
江戸時代の宿場町・枚方宿で歴史を感じて
大阪江戸時代の宿場町・枚方宿で歴史を感じて
まいどまいど! 平安時代、付近を交野ヶ原と呼ぶ七夕伝説の発祥地。 奈良時代、七夕伝説は中華人民共和国の行事の一つであったが、日本に伝来、交野市に鎮座する機物神社には織姫が、枚方市に位置する観音山公園には巨石「牽牛石」が年に1度、天の川(天野川)に架かる逢合橋で出会い、逢瀬を楽しむという。 「交野ヶ原」と呼ばれる台地でかつ丘陵地は、耕作には適さなかったものの、鳥獣が多く棲息していた。 京の都からも近いことから貴族の狩場となっていて、桓武天皇の時代には離宮が置かれていた。 また枚方は旧宿場街。 1600年頃、淀川左岸の堤防「文禄堤」が、京街道として利用された。 これは、大阪・京橋付近から京都府にある伏見まで続く街道で、別名、大坂街道とも呼ばれる。 1601年、徳川家康によって、枚方をはじめ、伏見、淀、守口にそれぞれ、宿場町として指定した。 現在もその一部が現存し、枚方神屋資料館が開館。 「餅くらわんか、飯くらわんか」。 三十石船では、と客に勧めることから通称「くらわんか舟」とも呼ばれていた。 「くらわんか」とは、標準語の「食べないのか」を挑発的かつ乱暴な言い方で表現した河内弁。
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市内中心部を「天野川」が流れ、七夕伝説に登場する「織姫」、「牽牛」にまつわる地名や橋が架かる。 古くから星の降る町として知られ、星にまつわる神社が各地に鎮座する。
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枚方里
日本書紀に登場した歌「枚方や笛吹き上がる近江のや 毛野の若子、笛吹き上がる」で登場。 原文は万葉かな風に記され、比攞哿駄をひらかたと読み、6世紀頃には、枚方、また付近に位置する樟葉という地名が存在。 歌は、6世紀頃、任国の任那から帰る途上、対馬で病死した毛野臣を近江から枚方まで迎えにきた妻の哀傷を歌ったもの。 枚方浜は、淀川船運の中継港であったことから交通の衝としての賑わいを見せた。
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交野ヶ原フェスタ
7月に、イベント「交野ヶ原フェスタ」が開催。 交野ヶ原とは、大阪府枚方市、交野市、寝屋川市の一部地域を含めた一帯をさし、七夕伝説ゆかりの地として知られているため、日本遺産に登録しようというプロジェクトの一環で、開催。 枚方や交野の企業などが出店するブース、枚方・交野に関係のあるグループや団体によるステージで構成され、ステージではライブや盆踊り、演劇に和太鼓に加え、ゆるキャラたちも登場。
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旧宿場街。 1600年頃、淀川左岸の堤防「文禄堤」が、京街道として利用された。 これは、大阪・京橋付近から京都府にある伏見まで続く街道で、別名、大坂街道とも呼ばれる。 1601年、徳川家康によって、枚方をはじめ、伏見、淀、守口にそれぞれ、宿場町として指定した。 大坂を始め、この付近は、水上交通の要綱としても栄え、当時から、かなりにぎわっていたのだとか。 参勤交代の際にも枚方宿が利用された。 明治時代には、蒸気船や鉄道の開通により、時代と共に姿を消した。
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江戸時代、旧宿場街として栄え、淀川左岸の堤防「文禄堤」が、京街道として利用された。 これは、大阪・京橋付近から京都府にある伏見まで続く街道で、別名、大坂街道。 徳川家康によって、枚方をはじめ、伏見、淀、守口にそれぞれ、宿場町として指定した。 明治時代には、蒸気船や鉄道の開通により、時代と共に姿を消した。 岡本町公園を含めた枚方宿(旧宿場町)界隈では、イベント「枚方宿ジャズストリート」が開催され、その会場となることがあり、イベント開催当日は、枚方宿地区のいろんな場所からジャズの音色が鳴り響くとか。
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大阪府枚方市内を中心に拠点を置く、どらやき専門店「呼人堂」さん。 本店では、いろんな種類のどら焼きが並ぶ。
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どら焼きの暁
