
門前仲町で見つけた日本中を歩いた伊能忠敬と江戸の相撲
東京門前仲町で見つけた日本中を歩いた伊能忠敬と江戸の相撲
まいどまいど! かつては材木の町としての賑わいを見せた木場界隈。 新木場に移転するまでは材木の中心地として発展してきたとか。 都市開発前までは付近に海がせまり、自然豊かな環境に恵まれ、貝を使用した漁師飯が誕生。 現在もアサリと一緒に調理した「深川めし」が注目を集め、地元を代表するグルメの一つとなってまんねん。 せやさかい、「深川めし」と看板を掲げた飲食店も多数。 付近には江戸最大の八幡宮として知られる富岡八幡宮が鎮座し、江戸時代には深川の八幡様とも呼ばれた。 ここでは大相撲の源流となる江戸の勧進相撲発祥地として知られ、境内にはぎょうさんの石碑。 最近も戦勝祈願に訪れる力士もぎょうさんいたはんねやて。 その他、江戸八幡祭が人気で水をかける風習が今も続き、江戸最大の総則と注目を集める神輿の派手さは圧巻。 周辺には歴史的も深い深川公園が整備され、周辺住民の憩いの場。 隣接する深川不動堂・不動尊は千葉県成田市にある成田山新勝寺と深い関わりも。 それだけでなく付近にはかつて伊能忠敬も住んでいたといい、住居跡。 富岡八幡宮を参拝後に全国へと足を運んで測量をしたことから境内には伊能忠敬の像も建立。
通称、深川八幡宮。 江戸最大の八幡宮として知られている。 祭神は、応神天皇(八幡神)、相殿神、神功皇后、仁徳天皇、天照皇大神、常磐社神、武内宿祢命、日本武尊、天児屋根命、竈大神。 1627年、菅原道真公の末裔・長盛法印は神託により、小島であった永代島に永代嶋八幡宮として創祀。 徳川将軍家からの信仰もあり「深川の八幡様」として親しまれた。 明治時代、准勅祭社とされ、廃止後は記載がない府社とされたが、皇室の尊崇を受け続けた。
本殿
境内には永代寺も建立、神仏分離令によって廃寺。 現在の永代寺は、1896年に旧永代寺の塔頭・吉祥院が継承。 1956年、1945年の東京大空襲により焼失、社殿を再建。
深川八幡祭での水かけ神輿
毎年8月に行われる祭礼「深川八幡祭り」。 神田祭、山王祭と並ぶ江戸三大祭りの一つ。 別名、水かけ祭り。 沿道の観衆から担ぎ手に清めの水が浴びせられる。 掛け声「わっしょい、わっしょい」。 3年に1度、八幡宮の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ、各町の大人神輿50数基が揃い、連合渡御が行われる。 表参道の神輿庫には2基の御本社神輿が飾られ、装飾の各所に宝石を配した日本一の大きさと豪華さを誇る。
力持ち碑
力持ち碑。
永代寺、富岡八幡宮など古くから門前町として栄えた。 通称、門仲(もんなか)、深川仲町。 愛称は、人情深川 ご利益通り。 毎月1日、15日、28日に縁日が開かれる。
なかもん
東京都江東区内にある仲町通り商店街で活躍するマスコットキャラクター。 池波正太郎の時代小説にも取り上げられた江戸深川門前仲町の商家「深川仲左衛門」通称「なかもん」の若旦那。 半被に前掛けは商人の印。 お寺やお宮に集まる鳩がモチーフ。 仲町通り商店街は江戸時代からの歴史を持つ商店街。
勧進相撲とは、相撲の形態の一つで現在の大相撲の源流。 1684年、初めて寺社奉行の許しを得て勧進相撲が行われた。 以後、江戸勧進相撲発祥の地として知られ、現在でも新横綱誕生の折には境内で奉納土俵入りなどの式典が執り行われる。 2017年、稀勢の里が横綱力士碑の刻名式に参加、自らの四股名を刻んだ。 横綱力士碑、超五十連勝力士碑、出羽海一門友愛之碑、大関力士碑、巨人力士身長碑、釈迦ヶ嶽等身碑、強豪関脇力士碑、巨人手形・足形。 境内の野見宿禰神社では相撲の始祖である野見宿禰を祀る。
