
大阪・堺を知るなら、ここがオススメ!
大阪大阪・堺を知るなら、ここがオススメ!
まいど! 西日本最大の経済都市である大阪市の南に位置する大阪府堺市では多くの偉人を輩出しています! 「君死にたまふことなかれ」で知られる与謝野晶子氏は堺市に生まれ、これまでの功績を「さかい利晶の杜」で保存、展示を行っています。 博物館の2階では実際に、与謝野晶子氏が過ごした実家の一部が再現されてまして、かつての時代をしのばせまんな。 また、茶人として知られる千利休氏のゆかりの地としても知られ、多くの資料を保存、展示してまんねん。 千利休を訪ねるねんやったら、博物館のすぐ目の前に屋敷跡。 ここがおススメでんな。 なぜなら、かつてはここに屋敷があったっちゅうて、今は安全のために封印されてんねやけど、井戸もまた残されてまんねん。 ほんで、それだけやおまへんねん。 千利休の師匠にあたる武野紹鴎の屋敷跡があるなど、偉人の出身地が密集してんねん、これが。 堺は古くから環濠都市、つまり、川に囲まれた安全な場所として発展し、独自の時代を築いて、今でも由緒正しき寺院、仏閣が数多く残り、その歴史の深さを改めて感じることができる。 堺のことをもっと知るならここで決まり。 堺市の中心部で楽しむ充実した一日を!
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「千利休茶の湯館」「茶の湯体験施設」「与謝野晶子記念館」「観光案内展示室」「和食レストラン」で構成。 千利休茶の湯館では、「利休と堺」「茶の湯」「利休の生涯」のコーナー分かれ、千利休と茶の湯を知ることができる。 さかい待庵は、千利休によってつくられた茶室で国宝の「待庵」を復元。 与謝野晶子記念館では、数多くの作品または著書の展示をはじめ、生まれ育った和菓子商「駿河屋」の店先を、実物大で再現。 観光案内展示室では、歴史、文化の紹介をはじめ、江戸時代後期の堺を描いたとされる「泉州堺絵図」、昭和時代初期の宿院界わいを再現したジオラマ模型を展示。
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わび茶を大成させた千利休。 かつて、この場所にその屋敷があり、豪商・魚屋の息子であったと言う。 現在、市の史跡として指定されている。 豊臣秀吉との深い関係を築いていた。 現在、古い井戸のみが保存されている。
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祭神は、住吉大神、大鳥井瀬大神。 大阪市住吉区に鎮座する住吉大社の御旅所として設置された。 住吉の「宿居」から転じて「宿院」と呼ばれるようになったと言う。 706年、大鳥井瀬神社を創建。 1816年、波除住吉神社を創建。 1875年、大鳥大社の御旅所となる。 夏の大祓日に住吉大社から神輿を迎え、境内にある飯匙堀で「荒和大祓神事」が行われてきた伝統がある。
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開基は日隆、開山は日浄。 1451年、堺の豪商・木屋と餝屋と称する者たちの自宅を法華堂としたのが始まり。 当初、開口神社に近い甲斐町山ノロにあった。 京都の本能寺や尼崎の本興寺を創建、本門流を起こした日隆の流れにあって、南西国末寺頭と呼ばれる寺格を得ていた。 1527年、室町幕府第12代将軍足利義晴を擁する管領細川高国に対抗して、細川晴元と三好元長が阿波から足利義維を迎え堺幕府(堺公方府)を樹立した。 1532年、高国を討ち取った(大物崩れ)後の晴元は、袂を分かった堺の元長へ一向一揆を差し向けて、当寺での元長の自害に追い込んだ。 そのため後ろ盾を失った足利義維は阿波へ去り、堺幕府は滅んだ。
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1502年、大和国吉野郡で生まれる。 父は信久、母は豪族中坊氏の娘。 祖父仲清の戦死後、父信久は各地を放浪の後、「武田が下野して武野になった」という意味合いで「武野」に改姓した。 その後、信久は堺に定住、皮革業を営むようになった。 幼いころから学問を好み、三条西実隆に師事して和歌を学んだ。 和歌において、稽古(勉強・経験の積み重ね)と創意工夫(学んだ通りをするのみではなく、自分で新しく生み出す)大切さを教わった。 紹鴎は、実隆から教わったこの思想を、茶道にも取り入れていくこととなる。 後に紹鴎は弟子を持ち、今井宗久、足利義輝、千利休らを育てた。
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1878年、大阪府堺市生まれ。 老舗和菓子屋「駿河屋」を営んでいた鳳宗七、津祢の三女として生まれた。 実の兄には、鳳秀太郎がいた。 堺女学校(大阪府立泉陽高等学校)を卒業。 1904年、実の弟が日露戦争に招集された際、「君死にたまふことなかれ」を発表。 森鴎外と出会い、一流作家として成長した。 1921年、建築家、西村伊作、画家、石井柏亭らとともにお茶の水駿河台に文化学院を創設する。 男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させた。 「源氏物語」の現代語訳を担当した。
