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創建:991年 宗派:律宗 大本山 本尊:地蔵菩薩 開基:園城寺(三井寺)の僧 快賢。 中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「壬生狂言(大念仏狂言)」を伝える寺。 また新選組ゆかりの寺としても知られる。 京都では珍しい律宗寺院である。 (総本山は奈良・唐招提寺)
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表門
表門 …寛政11年(1799年)の再建。 【⠀壬生寺の歴史 】 創建:991年 建暦3年(1213年)当寺の信者であった平宗平によって現地に移される。 正嘉元年(1257年)火災によってすべての伽藍を焼失。 正元元年(1259年)平政平(平宗平の子)と律宗の僧で融通念仏も行っていた円覚上人によって復興される。 以来、律宗の寺院となり、次第に地名から壬生寺と呼ばれるようになった。
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鬼瓦さん
【 壬生寺の歴史 ~明治以降~ 】 明治に入ると、廃仏毀釈などの影響で塔頭は衰微し、中之坊(現・中院)しか残らなかった。 1962年(昭和37年)7月25日 放火により、当寺 旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)、本堂、四天王像、金鼓は焼失した。 現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたもの。 1967年(昭和42年)に本堂も復興した。
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本堂
本堂 - 1967年(昭和42年)の再建である 【⠀壬生狂言 ( 大念仏狂言 )⠀】 毎年節分と春秋に演じられる無言劇。 円覚上人が創始したと言われている。 重要無形民俗文化財に指定。 公開は2月の節分の当日と前日、4月29日~5月5日、10月の体育の日を含む3日間(年間12日間)
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千体仏塔
平成元年(1988)に建立。 この塔の石仏は明治時代、京都市の区画整理の際に各地から集められたもの。 室町時代からの阿弥陀如来像や地蔵菩薩像など丁度1000体が、ミャンマーのパゴダに似て円錐形に安置されている。
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寺務所
本尊の中にある地蔵菩薩像。 詳しくご利益を述べれば『仏説延命地蔵菩薩経』に十益を授けられると信仰されている。 女人泰産(安産を授かる) 身根具足(丈夫な体を授かる) 衆病悉除(病気が平癒する) 寿命長遠(長生きを授かる) 聡明知恵(知恵を授かる 財宝盈溢(金持ちになれる) 衆人愛敬(誰からも敬愛され 穀米成就(穀物が実る) 神明加護(神々の加護が得られる) 大菩提証(偉大な悟りを得て極楽に行ける)
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龍さん🌱
寺務所の門を抜けると、龍さんが。 桜と合ってる😍
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壬生塚
江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠地である屯所が壬生村の八木邸(当寺の北側)に置かれた。 屯所が西本願寺に移転してからも当寺境内は引き続いて新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われた。 その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある
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新選組局長・近藤勇の胸像
新選組局長・近藤勇の胸像と遺髪塔、新選組屯所で暗殺された隊士・芹沢鴨と平山五郎の墓、勘定方・河合耆三郎の墓の他、隊士7名の合祀墓がある。 その合祀墓には池田屋騒動で亡くなった隊士 奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らも葬られている。新選組は文久3年(1863) この地で結成された。東門前の坊城通りには、その当時、八木邸、前川邸、南部邸の3箇所が屯所と定められ、今も八木邸と前川邸が残っている。
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あぁ新撰組
【かつての壬生寺境内】 ・新選組の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の訓練が行こなわれた。 ・一番隊組長・沖田総司が境内で子供達を集めて遊んだ。 ・近藤勇をはじめとした隊士が壬生狂言を観賞した。 ・新選組が相撲興行を壬生寺で企画し、寺の放生池の魚やすっぼんを採って料理し、力士に振る舞った。
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壬生塚