江戸時代、商人・天文学者として活躍した人物。 1745、千葉県山武郡九十九里町の名主・小関五郎左衛門家で誕生。 通称、三郎右衛門、勘解由。 1800年から1816年まで日本全国を測量して「大日本沿海輿地全図」を完成させ、国土の正確な姿が明らかに。 1795年、伊能忠敬は東京都江東区深川黒江町に住居を構えた。 1800年、内弟子3名、下男2名を含む忠敬らは測量のため、自宅から蝦夷へ向けて出発。 このとき、富岡八幡宮に参拝、浅草の暦局に立ち寄り、至時宅で酒を飲んだ。 千住で親戚や知人らの見送りを受け、奥州街道を北上しながら測量を開始。 距離は歩測で測定し、1日に約40kmを移動。
江戸時代、材木商は日本橋付近に集中し、材木河岸を形成。 1657年、明暦の大火により幕府は寺社仏閣や大名屋敷等を移転させ、江戸の町を整備。 材木河岸は墨田川の対岸に位置する深川に移転。 明治時代、周辺の埋め立てが進み、木場は内陸となった。 1969年、沖合の埋立地に貯木場を設置して新木場となったことにより、従来の貯木場は埋め立てられ、木場公園として整備。 毎年10月に開催される江東区民祭りで木場の伝統芸「木場の角乗」が行われ、見物できる。
「木場の木遣り」の発祥は古く、1600年代には存在したとか。 当時、幕府のお船手の指図で、伊勢神宮の改築用材を五十鈴川より木遣りの掛け声で水揚げ。 元来、神社仏閣の鳥居や大柄な用材を納める場合には木場木遣り特有の「納め木遣り」が用いられた。 武家屋敷が並んでいた両国の七つ谷の倉の間部河岸で3代将軍家光公に筏の小流し(さながし、筏組)、角乗り、木遣りを披露。 以後、年中行事となった。 この時、言葉「川並み」が発祥したとも。 1979年、米国グラント前大統領の来日の際、木遣りは角乗りと共に上野の不忍池で天覧の栄に浴している。
- アプリで地図を見る
富岡盛彦氏は1892年、福岡県築上郡八津田村東八田生まれ。 日本の神職。元富岡八幡宮宮司として知られている。 川面凡児に富岡八幡宮の祭祀継承の推挙を受けて富岡宣永第17代宮司の養子になる。 鹿島神宮宮司となって以降、岳父・宣永の後継で富岡八幡宮宮司となる。 1959年、神社本庁事務総長に就任し神道復興に尽力、國學院大学の理事長も務めた。 富岡八幡宮初代・長盛は住職で、菅原道真の子孫とも。
歴代の横綱力士と強豪大関雷電爲右エ門を顕彰。 1900年、12代横綱陣幕久五郎が発起人となって完成。 正面には宮小路康文の揮毫で碑銘、裏面に初代明石志賀之助以降の横綱力士、「無類力士」として雷電の名が並ぶ。 綾川五郎次(初代)を2代目、丸山権太左衛門を3代目とする一般的な歴代横綱表は、この碑に基づく。 新横綱誕生の刻名式は、太平洋戦争中に一時中断、40代東富士欽壹の昇進時に復活するも一時中断。 1998年、66代若乃花勝(3代)の昇進時に復活。 以降、境内で横綱土俵入りを行ってから刻名奉告祭を行うことが恒例となった。
横綱力士碑
2014年、71代鶴竜力三郎の刻名報告祭は伝染病対策で土俵入りが中止。 複数の力士が同時に昇進した場合、先に引退した者が先代に。
山号は成田山。 宗派は真言宗智山派。 本尊は不動明王。 1703年、千葉県成田市にある成田山新勝寺の東京別院として創建。 別称は深川不動尊、深川不動堂。 江戸時代、歌舞伎役者の市川團十郎は、不動明王が登場する芝居を打ち、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸に広まった。 1703年、1回目の成田不動「出開帳」(秘仏特別公開)が別当・永代寺で開かれた。 明治時代、永代寺は神仏分離令により廃寺、旧境内は深川公園となった。
深川不動堂