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室町時代後半から江戸時代初期にかけて、黄金の日々を謳歌した「堺」。 貿易都市として、自治都市として繁栄した堺環濠都市遺跡は南北約3km、東西約1kmに及ぶ。 1615年、大坂夏の陣が勃発し、焼失。 江戸時代、江戸幕府によって町割りが行われた、 それ以前の自治都市として繁栄した町の範囲は、一回り狭いものであることがわかったと言う。
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1615年、大坂夏の陣が勃発。 豊臣方の真田幸村(真田信繁)氏による奇襲を受けて輿に乗って逃げ出した徳川家康氏。 豊臣方の後藤又兵衛(後藤基次)氏は怪しいと睨んで槍で突き、家康は南宗寺で絶命した。 周囲に、家康の死は伏せられ、家康の影武者が活躍。 その間、家康の遺体は密かに日光東照宮へ運ばれ葬られたという。 その後、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光が相次いで寺を参詣した。 境内には家康の墓があり、瓦には徳川家の「葵」の紋が描かれている。
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集雲庵は、別名、南坊とも呼ぶ。 室町時代の高僧・一休宗純の弟子、岐翁紹禎により創建された臨済宗大徳寺派の寺院であった。 明治時代、南宗寺の塔頭となるが廃寺となる。
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通称、南十萬と呼ばれている。 1501年、衆徳恩冏(十萬上人)によって開創。 正面に閻魔王、左右には五道大神と泰山府君が並ぶ。 壇の下には司命・司録、そして獄卒に縛られ、あるいは首枷をはめられた罪人が描かれている。 鎌倉時代、閻魔王図が描かれたと考えられるという。
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753年、西国三十三所で知られる徳道上人が開創した。 聖武天皇が大和・長谷寺(奈良県桜井市初瀬)を建立後、勅命で諸国に長谷寺を建立させたが、その中で最も古い寺院と言われている。 本尊の十一面観音は、宿院観音とも呼ばれている。 江戸時代、観音菩薩の札所の創設や出開帳が流行。 1766年、大和長谷寺の観音開帳が行われたと摂陽奇観に載るなど、大和長谷寺との関係は深い。 1945年、空襲で焼失。 1948年、再建された。
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1400年頃、後小松天皇の命により、徳秀士蔭氏が東福寺の末寺として開山。 1615年、大坂夏の陣により、焼失し、現在地に移転。 総檜造りの書院造の建物で、方丈として使用された。 江戸時代、邸宅の部材を再利用し、間取りを変更して移築したもの。 もとは、桃山時代の豪商・納屋助左衛門(呂宋助左衛門)氏の邸宅であった。 1706年、大安寺中興の祖、大円長根氏が建立。
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京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道を総称したもの。 別名、紀伊路や小栗街道ともいう。 中辺路は、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。 大阪市中央区天満橋付近を起点に、堺、和歌山、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋だった。 堺では古くは漁を中心として栄えていた。 その後、遣明貿易などで、日本一の港町として栄え、物資の集まる商業の中心地となった。
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1652年、堺の豪商で、茶匠・今井宗久の曾孫今井兼続が開基。 南宗寺第13世住職清厳宗渭が隠居所として入山し、開山した。 当初、臨江庵と称した。 南宗寺の塔頭の一つで、公儀堀に望んでいたという。 かつては境内に多くの萩があり、「萩の寺」の寺とも呼ばれていた。 曽我十郎・五郎兄弟、松尾芭蕉、今井宗久累代、武野紹鴎らのゆかりの地としても知られている。