【新選組屯所跡】 壬生寺正門北には現在も八木邸(京都市指定文化財)、前川邸二箇所の新選組屯所跡が、当時のままの形で残っており、それぞれ住人のご尽力により管理保存されている。 寺の正門前の坊城通りを北へ、和菓子店「京都鶴屋」の奥に、八木邸がある。この八木邸において、芹沢鴨らが暗殺された。現在は内部が一般公開されている。
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築城:1603年(慶長8年) 築城主:徳川家康 城郭構造:輪郭式平城 城主:徳川家(江戸時代) →皇室(明治17年〜昭和14年) 元離宮二条城は徳川家の栄枯盛衰をはじめ、日本の歴史の移り変わりを見守ってきたお城。
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二条城の正門 東大手門
現存の門は1662年(寛文2年)頃の建築。 【二条城の歴史】 ◎1601年…徳川家康が西日本の諸大名に二条城の築城を課す。 ◎1603年…二条城完成 (現在の二の丸部分)。家康初めて入城。 ◎1624年…3代将軍家光、城の拡張・殿舎の整備に着手。 ◎1626年…本丸・二の丸・天守閣完成。現在の規模となる。 ◎1750年、1788年…天守閣、大丸御殿が焼失。
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唐門
二の丸御殿の正門。 四脚門で、その屋根の前後に唐破風が付く。 【続き】 ◎1867年…二の丸御殿 大広間に重臣をあつめ、慶喜が大政奉還の意思を表明した。 ◎1868年…城内に太政官代(現在の内閣)を置く。 ◎1884年…皇室の別邸 「二条離宮」となる。 ◎1893年…京都御所の北東にあった桂宮御殿を本丸に移築し、本丸御殿とする。 ◎1939年…宮内省が二条離宮を京都市に下賜。
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唐門の裏 アップ
【唐門】 長寿を意味する「松竹梅に鶴」、聖域を守護する「唐獅子」など、豪華絢爛な極彩色の彫刻を飾る。 2013年(平成25年)の修復工事によって、往時の姿によみがえった。
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二の丸御殿
東南から北西にかけて、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が雁行形に立ち並ぶ御殿。部屋数33室、800畳余りもある内部。 ★内部は撮影禁止! ・代表的な「松鷹図」 ・将軍の威厳を示す虎や豹 ・桜や四季折々の花を描いた日本絵画史上最大の画派である狩野派の障壁画(模写画)✨ で装飾されている。 国内の城郭に残る唯一の御殿群として国宝に指定。
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二の丸御殿の屋根 アップ
【二の丸御殿の廊下 鶯張り】 人が歩くと鳥の鳴き声のような音が鳴る。 目かすがいと釘のこすれによって生じている。 【遠待(虎の間) 】 来殿者が控える場所で、二の丸御殿最大の建物。 獰猛な虎の絵や壮大な空間は徳川家の権力の大きさを実感させた。 【式台】 将軍への用件や献上物を取次ぐ場所。 表の「式台の間」、裏の「老中の間」からなる。 障壁画には、永遠に続く繁栄を表す松が描かれている。
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スポット内のおすすめ
【大広間】 ◎三の間 厚さ35センチの檜の板を両面から透かし彫りした欄間の彫刻や、大広間や黒書院の柱に取り付く花熨斗形(はなのしがた)の長押金具は大変豪華。 ◎一の間・二の間 将軍と大名や公卿衆との公式の対面所。 一の間(上段の間)、二の間(下段の間)からなり、大政奉還が表明された場所✨ 障壁画は狩野探幽筆。
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スポット内のおすすめ
【黒書院】 江戸時代の名称は「小広間」。大広間に次ぐ公式の場。将軍と徳川家に近しい大名や高位の公家などが対面した。 一の間と二の間は「桜の間」と呼ばれた。 襖絵は探幽の弟・尚信筆。 【白書院】 江戸時代には「御座の間」と呼ばれ、将軍の居間と寝室。 一の間・二の間…名勝・西湖が描写。 三の間…伝説や歴史上の人物が描写。
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スポット内のおすすめ
【大広間 四の間】 将軍の上洛のときに武器をおさめた場所。 ◎障壁画の「松鷹図」 二の丸御殿の中でも最も有名なもの。桃山時代の様式を取り入れた巨大な松と勇壮な鷹が描かれている。✨ 幕府御用絵師であった狩野派の若き棟梁・狩野探幽が一門の総力を挙げて制作したもの✨
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二の丸庭園
神仙蓬莱の世界を表した、書院造庭園。 池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配している。 ◎1602年~1603年頃(慶長7年~8年 家康時代) 二条城の造営時に作庭。 ◎1626年(寛永3年 家光時代) 後水尾天皇行幸のために一部改修。 二の丸御殿の大広間、黒書院、行幸御殿の3方向から鑑賞できるように工夫されている。