1878年、現在地に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続。 地名「門前仲町」は「永代寺の門前町」という意味。 開運出世稲荷の旧本堂で前本堂が東京大空襲で焼失、千葉県印西市の龍腹寺の堂を移築して本堂とした。 1950年に移築、帆刈黌童作の丈八「おねがい不動尊」が安置。
山号は大榮山。 宗派は高野山真言宗。 本尊は歓喜天。 1624年、長盛法印の開基により永代島に創建。 正式名は大榮山 金剛神院 永代寺。 江戸時代、富岡八幡宮の別当寺として繁栄。 明治時代、神仏分離により廃寺となった。 跡地には深川公園や深川不動堂などが建立。 1896年、旧永代寺の塔頭の吉祥院が引き継ぎ、再興。 地名・門前仲町は旧永代寺の門前という意味に因み、命名。
前身は永代寺にあたり、富岡八幡宮の別当で江戸を代表する寺院であった。 明治時代、神仏分離令により廃寺。 1873年、深川公園として開園。 1873年、太政官布達によって飛鳥山公園・上野公園・芝公園・浅草公園と共に日本で最初に造られた公園の一つとなった。 江戸時代、成田山新勝寺の不動明王像が永代寺で出張開帳され、評判となった。 明治時代も不動尊信仰は続いた。 1878年、成田山東京別院(深川不動堂)が置かれた。 1909年、東京都内で2番目となる深川図書館が開館したが、1923年の関東大震災により清澄庭園傍に移転。
- アプリで地図を見る
江戸時代、富岡八幡宮の東側にあった仏堂。 本尊は千手観音。 1642年、京都府京都市東山区にある三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行を受け、弓師備後は幕府より浅草の土地を拝領、京都の三十三間堂を模した堂を建立したのに始まる。 落成では将軍徳川家光の命により旗本吉田久馬助重信(日置流印西派吉田重氏の嫡子)が射初め(いぞめ)を行った。 1698年、勅額火事により焼失。 1701年、再建。 1872年、江戸三十三間堂は廃されて堂宇は破却。 京都の通し矢同様、距離(全堂・半堂など)、時間(一昼夜・日中)、矢数(無制限・千射・百射)の異なる種目があり流行。 記録達成者は「江戸一」を称した。
三十三間堂
現在、浅草では江戸三十三間堂の守護のために建てられたという矢崎稲荷神社があり、深川には三十三間堂で武芸を磨いた名残として江東区立数矢小学校がある。
八幡堀遊歩道に架かる人道橋。 名称は付近に鎮座する富岡八幡宮に因む。 別名、旧弾正橋、元弾正橋 鉄を主材料とする日本最古の鉄橋。 国の重要文化財に指定。 日本で初めてとなる米国土木学会「土木学会栄誉賞」が贈られた。 構造形式は、ボウストリングトラス橋。 橋長は15.76m。 幅員は2.0m。 ピンの接合部には菊の紋形の花弁装飾。 1878年、京橋区の楓川に、米国人技師スクワイヤー・ウイップルの発明した形式を元に工部省赤羽分局により製作、架橋。 付近には江戸時代の武将で旗本の島田弾正屋敷があったため、弾正橋とした。 当時、馬場先門から本所や深川を結ぶ主要路で、文明開化を象徴する鉄橋であった。
元弾正橋
1912年、市区改正事業により、北側に新しく弾正橋が架橋、「元弾正橋」と改称。 1923年、関東大震災後の震災復興計画によって廃橋。 1929年、現在地に移設。 当時、河川の八幡堀であったが、埋め立てられ、現在の人道陸橋となった。 1965年、橋鈑改造(鋼床化)。
かつて八幡堀という河川が存在した。
遊歩道
現在、遊歩道として整備され、八幡橋や関連するモニュメント、旧新田橋などが保存、展示されている。