栗入りや梅入り、もち入りなどが並ぶなか、今回ご紹介する商品は、「あかつき」。
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東見附とは、宿場の出入り口に設けられた番所のこと。 京街道の中間地点に位置する大阪府枚方市は宿場町として栄えていた 東見附は天野川沿いで枚方宿の東端に位置する。 道の両側には柵で囲われた松が植樹され、宿場内が見通せない仕組みとなっていたとか。 1800年頃、淀や伏見に向かう紀州徳川家による参勤交代に使用された。 上流には専用の仮橋を架橋。 大名行列が天野川の橋に差しかかったとき、宿役人はこの地で、大名行列を見送ったという。
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奈良時代、七夕伝説は中華人民共和国の行事の一つであったが、日本に伝来し、交野市に鎮座する織物神社には織姫が、枚方市に位置する観音山公園には巨石「牽牛石」が年に1度(7月7日)、出会うために、かささぎが羽を広げて橋を架け、2人を逢わせたと言う想像上の橋ではあるが、その名を冠した橋として知られている。 なお、かささぎという鳥は17世紀に朝鮮半島から持ち込まれ、九州を中心に生息し、国の天然記念物に指定。
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枚方宿の問屋役人の小野平右衛門家跡。 江戸時代、村年寄と問屋役人を兼務し、村と宿駅の運営にあたった。 家業は豪農で醤油業で屋号「八幡屋」とした。 1716年に製造された鬼瓦も保管。 主屋改修時、明治時代の淀川洪水による軒先浸水時の鮒のミイラが発見されたとか。
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江戸時代、小野家では村年寄と問屋役人を兼ね、村と宿駅の運営に影響力を行使した。 1716年、鬼瓦を使用した建物は現存し、街道に面した広い間口となっている。 かつて、醤油業を営んでいたという。 明治時代、淀川が氾濫し付近は洪水となった。 軒先では浸水時の鮒がミイラとなり、屋根裏から発見されたとか。
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1854年、地域の安全を願って、花崗岩製として建立。 灯篭には、「妙見宮」「天泰平」「駅内安全」と刻まれているため、大阪府豊能郡能勢町にある能勢妙見宮への祈願も込められていると考えられる。 また、周辺は、京街道の一部として知られ、古くから多くの人の往来があった。 淀川に面した場所に位置し、京都と大阪とを結ぶ水上交通の淀川三十石船の中心地で、枚方宿として発展。 枚方浜(問屋浜)は夜でも船が着き、泥町や三矢から帰る人も多く、夜通し灯りが燈されたとされる。 明治時代、蒸気船や鉄道の開通により、時代と共に姿を消したが、今も旧宿場町として注目を集めている。
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1730年頃、塩熊商店として出店。 枚方宿旧小野邸宅を「くらわんかギャラリー」として一般公開している。 ギャラリー内では、枚方の郷土品を販売する傍ら、喫茶形式で楽しめる座敷も設置。 販売商品の一つに、くらわんか焼きがあり、くらわんか茶碗が人気という。 「くらわんか」とは、枚方市を中心とする北河内地域の「食べろ」を荒くした表現として知られ、江戸時代、京都と大阪とを結ぶ三十石船が当地付近の枚方鍵屋で停泊していたときに「酒くらわんか、飯くらわんか」と呼んでいたという。 その名残が、現在の「くらわんか」で、くらわんか茶碗は長崎県産の土を使用した商品である。
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1500年頃、岩見入道浄念が開創。 戦国時代は「本願寺兼帯所」として。 江戸時代前期は「西本願寺」に属した。 江戸時代中期は「門跡御坊」となった。 市内には、東本願寺派の願生坊が「東御坊」と呼ばれていたことから、当寺は「西御坊」と呼ばれた。 明治時代は「枚方郡役所(茨田交野讃良郡役所)」が置かれた。
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江戸時代、京街道の宿場町として栄えていた枚方市。 当地には、数多くある枚方宿の本陣となっていた。
