
江戸っ子勝海舟の東京名所を巡る
東京江戸っ子勝海舟の東京名所を巡る
2018年大河ドラマの「西郷どん」で遠藤憲一さんが熱演した勝海舟ですが、江戸っ子の勝海舟については、各所に所縁が残っています。赤坂の氷川神社や田町駅近くの江戸城無血開城の地などが有名かもしれませんが、実に数多くの場所があります。そしてあまり有名ではありませんが出身地でもある墨田区役所のとなりには銅像も。ぜひこの東京の勝海舟をめぐるお出かけをしてみてください。
-
まず手始めに江戸っ子勝海舟生誕の地です。今は両国公園とふつうの公園になっていますが、下町っ子の勝のてやんでいな雰囲気は両国の地に息づいたものなのだということがわかります。 父の実家男谷氏の屋敷があった場所だそうです。
-
石碑
一番大きな石碑です。
-
隣の碑
となりに解説文があります。
-
公園入口
公園の南側の入口にも解説板があります。
-
解説
-
北入口
公園の北側の入口。こちらには両国公園の名があります。
-
-
揺籃とはゆりかごの意味なのですが、いわば育ちの場所ということになります。今は五柱稲荷という神社を中心とした場所がそのようによばれています。
-
碑
神社の小さな境内にひっそりと碑があります。お見逃しなく。
-
近所のローソン
近所の変哲のないローソンにも看板が。
-
長谷川平蔵の旧宅
勝の育った家は明和の大火の火付け人を捕らえた長谷川平蔵の家のすぐ近くだったということですが、まさにこのローソンがそこ。ものすごく近いです。
-
-
本所の旗本屋敷に住んでいた勝が1831年、8歳の時から10代後半までを過ごしたのがこの岡野氏屋敷跡だそうです。 今では保育園になっています。
-
解説
下級旗本の家に生まれた勝の生まれについて記載があります。父の小吉自体も養子だったというので、 かなりの立身出世していったわけですね。
-
-
勝海舟の父の小吉の記した自伝「夢酔独言」にもこの稲荷の思い出が出てくるそうです。
-
スポット内のおすすめ
-
スポット内のおすすめ
-
葛飾北斎の解説板
-
葛飾北斎居宅跡
生涯引越しまくりの葛飾北斎の家もこの辺りあったそうです。ただ引越しまくりなので長くはありません。
-
榛馬場跡
大きな榛の木がある武士の乗馬の練習所だったそうです。
-
-
勝海舟巡りを朝からするとしたら亀沢のここで朝食をとってスタートするというのが実はおススメです。食事後ここらあたりでまずは生まれ育った場所をいくつか回って、銅像がある方面へ移動して築地方面、赤坂方面へ行くというのが流れとして良さそうです。
-
店内
-
朝粥セット
-
変わり粥
本当に色々な粥があります。どれも美味しい。
-
スポット内のおすすめ
-
-
孤独のグルメに出てきたちゃんこ屋さん。両国だけに何か食べるならちゃんこも候補では。
-
スポット内のおすすめ
-
- アプリで地図を見る
-
墨田区役所のほとりに銅像が建てられています。
-
スポット内のおすすめ
-
後ろ姿
-
トンネル上
区役所の裏を回り込む道のトンネルの上にあるので、車で行くときは通り過ぎてしまうので注意。
-
スポット内のおすすめ
-
スポット内のおすすめ
-
勝安芳
維新後改名して安芳となっています。幕末に武家官位である「安房守」を名乗り、安房(あわ)と呼ばれていたところから来ているそうです。
-
墨田区役所
-
アサヒビール
すぐ隣にあります。
-
-
勝海舟が幼い頃通った禅寺だそうです。家からだとそれなりの距離。「西郷どん」でも紹介されていました。
-
スカイツリー
境内からはスカイツリーが見えます。
-
-
勝海舟といえば坂本龍馬とともに作った神戸の海軍兵学校が有名ですが、勝が赴任していた長崎操練所から勝が神戸を作ったのですが、それより前に東京築地に作られたのが築地の海軍操練所です。これが基礎となり海軍所となり、のちの日本海軍のベースとなります。場所は今の浜離宮に移転したのですが、坂の上の雲の秋山真之も出た海軍学校です。勝も教授陣に加わり、その礎をつくっているわけです。ちなみに練習船の一つが海臨丸。今では病院のしかも裏口の入口付近に碑があるだけですが、是非。 ちなみに高速の乗り口の隣です。
-
築地の場内にひっそりとあった旗山の石碑が日本海軍発祥の地を表すものでした。しかし、築地の豊洲移転でここにあった水神社さまも移転するそうでこの石碑どうなったのでしょうか。神様は遷宮できても発祥の地は移動できませんからね。
