
★粉浜の住之江(住ノ江)に来た加賀屋
大阪★粉浜の住之江(住ノ江)に来た加賀屋
まいどまいど! 大阪府庁の咲洲庁舎がある大阪市住之江区内を散策しまひょ! 住之江区内には住之江公園や桜が美しい大阪護国神社、昔ながらの小浜商店街がある一方、オスカードリームや温泉もあり、楽しみ方も様々。 かつての時代、「住之江」は「住吉」として万葉集にも登場し、太古の時代から親しまれていたという歴史も残ってまんねん。 また、古くは島々が点在していた地域でもありまねやけど、江戸時代、活発に行われた新田開発により、今のような陸地になり、人々が集まるようになったとか。 そんなきっかけになった場所が北加賀屋。 ここには新田開発を行うための事務所が設けられ、現在もその歴史が語り継がれてまんねん。 あれやこれやといろんな歴史が残る住之江と住ノ江。 そんな住之江では最近、町おこしが活発で、パルクキタカガヤでは大阪市電3001形3012号が展示、保存され、名村造船所跡ではアートを中心にした各種の活動が展開されてまんねん。 かつては日本最初で最大の造船所があったといい、今もその伝説が石碑などによって語り継がれてまんねん。 一度、あなたの目で散策してみてはいかがでっしゃろか。
1995年、新しいターミナルタウンとして開業した。 1階には店舗の隣接してバスターミナルが併設されている。 また、大阪市営地下鉄四つ橋線・ニュートラム南港ポートタウン線の住之江公園駅にも連絡通路で結ばれている。 物販や飲食店などのほか、多目的ホール、ホテルなどがある。
1930年に完成した住之江公園にはかつて、大阪住之江競輪場があった。 日本で初めて競輪開催が行われた小倉競輪場に次ぎ、関西地区で初めて競輪開催が行われた場所として知られている。 1949年、第1回全国争覇競輪(現在の日本選手権競輪)が開催された。 1964年、競輪場が廃止され、公園としての整備を再開し、野球場が設置された。 2009年、関西独立リーグの大阪ゴールドビリケーンズがメイン球場としている。
1900年から毎年、城東練兵場で弔魂祭を行っていた。 1940年、鎮座祭が行われた。 1963年、遷座祭が行われた。
大和川が付け替えられてから掘られた堀川である十三間川は、主に舟運や排水を目的にしていた。 現在は、憩いの場として親しまれている。 十三間川は、大和川の浄化水が導入されている。 せせらぎは自然石や小橋、遊歩道の間を流れるよう工夫され、また多数の樹木も植樹されている。
1745年、加賀屋甚兵衛によって新田が干拓された。 新田の開拓による埋め立て工事は、北へと拡張された。 江戸時代末期まで民間資力による開拓事業が続いた。 その間に開拓された総面積は、現在の大阪市域の約33%にあたる。 1754年、当地に会所が建設。 「愉園」と呼ばれる小堀遠州流の築山林泉式庭園や数寄屋風の建物が一部現存。 現在、大阪市有形文化財や史跡に指定。
駅前なので、通勤客・通学客でにぎわっている。 主に、飲食店や雑貨店が立ち並んでいる。
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江戸時代中期、この付近は海岸線であった。 そして白砂青松の名勝地として知られた他、松風が霰を吹きつけるように響いたのでこの名があるという。 江戸時代、大和川付け替え工事や新田開発により、海岸線が移動し景観が一変してしまった。 碑の前の道は紀州街道で、高麗橋東詰の里程元標を起点に、堺筋を南下、和歌山に至っている。
かつて、この付近は、新田として干拓されたその一部である。 江戸時代、新田では、水利や運搬のため井路川という水路が掘られた。 1950年代、豊かな農産物を積んだ小船が行き交っていた。 この井路川は、当時、大きな役割を果たしていた。 現在、この碑だけが当時を物語っている。
江戸時代、大阪の川船として剣先船があり、荷物運搬船として活躍していた。 1752年、約三百隻が運航していたとされる。 住之江区では、大和川や十三間川の開削と同時に運航が始められた。 剣先船と呼ばれた由来は、船首が刀のようにとがっていたところから。
飲食店や雑貨店などが立ち並ぶ商店街。 全長約400m。 周辺の加賀屋本通商店街、中加賀屋商店街、加賀屋一番街などと接続する。 愛称はそれぞれhihi(ハイハイ)カガヤ、フラワータウン、センターロード、KAGAYA一番街。
大きな恐竜の顔のオブジェ
北側には大きな恐竜の顔のオブジェが飾られ、商店街のシンボル的存在となっている。
ラーメン、つけ麵の専門店。 店内はカウンター席のみ。 2017年、開業。 店名の由来は、人と人の繋がり、ラーメンと人を繋ぐ。 メニューは、今も昔も中華そば、明日の塩らーめん、生しらす丼など。
つけ麺 醤油
つけ麺 醤油。
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主に、飲食店や居酒屋、雑貨店などが立ち並ぶ。