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二の丸庭園
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清流園(洋風庭園)
京都の豪商・角倉家の屋敷跡から建築部材、庭石、樹木を譲り受け、1965年(昭和40年)に作庭。 ◎和洋折衷庭園 東半分…芝生を敷き詰めた洋風庭園。 西半分…二棟の建物を含めた池泉回遊式庭園(和風庭園)
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清流園(和風庭園)
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清流園(和風庭園) 香雲亭
和楽庵と同じく、旧角倉了以屋敷から移築したもの。 通常、内部は非公開で、南側から外観を眺めるのみ。 夏や冬に期間限定で香雲亭内における食事可能。 「二条城ウエディング」として結婚式の挙式場として活用されている。
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スポット内のおすすめ
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創建:不詳(高雄山神護寺の境内にあった) ⇒1886年 現在の地に移転。 御祭神:和気清麻呂公、和気広虫姫 社格:旧 別格官幣社 ◎いのしし神社 ◎育児の神(和気広虫姫)として信仰を集める
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鳥居と狛イノシシ
【歴史】 創建年は不詳だが、もとは洛西の高雄山神護寺の境内に清麻呂公の霊社として祀られ、古くから「護法善神」と称されていた。 江戸時代末の嘉永4年(1851)、孝明天皇は清麻呂公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられた。 明治7年(1874)、「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられました。
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鳥居
【歴史】 明治19年(1866)、明治天皇の勅命により、華族中院家邸宅跡地であった現在地に社殿を造営し、神護寺境内からご遷座。 後に姉君の和気広虫姫も主祭神として合わせ祀った。 その後、崇敬者により境内の霊猪像(狛いのしし)が奉納され、「いのしし神社」とも呼ばれ親しまれている。
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表門
【和気清麻呂】 桓武天皇は、都を平城京から長岡京へ遷された。 しかし新しい都造りがはかどらず、清麻呂公は平安京の建都に貢献された。 【姉君 - 和気広虫姫】 早くから宮廷にお仕えし、そのお人柄は「他人の悪口を言うことがない」と天皇からも厚く信頼されていた。 天平宝字8年(764)に起きた藤原仲麻呂の乱の影響で身寄りを失った子どもたち83人を養子として養育されるなど、大変慈悲深い方だった。
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狛イノシシ(阿)
【和気清麻呂とイノシシ】 奈良時代・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧が法王となって絶大な権力を振るっていた。 天皇の位も奪おうと考え、「『道鏡を天皇にすれば天下は平和に治まる』と宇佐八幡よりご神託(お告げ)があった」と天皇にウソを言う。 天皇はご神託が本当なのか疑ったため、和気清麻呂公に九州の宇佐八幡へ行って確かめるよう命じた。 清麻呂公は宇佐八幡へ赴き、ウソであることを知った。
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狛イノシシ(吽)
清麻呂公は都へ戻り、大神のご神託を天皇に報告。 野望をくじかれた道鏡は激しく怒り、清麻呂公の足の腱を切った上、大隅国(鹿児島県)への流罪とした。 清麻呂公は皇室を守った大神に感謝するため、宇佐八幡へ立ち寄ることに。 そして、一行が豊前国(福岡県東部)に至ると、どこからか三百頭ものいのししが現れ、清麻呂公の輿の周りを囲み、道鏡の刺客たちから守りながら、十里(約40km)の道のりを案内してくれた。
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霊猪手水舎・花手水(夏越大祓期間限定)
清麻呂公が宇佐八幡での参拝を終えると、いのししたちはどこかへ去っていた。 不思議なことに、清麻呂公の足の痛みは治り、再び歩けるようになっていた。 【霊猪手水舎】 幸運の霊猪と言われる、この猪の鼻をなでると幸せが訪れると言われる。
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拝殿・茅の輪くぐり
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茅の輪くぐり(夏越大祓期間限定)
6月に伺ったので、茅の輪がありました。 茅の輪くぐりをして、厄祓いしてきました!
