、江戸幕府将軍徳川秀忠によって金堂が再建。 1945年、第1回大阪大空襲によって、焼失。
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愛染まつり
毎年6月30日から7月2日にかけて勝鬘愛染会(愛染祭)が開催。 「愛染まつり」は、大阪の三大夏祭り(天神祭・住吉祭)の一つ。 本尊の開帳や縁起物の「花守り」の授与などが行われる。 「大阪の夏祭り」の皮切りとも言え、大阪の風物詩の一つ。
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四天王寺の鎮守である四天王寺七宮の一つとして知られている。 祭神は豊受大神、素盞嗚尊、欽明天皇、大己貴命、少彦名命。 大江神社には狛虎と呼ばれるものがある。 その昔、狛虎の奥に毘沙門天を祀る堂があり、虎は毘沙門天を護るとされている。
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その亀の池で実際に飼育されている亀がついにかすてらとなって登場。 亀は亀でも、亀の姿をしているだけなので、ご安心ください(笑) 明治42年創業の源氏堂で味わえる亀かすてらは、一口サイズで食べやすく、すべてが手作り。 525円から楽しめる老舗の味・亀かすて~らをぜひご堪能くださいませ。
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現在、当地は四天王寺一丁目。 別名、椎寺町。 昔、四天王寺の境内地には椎の大木があり、それを天台宗の開祖・伝教大師最澄が自らその木を切って薬師如来像を彫り、それを祀る椎寺薬師堂を建立されたことが始まり。 1811年、薬師堂は落雷により焼失した四天王寺六時堂の代わりとして移設、現在に至る。 593年、四天王寺は聖徳太子により衆生救済と沸法興隆のため創建された日本最古の官寺。 西門「石の鳥居」はそのまま西方極楽浄土の東門に繋がるという信仰が盛んで、東西に沈む夕日を望み極楽浄土を観想する「日想観」が行われた。
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大阪湾に沈む洛陽の風景を望める
地名の夕陽丘は上町台地中央部一帯の総称で、大阪湾に沈む洛陽の風景を望めるとして新古今和歌集の撰者 藤原家隆が夕陽庵を立て晩年を過ごしたことに由来。 上町台地の西側は急崖になっていることから夕陽の絶景を眺めることができると同時に天王寺七坂(真言坂・源聖寺坂・口縄坂・愛染坂・清水坂・天神坂・逢坂)も有名。 地名・天王寺の由来は四天王寺の愛称「天王寺さん」が起こり。
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石山合戦の舞台
戦国時代、織田信長と本願寺勢との石山合戦の舞台になり、大坂の陣では真田信繁(幸村)が登場、徳川家康の本陣が置かれた。
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バイク通りは、大阪市内を南北に縦断する松屋町筋の南部の一部に位置し、オートバイの販売や修理を取り扱う店舗が多く集中する。
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宗派は天台系の和宗で、山号は有栖山である。 正式には、有栖山清光院清水寺と呼ばれている。 京都市東山区の清水寺 を模して建立されたため、新清水寺とも呼ばれる。 境内には、大阪市内唯一の天然の滝である「玉出の滝」がある。 本尊 - 本堂内には本尊として十一面千手観世音菩薩、脇侍として阿弥陀如来像と勢至菩薩像を安置する。 鎌倉時代、十三重石塔が建立された。
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真田幸村の背中を追うようにやってきたのは、納骨のお寺さんで有名な一心寺のほぼ目の前。 老舗百貨店で知られる大丸の創業者・下村彦右衛門正啓も度々、訪れたとされる安居神社は、真田幸村終焉の地。 真田幸村らがここで休息を取っていると背後から徳川方に攻め込まれ、激しさを増していた大坂の陣に幕を閉じました。 また古くは名水の地とされ、安居神社境内には安居の清水の跡。 七名水の一つにも数えられたとか。
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真田幸村戦没地
真田幸村は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した武将。 本名は、信繁。 豊臣秀吉の死後に勃発した真田幸村軍と徳川家康軍による合戦の一つである大坂夏の陣で、徳川家康率いる徳川軍は、真田軍の凄まじさに、自害を覚悟したほどであったとか。 その後、真田幸村は、安居神社にいるところを徳川軍に襲われたため、敗退した。 翌年、大坂で真田が豊臣秀頼・淀殿を助け、紀州へと逃げ落ちたという説が流れた。
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大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで活躍した本多忠朝ゆかりの寺。 今でも酒封じの神として信仰を集めています。 神仏分離後も仏はときに神へと姿を変えている四天王寺界隈。 両方のパワーを併せ持つ不思議な世界に出会うなら、参考にぜひ、どうぞ。
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骨仏の寺として
骨仏の寺として知られ、四天王寺との縁が深い一心寺には毎日、多くの参詣客が訪れる。 10年ごとに納骨で骨仏を作るとして、全国的にも珍しいお寺さん。
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