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西見附とは、宿場の出入り口に設けられた番所のこと。 江戸では、江戸見附があり、大阪では、上方見付(別名、西見附)と呼ばれている。 京街道の中間地点に位置する大阪府枚方市は宿場町として栄えていた。
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2013年、町屋を改装して開業したというこちらのお店では、入り口付近に革小物。 奥には飲食スペースがあり、テーブル席、カウンター席、座敷がある。 奥の部屋には、町屋らしい格子戸。 風が吹くと、ガタガタと音がして、まるで一昔前の田舎のおじいちゃん、おばあちゃんの実家に帰ってきたかのよう。 ここでは、コーヒー、紅茶、スイーツなどのカフェの定番メニューのほかに、「遊間ご飯」(1000円)、「遊間カレー」(800円)もあり。
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遊間ごはん
鮭と厚揚げの焼き南蛮。 お米は、枚方市産。 ただし、営業日は金曜、土曜、日曜(第二日曜のみ)であるといい、要注意のお店。 でも、ランチメニューは思っていたよりも内容は豊富で、豆や汁に鮭、厚揚げまで幅広い。 また、デザートにアイス、最後に、コーヒーまたは紅茶を選ぶことができ、贅沢三昧。 待っている間に出されたアジアのお茶は、独特の味で日常生活では味わえないような貴重さを感じた。
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江戸時代、大阪と京都を結んでいた京街道には多くの人が行き交っていた。 大阪府枚方市はその街道の中間地点に位置し、宿場町として発展。 江戸時代当時の町屋の雰囲気を残すために保存活動が活発化。 ここは、古くから大阪と京都を結ぶ三十石船の船宿としてにぎわっていた。 重要文化財として保存しているため、館内での写真撮影は禁止。 館内では、淀川を一望できる宴会場(大広間)や古い電話機が現存。 三十石船では、「餅くらわんか、飯くらわんか」と客に勧めることから通称「くらわんか舟」とも呼ばれていた。 「くらわんか」とは、標準語の「食べないのか」を挑発的かつ乱暴な言い方で表現した河内弁。
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別名、「枚方の渡し跡」とも呼ばれている。 大阪府内中心部を流れる淀川には古くから多くの船が行き交っていた。 また川幅も広いため、丈夫で大きな橋を建設するには困難であったため、住民の多くは渡し船を利用していた。 対岸に位置する高槻市に多くの郵便物を輸送していたことから「郵便屋の渡し」と呼ばれるようになった。 明治時代、鉄道と駅舎が建設され、乗用車が普及するようになり、渡しが衰退し、姿を消した。
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吉本興業所属のお笑い芸人として知られる間寛平氏が発起人を務めるチャリティーマラソン大会。 2013年、2011年に発生した東日本大震災の被災地の復興支援を目的に年に一度開催。 例年、淀川河川公園(大阪府枚方市と大阪府大阪市旭区までの国営公園)内の特設コースを使用。 大会には間寛平氏の他、吉本興業所属の芸人やタレントも多数参加。 その他、会場には飲食物・チャリティーグッズなどを販売するブース、イベントステージ(メインステージ)を淀川河川公園内に設営。 「メインステージ」では、スタート前の準備体操、トークショー、出場芸人やゲストアーティストによるライブパフォーマンス、部門別の表彰式などがある。
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間寛平
間寛平氏は「芸能界屈指のマラソンランナー」として知られ、2008年から約3年間、アースマラソンで(ヨットによる海上横断含む)地球一周を達成、東日本大震災の発災翌年には被災者を激励する目的で「RUN FORWARD KANPEI みちのくマラソン」を開催し、岩手・宮城・福島を自ら走破。
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1590年頃、豊臣秀吉は茶会を催すために建設した御茶屋御殿で、跡地は展望広場として整備されている。 また、諸説あるものの、付近には、枚方城が築城されたが、1615年の大坂夏の陣により廃城になった。 城主は、本多内膳正政康。 奈良時代、大陸より百済王氏が渡来した地として知られ、その子孫と称にあたる。 豊臣秀吉の家臣で、その娘が秀吉の妾であり、「乙御前」と呼ばれ、この御茶屋御殿に居住していた。 後に、徳川家康による徳川幕府の2代将軍・秀忠と、3代将軍・家光がそれぞれ逗留したという。