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拝殿
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四神相応図
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中門と本殿
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中門
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飛翔親子猪
【チェーンソー彫刻「飛翔親子猪」】 祈願殿の南側に飾られているこの像の材はこの地に生い立っていた樹齢300年の桂の木。 祈願殿建設に際しやむなく伐採した桂の根株を、チェーンソーアートの世界チャンピオン城所ケイジ氏が「生命のよみがえり」をテーマに彫刻し、翼の生えた神猪が子猪を守る姿が表現されている。 また、その両側には同氏が北山杉で彫刻した作品「昇り神猪と降り神猪」が展示されている。
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祈願殿
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足萎難儀回復の碑
【足萎難儀回復の碑】 本殿に向かって右側の招魂樹(おがたまのき)のそばにある「足萎難儀回復の碑」には、足腰の病気やけがの回復を願って多くの方がご祈願に来られる。 参拝者は足形の石の上に乗ったり、碑をさすったりして祈願する。
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手水舎(花手水・夏越大祓期間限定)
かわいいイノシシさん⸜❤︎⸝
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和気清麻呂公銅像
【和気清麻呂公銅像】 平成10年、和気清麻呂公千二百年祭を記念して、境内北側に清麻呂公の銅像が建てられた。 造形作家の松本繁来氏の手によって、御所に向かい真っ直ぐな眼差しを注ぐその像は、清廉潔白と称された清麻呂公のイメージをよく表している。 台座の「和気清麻呂公」の文字は茶道裏千家前家元千玄室氏の御揮毫。
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さざれ石
【さざれ石】 清麻呂公像のすぐ後ろには、国歌「君が代」に詠まれる「さざれ石」がある。 その大きさは幅3m、高さ2mで、まさに大きな巌。 大小様々な石が集まって頑強な巌になっている様を見ていると、「君が代」の和歌に詠まれた国を想う心が偲ばれる。
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警察消防招魂社
警察や消防で職務に殉じた人をお祀りする、警察消防招魂社。
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久邇宮家御霊殿
1964年(昭和39年)旧久邇宮家邸宅より遷座。
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祖霊社(近衛社)
護王神社の歴代宮司、神職、役員総代の霊を祀られてる。
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伊勢神宮遥拝所
東に向いて参拝となりますが、実際の伊勢神宮は東南の方向。
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伊勢神宮遥拝所の左手
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針の碑
毎年2月8日に行われる針供養祭で、普段使っている縫い針を柔らかい蒟蒻に刺して労をねぎらい供養し、針仕事の上達を祈願するもの。
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吉井勇歌碑
この奥にある“カリンの木”(御神木)を詠んだものが書かれている。
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創建:1885年(明治18年) 御祭神:三條實萬・三條實美 父子 社格:旧 別格官幣社 ◎萩の宮。9月は萩祭り。
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鳥居
【歴史】 明治維新に大きく貢献した三條實萬・三條實美父子を、三条家の邸宅跡にを祀るため、社殿が造営される。 社殿の修復等の資金集めに苦慮していた2013年(平成25年)、境内の参道を含む土地をマンション開発業者に60年の定期借地権で貸し、その賃貸料を社殿の修復費用に充てることとした。 ⇒第1鳥居と第2鳥居の間にマンションが建っている。
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鳥居
この鳥居からが、本番! これより手前は、マンションが建ってる!
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スポット内のおすすめ
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参道
緑に囲まれて心が落ち着く…。
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染井の水
【染井の水】 参道の左手にある井戸の水は「染井の水」と呼ばれ、京都三名水の一つで、唯一現存している。 飲料可。 境内は、藤原良房の娘明子(あきらけいこ-清和天皇の御母染殿皇后)の里御所の趾で、宮中御用の染所の水として染井の水が用いられたといわれている。 染井は甘くまろやかな味で、茶の湯にも適す水としても知られている。
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染井の水
1人5Lまで御神水として持ち帰れる。 地元民はペットボトルに水をくんでました!