昔ながらの雰囲気漂う商店街
粉浜本通商店街と接続する。
万葉集。住吉は、すみのえとして登場
万葉集「住吉(すみのえ)の 粉浜のしじみ 開けも見ず 隠りてのみや 恋ひ渡りなむ」として登場。 粉浜付近で獲れたシジミ。 殻を開ることもなくこもったままのシジミ。 私も恋人に本当の想いを伝えることもなく、ずっと心の中に込めたまま、恋を続けるのか・・・ との思いが込められている。
南海電車沿線と並行するように軒を連ねる粉浜商店街。 その商店街の一角に市場が設置されている。 市場内では、惣菜、薬品などが販売されている。
うどんやカレーうどん、雑炊などを味わうことができる飲食店。 店内はカウンター席とテーブル席がある。 メニューはざるうどん、ぶっかけうどんなど。
ネギトロ丼セット。
ネギトロ丼セット
飲食店や雑貨店などが立ち並ぶ商店街。
祭神は菅原道真。 かつて、天王寺村天下茶屋の柴谷利兵衛らが新田として干拓された歴史があり、勧請されて創建された。 1951年、一時廃絶していたが、本殿、拝殿、社務所が再建された。
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大阪市電3001形3012号がおおさか創造千島財団によるパルクキタカガヤの企画で保存、展示されている。 2022年、毎日16時ころからライトアップされる。
おおさか創造千島財団
2011年、おおさか創造千島財団が千島土地により設立。 大正時代から昭和時代にかけて大阪は「大大阪」「東洋の煙の都(マンチェスター)」とも呼ばれ、大阪湾岸には多くの工場が林立した。 かつての活気を取り戻そうと2004年に発足。
展示、保存
珍しい車両も。
温泉名は、正楽明泉の湯。 施設内には、檜湯楽と呼ばれる檜風呂を筆頭に、泡湯、寝湯、香り風呂、打たせ湯などがある。 その他、足湯や腰掛湯、水風呂、スチームサウナなどがある。 「木の湯」と「岩の湯」の2つのエリアがあり、浴槽は21ある。 高い塩分濃度によって体が浮く死海風呂や壁一面に水晶を埋め込んだ宝石サウナが好評。 他、駐車場があり、食事処もある。
2007年、国の近代化産業遺産に認定。 2009年、近代化産業遺産(名村造船所大阪工場跡地)を未来に活かす地域活性化実行委員会が発足。 北加賀屋クリエイティブビレッジ構想が始動し、現在はアートを中心にした各種の活動が展開。 クリエイティブセンター大阪は工場の移転後、休眠状態の敷地を活性化させる目的で設立。 敷地内にはライブスペースSTUDIO PARTITA、総合事務所棟と野外スペースなど、複数の会場がある。
名村造船所
名村造船所とは大阪府大阪市西区に本社を置く日本の造船会社である。
本社が住之江区から西区に移転
1911年、名村源之助により創業。 1931年、大阪府大阪市住之江区の旧村尾船渠の施設を買収し、本工場とした。 1974年、佐賀県に伊万里工場が竣工し、操業開始。 1979年、大阪工場が売却され、本社が住之江区から西区に移転。
大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)の検車場に設置された社員食堂。 店内はテーブル席のみ。 メニューは定食やうどんなど。 1972年、緑木検車場開設。 1986年、緑木車両工場開設。 御堂筋線、四つ橋線、中央線、谷町線、千日前線など第三軌条方式の全ての車両を工事、検査する車両工場が併設。 市電保存館では二階付電車や散水車を含む大阪市電の車両が保存。
かつて存在した民間造船所。 日本最古の造船所とも言われ、日本海軍の艦艇や鉄道車両を製造した。 1689年、大阪市北区堂島1丁目で船小屋「兵庫屋」として創業。 1854年、紀州藩の御座船を受注し、西区江之子島1丁目に移転。 西洋式船舶の君沢型スクーナー船、木造外輪汽船を建造、近代的造船所となった。 1874年、西区千代崎3丁目に移転、藤永田造船所に改称。 1884年、大正区千島1丁目に移転。 1917年、住之江区柴谷1丁目に敷津工場を開設。 1919年、海軍指定工場となり、初の海軍艦艇建造となる駆逐艦「藤」を受注。 1921年、鉄道車両、鋳鉄管、化学工業機器などの製造に取り組んだ。
藤永田造船所
大正区の船町造船所と合併、設立。 1944年、太平洋戦争中には駆逐艦の増産が行われ、軍需会社に指定。 当時、従業員は16,508名を数え、大阪では大阪陸軍造兵廠、住友金属工業に次ぐ規模となった。 1945年、大阪大空襲により被災。 戦後、漁船、明治海運を中心とした同型貨物船建造、LPG船等を建造。 1962年、化工機部門を分離して藤永田エンジニアリングを設立。 1967年、三井造船と合併。
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