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御茶屋御殿跡展望広場
広場からは枚方市、淀川、対岸の高槻市、茨木市やその付近を一望することができる。
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祭神は、高龗神、素盞嗚尊、大山咋神、大国主神。 万年寺山には須加神社が鎮座していた。 牛頭天王社(祇園社)と称し、当時、流行していた悪疫の終息祈願のため、長松山万年寺の開祖・聖宝が牛頭天王を勧請して創建。 明治時代、神仏分離により、廃寺となった。 日吉神社は山王大権現と称し、最澄(伝教大師)が平安京の裏鬼門に当たるこの地に阿弥陀仏と日吉大神を祀ったのに始まる。 須加神社と日吉神社は意賀美神社に合祀された後、万年寺山の須加神社境内に遷座。 意賀美梅林は「万年寺山の緑陰」として枚方八景の一つに選定、梅の名所として知られている。 万年山古墳と呼ばれる前方後円墳が築造されたとされる。
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田中家は古くから、鋳物業を営んでいた。 江戸時代、公家の真継家から許可を得て、北河内で唯一の鋳物師「河内国左右惣官鋳物師」として営業。 江戸時代の日常生活で使用された鍋、釜、農具、寺院の梵鐘なども鋳造した。 1965年、廃業。 鋳物工場と主屋は、大阪府枚方市にある「鋳物民俗資料館」に移築され、大阪府の指定有形文化財に指定。 付近の椋の木は巨樹として大阪府の天然記念物に指定。 葉の表面が荒いことから、鋳物製品を磨くときに使用されたとか。
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別名、蹉跎天満宮、蹉跎山天満宮。 祭神は、菅原道真公(神体は菅原道真公自ら作らせた菅原道真公の像)。 901年、菅原道真公が大宰府へ左遷される途中、大阪府寝屋川市に立ち寄った。 山頂付近から都の方角を望み、名残惜しむように出発。 後に、この場所を「菅相塚」と呼んだ。 菅原道真公の後を娘の苅屋姫が追ったが、間に合わず、足摺り(=蹉跎)して嘆いた。 後に、この場所を「蹉跎山」と呼んだ。 菅原道真公は大宰府でその話を聴き、自身の木像を作って娘に送った。 951年、木像をご神体とする社殿を蹉跎山に建立。 加茂健豆美命神社を合祀。 聖徳太子が開基した龍光寺(廃寺)が建立。 参道は「蹉跎参道」。
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平安時代、付近を「交野ヶ原」と呼び、七夕伝説の発祥地として知られている。 「交野ヶ原」と呼ばれる台地でかつ丘陵地は、耕作には適さなかったものの、鳥獣が多く棲息していた。 京の都からも近いことから貴族の狩場となっていて、桓武天皇の時代には離宮が置かれていた。 また、天皇の狩場(天皇以外の狩猟は禁止された)があったことから、枚方市には、禁野という地名が残っている。 奈良時代、七夕伝説は中華人民共和国の行事の一つであったが、日本に伝来し、交野市に鎮座する機物神社には織姫が、枚方市に位置する観音山公園には巨石「牽牛石」が年に1度、天の川(天野川)に架かる逢合橋で出会い、逢瀬を楽しむという。
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牽牛像の横には観音山公園は、縦に細長い公園で、公園内の中央付近には、牽牛像が建立されている。 この像は2007年7月7日と8日に開催された「全国七夕サミット」を記念したもの。 万葉歌人山上憶良の歌碑「牽牛(ひこぼし)の 妻迎え船 こぎ出らし 天の川原に 霧の立てるは」が建立。
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公園内の奥には、高さ約1m、幅約2mの巨石「牽牛石」が鎮座している。
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公園内の中央付近には、「中山観音寺跡」と刻まれた石碑が建立されている。 奈良時代、中山観音寺と呼ばれる寺院が創建。 南北朝時代、戦渦に巻き込まれ、兵庫県宝塚市に遷座した。