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愛の木
【愛の木】 桂の木の葉がハート形になっている為に名付けられたとされる。 染井の水の隣にあります。
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中門
参道をまっすぐ行くと、ここに来ます。 ここをくぐると、小さな森に入った感覚。
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拝殿
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本殿
拝殿の奥に。
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参道の右手には…
よーく見ていただくと、干支が描かれてるんです!
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特別御朱印
御朱印の写真(右手)はあまり撮らないのですが、この特別御朱印は珍しくて撮りました! 紺と赤で選べます。 ファイル(左手)付きです!これまた珍しい! 御朱印をファイルに入れて、渡してくださります。
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正式名:頂法寺 創建:伝・用明天皇2年(587年) 山号:紫雲山 宗派:天台宗 本尊:如意輪観音 開基:伝・聖徳太子
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山門
【歴史】 淡路島に漂着した如意輪観音像を念持仏としていた聖徳太子。 用明天皇2年(587) 四天王寺建立の材木を求め、京都盆地を訪れた。 太子が池で身を清めるにあたり、念持仏を木に掛けたところ動かなくなり、この地にとどまって人々を救いたいと太子に告げた。 そのため、六角形の御堂を建てて安置したといわれている。
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山門
【御本尊とご利益】 本尊である如意輪観世音菩薩は、思いのままに願い事をかなえてくれる「宝珠(如意宝珠)」と、魔を打ち砕く「輪宝(法輪)」を持っておられる。 人々の苦しみを除き、願いをかなえ、特に長寿、安産、魔除に功徳があるとされている。 古来より、特に寿命を延ばす、病気を治すなどの健康面でのご利益があるとされ、子宝に恵まれたり、難産を緩和させるといったご利益もある。
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本堂
【本堂】 1877年(明治10年)の建立。 京都市指定有形文化財。 平面六角形の屋根を二重に重ね、手前には入母屋造、千鳥破風付きの礼堂を設ける、複雑な屋根構成。 内陣には秘仏本尊如意輪観音像を安置し、 向かって左に毘沙門天立像(重要文化財)、 右に不動明王立像を安置する。
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本堂
【親鸞との関係】 鎌倉時代の初め、比叡山で修行していた親鸞。 建仁元年(1201)29歳の時、六角堂に百日参籠するという誓いを立てた。 聖徳太子を深く尊敬していた親鸞は、京都における太子ゆかりの寺院として、六角堂に思いを寄せていた。 参籠は、夜になると比叡山を下りて六角堂に籠もり、朝には山に戻る繰り返しだったという。 そして95日目の暁に如意輪観音からお告げを受け、浄土真宗を開くきっかけを得た。
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本堂
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へそ石
【へそ石】 本堂東側、柵で囲われた中にある。 「へそ石」または「要石(かなめいし)」と呼ばれる。 旧本堂の礎石と伝えられ、頂法寺が平安京造営以前から存在し、位置もほぼ移動していないことから、この石が京都の中心であるといわれている。 石の中央に孔があり、元来は燈籠等の台石であったと思われる。 また、祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式は、江戸時代末まで六角堂でおこなわれていた。
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お手水
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十六羅漢
【十六羅漢】 羅漢とは、仏の教えを護り伝えることのできる優れた僧侶に与えられた名前。 十六というのは、方位の四方八方を倍にした数で、あらゆる場所に羅漢がいることを意味している。 六角堂の十六羅漢は、「和顔(わげん)愛語(あいご)」を実践し、いつもにこにこしている。 いつも優しい顔つきで、穏やかに話をするように心がけてさえいれば、必ず良い報いがあるという教え。
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池坊 立花
【華道 池坊】 聖徳太子の命により小野妹子が入道し仏前に花を供えたことが華道の由来とされる。 池坊の僧は、頂法寺の住持として本尊の如意輪観音に花を供えることとなっており、花の生け方に別格の妙技を見せることで評判となっていた。 池坊12世専慶が立花の名手として知られ、ここから池坊としての立花が生じた。 池坊13世専応が立花の理論と技術を初めて総合的に体系化した。
