駿河城下を散策する徳川家康と竹千代の足跡
静岡駿河城下を散策する徳川家康と竹千代の足跡
まいどおおきに! 今回は日本の歴史上、欠かすことのできへん徳川家康公の住んでいたまちを取り上げていきまひょ。 今や徳川家康公っちゅうたら、江戸城を開城させ、以後も長らく江戸時代を築いたという印象が強いかも知れま経んけども、実は当地にもゆかりがおまして、市内には今川氏と徳川家康公が居城とした駿河城、静岡浅間神社があるなど、見どころが満載。 特に駿河城ではこれまでぎょうさんのイベントが開催され、現在は、市民の交流の場ともなってまんな。 また、場内には徳川家康公ゆかりの鷹狩り姿の像や手植えのミカンが今も育てられているなど、約400年の時を超えて、現代人との距離が少し縮まったようにも感じる場所やおまへんやろか。 今回は、そんな徳川家康公の過ごした葵区内を主に取り上げていきまっせ! ほな、まいどおおきに。
東海道新幹線、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の停車駅の一つ。 1889年、開業。 1981年、静岡駅ビル「パルシェ」オープン。
徳川家康(幼名、竹千代)の像
2009年、江戸幕府の初代・徳川家康は幼少期、静岡県静岡市で過ごしていたとされ、駅前には徳川家康(幼名、竹千代)の像が建立されている。
商業施設、業務施設、公共公益施設(美術館)宴会場などがある。 2010年、高さ125m、地上25階、地下2階建てとして開業。 国宝や重要文化財などを保存、公開している静岡市美術館がある。
1949年、駿府城跡を利用して開園。 2006年、日本の歴史公園100選に選定。 1989年、市制100周年記念事業として地方博覧会「SUNPU博‘89」が開催。 イベントとしては静岡まつりや大道芸ワールドカップin静岡などがある。 1300年代、室町幕府の駿河守護に任命された今川氏によって今川館が築かれ、今川領国支配の中心地となった。 今川氏は甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と同盟を結び、領国支配を行ったが、甲斐を中心に領国拡大を行っていた武田氏との同盟関係が解消され、武田氏の駿河侵攻により今川氏は駆逐され、城館は失われた。 1582年、織田・徳川勢力によって滅亡、徳川家康の領有となった。
歴史
1590年、豊臣政権となり、後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城する。 江戸時代、徳川秀忠に将軍職を譲って以降、江戸から駿府に隠居した。 1616年、駿府城で家康が没するまで、江戸と並ぶ政治・経済の中心地となった。
鷹狩り姿の徳川家康公之像
鷹狩り姿の徳川家康公之像。
家康公お手植えみかん
家康公お手植えみかん。
静岡浅間神社の門前町として発展してきた。 現在は飲食店や雑貨店などを中心に、浅間神社から駿府城付近までの約600mの間で軒を連ねている。 また、山田長政(仁左衛門)は馬場町の生まれとして知られている。 山田長政とは江戸時代、シャム(現在のタイ)の日本人町など東南アジアで津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わった。 アユタヤ郊外の日本人町の頭領となり、アユタヤ国王より高官に任ぜられ、王女と結婚したとか。
通称、おせんげんさま。 静岡浅間神社とは総称で、神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社から構成。 大歳御祖神社は、賎機山の麓に、神部神社、浅間神社、大歳御祖神社が鎮座。 境内社は、八千戈神社、八千戈神社、少彦名神社、玉鉾神社など。 祭神は、駿河国開拓の祖神の大己貴命、醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社より勧請された木之花咲耶姫命、倉稲魂神・大年神の母神の大歳御祖命など。
静岡浅間神社と徳川家康
鎮座地の賤機山は、静岡の地名発祥の地として知られ、人々の精神的支柱とされてきた。 豪族の墳墓・賤機山古墳も、当社の境内にある。 当社へは朝廷をはじめ、鎌倉将軍家、今川、武田、織田、豊臣、徳川などが参拝に訪れた。 特に徳川家康は幼少時代、臨済寺に住んでいたころから生涯に崇敬し、元服式を行った。
静岡浅間神社と徳川家康
三河・遠江の戦国大名となった家康は、賤機山に築城された武田氏の城塞(賤機山城)を攻略するにあたり、無事攻略できれば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立て、当社の社殿を焼き払った。 駿河領有後、社殿を建造した。 家康は駿府在城時、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽を奉納した。