-
蘭学を学ぶため赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りしたのですが、1846年には住居も本所から赤坂田町に移り、更に後の1859年7月に氷川神社の近くのこの地に移り住みました。それだけ傾倒したのでしょう。
-
スポット内のおすすめ
36歳から45歳(明治元年)で引退の慶喜について駿府に移るまでの居宅がこちら。氷川小学校跡の旧居宅跡はその後東京に戻ってからの居宅です。 江戸城無血開城の打ち合わせに居宅から向かったとあるのはまさにここからということになります。 江戸開城に前後して官軍が居宅侵入したとも伝えられますが、佐久間象山未亡人で妹が気丈に対応してことなきを得たそうです。
-
坂本龍馬が来た居宅
文久2年1861年に勝海舟を刺殺しようとして坂本龍馬が来たという居宅もここのことです。逆に熱心な勝の門弟になったというのは有名な話ですね。
-
- アプリで地図を見る
-
明治5年に駿府から戻った勝海舟が住んだ居宅跡に、坂本龍馬没後150年の記念の師弟像が設けられました。維新後ですから龍馬が来たというのも西郷との江戸開城の会談に向かったというのもここではありません、それは氷川坂の下の旧居宅です。
-
氷川小学校跡
勝海舟の死後東京市に寄付され氷川小学校として使用された。今は区の施設になっています。
-
居宅跡の碑
明治に入っての居宅跡で、息を引き取ったのもこちら。
-
師弟像の建立
-
解説
-
-
勝が幕臣になってから居を構えていたのがこの氷川神社の近くなので、この神社にも長らく所縁ができています
-
四合稲荷
勝海舟が晩年名付けた稲荷。氷川神社の氷川坂側の入口脇にあります。四つの稲荷を合祀し「しあわせ」と掛けた。勝海舟自筆の扁額もあります。
-
スポット内のおすすめ
-
スポット内のおすすめ
-
-
勝海舟人生の最大の大仕事、西郷とともに江戸の町を戦火から守った重要な会見が田町駅から少し歩いた場所にあります。 こちらはかつて薩摩藩下屋敷があった場所です。 大政奉還で戦う大義を失った西郷が庄内藩に江戸の薩摩藩邸を焼かせてまで鳥羽伏見の戦いを行ったりしいた後の流れなので、なかり貴重な会談になりました。おかげで江戸は上野の山以外は無傷でしたね。薩摩藩邸が焼けていたの下屋敷だったということもここの意味合いです。
-
第一田町ビル
ちにみに赤坂氷川の自宅からここにやってきたと伝えられています。
-
小栗忠順
徹底抗戦を主張する小栗を説得したそうです。幕府はフランスの支援のもとかなりの武器を持っていたので、江戸は丸焼けだったかもしれませんね。明治があったら都市計画がパリのようになったかもしれませんが。
-
-
別邸の跡地です。官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中、洗足池畔の風景を気に入り、別荘を構えたそうです。遺言でお墓もこちらに造られてますので、相当気に入っていたのでしょう。
-
解説
-
-
勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中、洗足池畔の風景を気に入り、別荘を構えたそうです。後に海舟の遺言で、屋敷裏の台地に葬られたと。それくらい気に入っていたようです。妻である民子の墓は、後に青山墓地から移設されました。
- アプリで地図を見る
-
勝海舟は盟友ともいえる西郷隆盛が西南戦争で死んだことを悲しみ、三回忌に鎮魂の意味を込めて「西郷隆盛の留魂祠」と西郷隆盛の漢詩「獄中有感」(ごくちゅうかんあり)の碑を建立しました。 もともとは四ツ木の薬妙寺に勝の自費で建立されたそうですが、その後荒川の工事に関連して大正時代にこちらの勝海舟の墓の隣にいせつされたそうです。 「獄中有感」は、西郷隆盛が文久3年(1863年)に罪人として沖永良部島に流された時に読んだ詩です。
-
赤坂の勝宅の表門として利用されていたものが、成増駅の南西(現在の練馬区旭町の辺り)に兎月園という遊園地の表門に移築されて利用されていたそうです。その時に改造されたことから武家屋敷としては窓の大きな造りになっています。赤坂の邸宅は幕府高官としてかなり立派だったと思われ、このように立派な門があったのでしょう。