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太子堂
【太子堂】 人工池に面して建つ、平面六角形、朱塗りの小堂。 内部には、 ◎太子が合掌して「南無仏」と唱える二歳像 ◎父である用明天皇の病気平癒を祈る十六歳像 ◎仏教の受容をめぐって物部守屋と戦った姿を表す騎馬像 を安置している。
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聖徳太子沐浴の古跡
【聖徳太子沐浴の古跡】 太子堂の西側、池の中にある石でできた井筒は、聖徳太子沐浴の古跡と伝えられる場所。 当時このあたりにあった池に太子が入り、身を清めたと伝えられる。 現代の境内整備事業で池がよみがえり、白鳥や鯉が泳いでいる。
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スポット内のおすすめ
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池坊会館前
現在は華道家元「池坊」の本部ビル・池坊会館があり、その3階には「いけばな資料館」がある。
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創建:天慶元年(938年) 山号:廬山 宗派:天台圓浄宗 寺格:大本山 本尊:阿弥陀如来 開基:元三(がんざん)大師 良源
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山門
【歴史】 比叡山天台18世座主 元三大師 良源によって、天慶年中(938年~947年)に船岡山の南に創建された。 寛元3年(1245年)法然の弟子である覚瑜が船岡山の南麓に再興、中国の廬山にならって蓮社を結び道俗貴賎が群集し、廬山天台講寺と号した。 室町時代、応仁の乱で焼失。 元亀2年(1571年)織田信長の比叡山焼き討ちから、正親町天皇の女房奉書により免れた。
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手水舎
天正年間(1573~1593)現在地に移転。 寛政6年(1794年)度々の火事のため、現在の御仏殿(本堂)と御黒戸(尊牌殿)は、光格天皇が仙洞御所の一部を移築、造営。 明治維新までは御黒戸四箇院(宮中の仏事を司る4つの寺院)の中の一つだった。 だが、廃仏毀釈により宮中より天台宗にお預けになり、明治天皇の勅命により当山のみが復興(現存する唯一の摂家門跡)。 現在は天台圓淨宗として今日に至る。
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大師堂
【大師堂】 本尊は元三大師(良源)。 他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置。
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角大師護符
【良源】 元三大師・良源は比叡山中興の祖と言われる。 僧として数々の業績を残され、平安後期から鎌倉期にかけて説話集が作られた。 この中に霊験者としての良源が存在するようになってくる。 魔滅大師(豆大師)魔を滅する大師や、角大師と呼ばれ、その護符が生じた。 ⇒角大師の護符を家の内に貼っておくと疫病神の災厄から逃れることが出来るという、厄除け信仰は現代でも根強く生きている。
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鐘楼
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筆塚
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紫式部顕彰碑
【紫式部顕彰碑】 1965年(昭和40年)考古学者 角田文衛博士によって、この邸宅址は考証された。 新村出博士によって、顕彰碑に「紫式部邸宅址」と揮毫された。 紫式部が育ち、未婚時代を過ごしたのは堤第といわれた藤原兼輔(紫式部の曽祖父であり、堤中納言といわれる)が建てた邸宅であった。 この邸宅で紫式部は結婚生活を送り、一人娘の賢子(かたこ)を育て、源氏物語を執筆した。
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本堂 受付出入口
【木造 阿弥陀如来・両脇侍坐像(国指定重要文化財)】 13世紀初め(平安~鎌倉時代)の製作と推定される作例で,来迎阿弥陀像と称される。 臨終を迎える者の許に出現した阿弥陀如来と観音・勢至菩薩をあらわした彫像。 両菩薩は膝を揃えた坐り方で,衣が後方に強くなびく様子を表すことで,来迎のスピード感を強調しているのが注目される。
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紫式部
本堂入口を入ると、紫式部がお出迎えしてくれます。
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中庭
この中庭の奥に裏庭、右手に本堂・源氏庭があります。
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裏庭
6月に行ったので、紫陽花が咲いてました🌱
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裏庭
紫陽花アップ!