かつて大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結んでいた人道橋。 新田清三郎氏は大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院を開業。 1932年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて架橋、名称を新船橋とした。 町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」のような存在となり、次第に「新田橋」と呼ばれるようになった。 また、映画やテレビの舞台ともなり、人気スポットの一つとなっている。
深川・江戸の伝統工芸品ギャラリー&ショップ。 深川やその周辺の伝統工芸品に相応しい9人の職人による技を紹介。 店内には食器やテーブルウェア、インテリア、日用品、江戸無地染、江戸切子など。
- アプリで地図を見る
そば・うどんの専門店。 店内はカウンター席のみ。 昼間はランチとしてうどんやそば、丼の他、定食を味わうことができる。 深川めしの丼とそば。
そば
メニューは、かけそば、もりそば、月見そば、深川蕎麦、ざるそば、力うどんなど。
深川めし
深川めしとは、アサリ、ハマグリ、アオヤギ等の貝類とネギなどの野菜などを煮込んだ汁物を米飯に掛けたもの。 また、炊き込んだものも。 別名、深川丼、アサリ飯。 かつて深川に住む漁師らが仕事の合間に食べる賄い飯「ぶっかけめし」が深川めしのルーツ。 古くは江戸の深川近辺で獲れたバカガイ(アオヤギ)を用いたとか。 明治時代、アサリが登場。
和菓子専門店・甘味処。 1907年、創業。 団子や大福、羊羹、きんつばなどを店頭販売。 また、ラーメンなど定食を味わうことのできるレストランも併設。
深川あさりめし
深川やその周辺で昔から愛されてきた深川めしを老舗の味として味わうことができる。 具材にはあさり、アナゴなどを使用。
江戸時代、江戸の町では火災が多く発生していた。 火災の早期発見を目的に町内の各所に、高さ約9mの火の見櫓が建設され、上部の早鐘は発生を知らせた。 門前仲町の火の見櫓は当初、富岡八幡宮の一の鳥居付近に位置していたが、2002年、当地で復元された。
1931年、関東大震災が発生し、その復興計画の一環として東京市が市設食堂を建設。 1932年、鉄筋コンクリートの2階建てとして竣工。 一旦、閉鎖されるも活動を再開。 1945年、東京大空襲で被災したが、全焼を免れた。 東京都の職業斡旋施設となり、授産機能、福祉機能が追加された。 江東区に移管され、「江東区内職補導所」と改称するも2006年に閉鎖。 国登録文化財に登録。
江戸時代、商人・天文学者として活躍した人物。 1745、千葉県山武郡九十九里町の名主・小関五郎左衛門家で誕生。 通称、三郎右衛門、勘解由。 1800年から1816年まで日本全国を測量して「大日本沿海輿地全図」を完成させ、国土の正確な姿が明らかに。 1795年、伊能忠敬は東京都江東区深川黒江町に住居を構えた。 1800年、内弟子3名、下男2名を含む忠敬らは測量のため、自宅から蝦夷へ向けて出発。 このとき、富岡八幡宮に参拝、浅草の暦局に立ち寄り、至時宅で酒を飲んだ。 千住で親戚や知人らの見送りを受け、奥州街道を北上しながら測量を開始。 距離は歩測で測定し、1日に約40kmを移動。
- アプリで地図を見る
日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は、1876年1888年まで当地に住み、本邸とした。 その後、中央区に移転し、別邸・深川邸として利用された。 当時、深川区会議員および区会議長を務めた。 1897年、当地に渋沢倉庫部(澁澤倉庫株式会社)を設立。