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挑源宗悟が開山。 寺号は、開甚大檀越小林修理亮法の姓をとり「小林寺」。 後に、「少」の字に改称。 本尊は釈迦牟尼佛、鎮守白蔵主稲荷明神。 禅通寺と合併し、今池弁財天を祀る。 全盛期には、現在の寺地町・少林寺町を合わせ両町の海浜にまでの範囲を境内としていたが、織田信長に没収され、次第に縮小した。 塔頭耕雲庵の住持白蔵主が、鎮守稲荷明神に參籠して霊狐を得る。 狂言大蔵流の始祖・霊狐の所作を狂言に作り、釣狐として上演。 それ以後、釣狐を狂言や歌舞伎にて上演する際は、少林寺に参詣し、成功を祈願すると言う。 寺内の逆芽竹を1本祈祷してもらった上で持ち帰り、上演の時の杖に使用する慣習になっている。
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1347年、堺の豪商・三宅十五郎が父親の病気回復を住吉社に祈願したところ、夢告によって海より無量寿仏(阿弥陀如来の異称)を得て見事に願いが叶ったため、報恩のために七堂伽藍を建立したという。 当初、堺区宿院町西附近にて開創。 後に、堺市立少林寺小学校の位置に移転した。 京都の時宗四条派・四条道場金蓮寺の有力末寺であり、尾張国熱田円福寺、近江国木之本浄信寺、摂津国尼崎善通寺とともに、四条派の四箇本寺であった。 当時は「堺四条道場」とも呼ばれた。 1873年、明治維新の廃仏毀釈の影響で廃寺となった。
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1622年、風海によって開創。 当初、野山一心院延明院の末寺、返照山大日寺と称していた。 1697年、真言宗大覚寺派となり、その後、高野派に戻って現在に至る。 室町時代、本尊愛染明王が造られた。 通称「愛染さん」とも呼ばれている。 中将姫作と伝えられ、旧向泉寺の本尊で、「方違観音」と云われる十一面観世音菩薩像は、第二次世界大戦の際焼失、 暹羅(しゃむ)(タイ国)より将来した降魔釈迦銅像も同大戦で破損した。 1835年、天保の飢饉の際、旭地蔵尊は、現在の龍神あたりで作られた。 毎年5月31日・6月1日に愛染まつりを開催する。
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天然温泉。 「南宗のお湯」は、地下1300mから湧き出ている。 天然温泉をはじめ、サウナやエステ、天然温泉プールなどが楽しめる。
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1552年、今井宗薫は、茶人の今井宗久の長男として生まれた。 堺の豪商の一人として知られ、茶の湯を学んだ後、豊臣秀吉や徳川家康に仕えた。 1600年、関ヶ原の戦いの後、河内・和泉二国の代官となった。 屋敷は、大阪府堺市五ヶ荘花田にあった。 現在地にあったとされる今井宗薫の屋敷は、織田有楽斎から譲り受けたもの。
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祭神は、天穂日命、菅原道真。 菅原道真が左遷により大宰府に赴く途中、伯母がいる道明寺の覚寿尼で別れを告げた。 船を待つ間、菅原氏の祖神を祀る当社に参拝、松の木を植え出発。 菅原道真の子孫、菅原朝臣為紀が当地を訪れた。 塩穴天神社から遷座、安楽院の移転後、神仏分離で廃寺。 境内には、菅原道真が座ったと伝わる腰掛石が残る。 境内小社の瘡神社は、瘡疾(できもの)が流行し、痛みや苦しみを訴えながら亡くなっていく中で、当時の村民らが医薬の祖神・少彦名命を祀り、祈願。 霊験あらたかにして、瘡に病む人は忽ち平癒したと伝わる。 境内の水掛不動尊では毎年、柴燈大護摩修業が行われ、護摩木の御火焚により厄除を祈願。
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湊西ぼうさい公園内にある碑。 碑には湊西地域の歴史や文化、神社、寺院仏閣などの紹介と場所を示す地図、写真が記載されている。 公園の前には大阪府大阪市から和歌山県までを結ぶ紀州街道があり、古くから人の往来があり、地域一帯で栄えていた。 地図には、当時の紡績会社や小学校も紹介されている。 また、公園の地下には、災害に備え、約100トンの耐震性貯水槽が設置されている。
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新湊小学校付近にある風車。 大正時代、畑のかん水用といて考案された。 羽根は6枚あり、大阪湾から吹き抜ける浜風を受け、風車のクランクとぽんぽの軸が上下に動くことによって井戸から地下水をくみ上げる仕組み。 付近は、みつはや青ねぎの畑作が盛んで、風車によってくみ上げた水を貯めた貯水池から野菜に水を与えていた。
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風車
小学校の校舎の壁面にも、風車が複数個所、描かれている。
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