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源氏庭
御本尊の目の前に広がる、美しい源氏庭🌱✨ 【源氏庭】 源氏庭は平安朝の庭園の「感」を表現したものであり、白砂と苔の庭。 源氏物語に出てくる朝顔の花は今の桔梗のことであり、紫式部に因み、紫の桔梗が6月末から9月初め頃まで静かに花開く。
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源氏庭と桔梗
御本尊の目の前に、源氏庭をゆっくり眺められるようにお座敷があります。 ゆったり時間が過ぎていきます🌱✨
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源氏庭と桔梗
【節分会 追儺式(ついなしき)鬼法楽 】 通称 鬼おどり 元三大師 良源が修行中に邪魔をしてきた鬼を退散させたという故事に由来する。 3匹の鬼は3種の煩悩(貪欲・瞋恚 しんい ・愚痴の三毒)を表している。 この3鬼を節分で追い払い、開運を図る。
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源氏庭と桔梗
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御朱印 紫式部
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創建:1007年(寛弘4年) 御祭神:安倍晴明 社格:旧村社 HP参照引用
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一の鳥居
【一の鳥居】 額に掲げられた金色に輝く社紋「晴明桔梗」が特徴的。 鳥居の額には、通常、神社名やお祀りしている神様の名前を掲げることが多いが、この鳥居には社紋が掲げられており、全国的にも珍しいものといわれる。 「晴明桔梗」は「五芒星」とも呼ばれ、晴明公が創られた陰陽道に用いられる祈祷呪符のひとつ。
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旧・一條戻橋
【旧・一條戻橋】 安倍晴明公とも縁深い一条戻橋は、平成7年に架け替えられ、現在も晴明神社から南へ100メートルのところにある堀川に架かっている。 源頼光の四天王のひとり、渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所としても有名。 また、現在でも「戻る」を嫌って嫁入りや葬式の列は、この橋を渡らないのが習わし。 先代の橋で使われていた欄干の親柱を境内に移し、昔の風情をそのままに「一條戻橋」を境内に再現している。
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式神石像
【式神石像】 旧・一條戻橋の傍らには、式神の石像が置かれている。 式神とは陰陽師が使う精霊で、人の目には見えない。 晴明公がこの地にお住まいになっていたころには、奥さまが怖がっておられたので、式神は橋の下に封じ込められていた。 その折には、式神がこの橋を渡る人の占い、つまり、橋占(はしうら)をしていたと伝えられている。
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二の鳥居 四神門
【四神門】 四神門(しじんもん)は、当神社の塀重門。 晴明公がお住まいだった当時、朝廷の使いなどが訪れると、この門がひとりでに開き、門から出るとまたひとりでに閉まったそう。 現在でも、それにちなみ、電動で開閉する。 石柱の上には、四神(東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)が掲げられている。
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手水舎
【歴史】 寛弘2年(1005年)に晴明が亡くなる。 寛弘4年(1007年)一条天皇は晴明の遺業を賛え、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。 当時の境内はかなり広大であったが、度重なる戦火や豊臣秀吉の都市整備などにより次第に縮小し、社殿も荒れた状態となる。 また隣接して千利休の屋敷が設けられていた。 幕末以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われている。明治時代になると村社に列せられた。
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本殿
【本殿】 境内のもっとも奥に、晴明公をお祀りする本殿がある。 晴明桔梗が随所にあしらわれ、おごそかな雰囲気に包まれておる。 現在の本殿は、明治38年に建てられたもの。
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スポット内のおすすめ
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安倍晴明公像
【安倍晴明公像】 当神社が所蔵する安倍晴明公の肖像画を元に作成された。 晴明公が、衣の下で印を結び、夜空の星を見て遠く天体を観測しておられる様子をあらわしている。
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御神木
【御神木】 当神社の御神木は、樹齢推定300年の楠。 楠は、かつて虫除けなどに使われる樟脳の原料だった。 樹皮に触れると独特の感覚がある。 両手をあてて大樹の力を感じとってください。