平時には散策路、公園など憩いの場として親しまれている。 1980年代、スーパー堤防等整備事業の一環として東京都が順次整備。
隅田川テラス
伊勢湾台風を教訓に東京高潮対策事業として、いわゆる「カミソリ堤防」の整備が始まり、完了。 親水性にも配慮した緩傾斜堤防事業(高規格堤防)に着手。
江戸時代、兵学者・朱子学者・思想家・松代藩士として活躍。 信濃国(長野県)松代藩下屋敷があり、佐久間象山は西洋砲術塾を開塾。 1833年、信濃松代を離れ、江戸で佐藤一斎に朱子学を学ぶ。 1842年、藩主真田幸貫より海外事情の調査。 1840年、イギリス・清国間でアヘン戦争が勃発、海防問題に取組む。 江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門、西洋砲術を学ぶ。 1850年、当地で勝海舟を含む諸藩の藩士らに西洋砲術を教えた。 1850年、信濃松代に戻り、江戸の木挽町(中央区)に砲術塾を開塾、吉田松陰・坂本龍馬・加藤弘之らが入門。 1854年、ペリー来航で吉田松陰による密航未遂事件に連座して松代に幽閉。
ワインを製造・販売する専門店。 2016年、深川ワイナリー東京を開業。 長野県産ナイアガラ・コンコードを発売。 葡萄の収穫時期になると地元の人と一緒になって葡萄をプレスしてタンクに入れて醸造を開始。 2018年、ぶどうガーデン併設の「深川ワインガーデン」開業。 コンセプトは、東京の下町を「ワインの街に」。 門前仲町駅前にあるビルの屋上にブドウの苗を植え、深川産ブドウに挑戦。 今後も「made in 深川」を目指すという。
東京海洋大学 越中島キャンパス内にある施設。 1978年、東京海洋大学百周年記念資料館が開館。 東京海洋大学の前身にあたる東京商船大学が1875年、隅田川の永代橋下流に係留した成妙丸を校船と定めて開学。 1975年、100周年を記念。
東京海洋大学100
施設内では東京海洋大学100年の歴史を軸とした商船教育史、その周辺の海事史の資料を保存、展示。 2016年、明治丸記念館が竣工。 施設内では展示室やセミナー室があり、明治丸の建造指示書、重要文化財指定書などが保存、展示。
- アプリで地図を見る
1971年、隅田川の派川沿いに位置する区立公園として開園。 北は大島川水門、南は清澄通り付近までを範囲とし、永代橋、中央大橋、大川端リバーシティ21、東京タワー、屋形船などが一望できる。 自転車教習のための小型信号機や車線のほか、砂場やじゃぶじゃぶ池も。
東京都公園協会の東京水辺ラインが運営する水上バスの発着場。 東京港、隅田川、荒川を中心に運航。 貸切便は、「さくら・あじさい号」と「こすもす号」の2船。 その他、和船の一種で、主に船上で宴会や食事をして楽しむ屋形船も発着するといい、明治時代から続く老舗の屋形船も。
江戸時代、大名、老中、陸奥国白河藩の第3代藩主として活躍した松平定信の抱屋敷跡。 定綱系久松松平家9代当主。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫。 1816年、入手した。 別名、はまやしき。 定信は庭園家としても知られ、桜やツツジなどを植えた瀟洒な庭園でした。 1787年から1793年まで寛政の改革を行った。
米を中心に総菜や弁当を販売する専門店。 店内はテイクアウトのみ。 メニューはハンバーグ弁当やコロッケ弁当、カレーライス、かつ丼など。
ウナギ、天ぷら、コロッケなどを販売するテイクアウト専門店。 メニューは幕の内弁当、中華ランチ、コロッケ弁当、生姜焼肉弁当、ハンバーグ弁当など。
満腹弁当
満腹弁当
- アプリで地図を見る