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厄除桃
【厄除桃】 古来、中国また陰陽道では、桃は魔除け・厄除けの果物といわれる。 『古事記』や『日本書紀』などでも魔物を追い払う様が描かれている。 昔話、「桃太郎」もこれに由来するものだと思われる。 誰にでも、自身の厄や、まがまがしいものがある。それをこの桃に撫で付ければ、清々しい気持ちになることができる。
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創建:1382年(永徳2年) 山号:萬年山 宗派:臨済宗 相国寺派 寺格:大本山 本尊:釈迦如来 開基:足利義満 開山:夢窓漱石 ☆現存する法堂は日本最古の法堂建築。 ☆山外塔頭に鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、真如寺がある。
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方丈(右)と庫裏(左)
【庫裏】 禅院の庫裏に多い切妻妻入で、大きい破風や壁面が特に印象的。
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方丈
【方丈】 文化4年(1807年)再建。 ○扁額「方丈」…中国の名筆家・張即文の筆。 ○方丈と周りの杉戸絵、琴棋書画の間の琴棋書画図、聴呼の間の八仙人図…原在中の筆。 ○竹の間の竹図…浄土宗の僧・玉潾の筆。 ○梅の間の老梅図…伊藤若冲の弟子で相国寺第115世・維明周奎の筆。 ○御所移しの間にある吉野山桜図…御所の清涼殿より拝領したもので、土佐光起の筆ともされている。 ⚠︎方丈内部の撮影禁止
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表方丈 庭園
【歴史】 1382年、室町幕府三代将軍の足利義満により創建。 義満は当時、室町幕府「花の御所」と呼ばれた室町第(現在の室町通り上立売あたり)にいたが、新寺はその近くに建てるべく、幕府の東隣にあたる安聖寺付近と定め、家屋の移転がはじめられた。 義満は左大臣(相国)であり、相国寺と名付けられた。
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表方丈
【歴史】 夢窓疎石を開山とし、創建当時は室町一条あたりに総門があったといわれ、北は上御霊神社の森、東は寺町通、西は大宮通にわたり、約百四十四万坪の壮大な敷地に五十あまりの塔頭寺院があったと伝えられている。 幾度も焼失と復興の歴史を繰り返したが、現存する法堂は日本最古の法堂建築として1605年に再建されたもの。
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方丈
【金閣寺と銀閣寺】 境内には本山相国寺をはじめ、十三の塔頭寺院があり、山外塔頭に鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、真如寺がある。
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表方丈 庭園
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白象図
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方丈 西
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スポット内のおすすめ
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裏方丈 庭園
表方丈、裏方丈の庭園の違いが美しい😍✨ 新緑好きの私は、裏が好み!
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裏方丈 庭園
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裏方丈 庭園
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法堂(重要文化財)
【法堂】 「無畏堂(むいどう)」とも言われ、仏殿を兼ねている。慶長10年(1605年)、豊臣秀頼により再建された(5回目)もので、現存する法堂建築では最古のものである。 本尊である釈迦如来坐像と脇持の阿難尊者像、迦葉尊者像は運慶による作。 天井にある蟠龍図は狩野光信の作。 特定の場所で手を打つと反響するため「鳴き龍」と呼ばれる。 ⚠︎写真撮影禁止
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法堂 西(重要文化財)
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浴室
【浴室】 相国寺の浴室は宣明(せんみょう)と呼ばれ、1400年頃創建されたとみられる。 現在のものは、慶長初年(1596)に再建されたもので、平成16年(2002)6月に復元修復された。
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天響楼(鐘楼)
【天響楼】 平成22年(2011)夏に建立し落慶法要が行われた新しい鐘楼。 この鐘は、中国開封大相国寺により二つ鋳造され、その一つが日中佛法興隆・両寺友好の記念として寄進されたもので、「友好紀念鐘」の銘や「般若心経」の経文が刻されている。
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