GINZA SIX周辺エリアのおすすめ史跡情報が掲載されているページです。
旧新橋停車場 鉄道歴史展示室
聡子が大阪へ旅たつ 東京を発つ直前に、一目だけ清顕と会わせて欲しいとの聡子の希望で、清顕は母を見送るとの名目で新橋駅まで行く。 新橋・下関間の特別急行列車は、朝の9時半に新橋を発ち、,11時間55分で大阪へ着く、とある。 聡子とその母、そして清顕の母の3人は、その展望車に乗る。 展望室での見送りが、聡子と清顕が顔を合わす最後の機会となっている。 写真は、9025形ステン9025。
東京駅丸の内駅舎
赤レンガ造りのレトロな雰囲気が漂う東京駅・丸の内駅舎。 平成24年(2012)に復原され、国指定の重要文化財に登録された有名な駅舎なのですが、実はオランダの首都アムステルダムにも似た外観の駅舎が存在するんですよ🔍 確かに、ハウステンボスにそのまま移築されてもおかしくないような気もしなくはないです🤔 丸ビルの5階テラス(入場無料)に行くと、より広い視界で駅舎の全体像を望むことができますよ。
坂下門
現在も江戸城氏の名残らしく、多くの門が現存している。 その中でも、興味深いのは、坂下門。 1862年、老中・安藤信正が水戸浪士によって襲撃され負傷した「坂下門外の変」の現場となった。 明治時代以降、皇居の重要な入口のひとつとして使われ、宮内庁の出入口(通用門)として利用。 警備が厳重なため、立ち入り不可。
法務省 旧本館
桜田門の警視庁前にあるこの赤レンガの建物は美しくていつも目をひきます。 桜とのマッチングも素敵です。
伊達政宗終焉の地
戦国時代に活躍した出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。 1567年、出羽国米沢城で伊達氏第16代伊達輝宗の嫡男として、正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)から生まれた。 幼名、梵天丸。 1577年、元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。 「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖で室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗から命名。 1579年、仙道の三春城主・田村清顕の娘、愛姫を正室に迎える。 1581年、隣接する相馬氏との合戦で初陣を飾る。
浅野内匠頭終焉之地
事件と切腹は3/14。虎ノ門ヒルズから徒歩5分の場所。ここの桜は毎年咲くのが早いです。
正門鉄橋
北村透谷・島崎藤村記念碑
東京都中央区にある泰明小学校内にある石碑。 泰明小学校は1878年、東京府立泰明小学として開校。 評論家・詩人の北村透谷と詩人・小説家の島崎藤村らは卒業生にあたる。 北村透谷は1868年、神奈川県小田原市生まれ。 家族とともに京橋区弥左衛門町に転居。 自由民権運動をきっかけに政治運動を志したが、文芸評論家・詩人として活躍。 雑誌「文学界」に参加し、文芸における自由主義を唱え、近代浪漫主義文学の開拓者とも。 島崎藤村は1872年、岐阜県中津川市生まれ。 1881年、京橋区鎗屋町に転居。 著作「若菜集」「春」「夜明け前」など。 特に「破戒」は自然主義文学の先駆とも。
市政会館
#図書館 #史跡
鍛治橋跡
当地はかつて江戸城の外濠であった。 1629年、築造。 門に附属する鍛冶橋は現在の丸の内二、三丁目と中央区の八重洲六丁目を結んでいた。 名称は、外堀の門外の町名が南鍛冶町(現在の中央区八重洲二丁目・京橋二丁目)であったことに由来。 江戸時代、御用絵師の狩野探幽の屋敷があった。 門内には大名屋敷が立ち並び、幕末には、津山藩(岡山県)松平家、土佐藩(高知県)山内家が付近に上屋敷を設けていた。 1873年、鍛冶橋門は桝形石垣を残して撤去。 1876年、橋はアーチ橋として再建。 戦後、瓦礫処理で外堀が埋め立てられ、橋も姿を消した。
北町奉行所跡
江戸時代、江戸の町奉行は南側と北側の2カ所に設置され、江戸市中の行政・司法・警察など幅広い分野を担っていた。 1806年、北町奉行所は呉服橋御門内(現在の呉服橋交差点、東京駅日本橋口周辺)に位置。 屋敷の鬼門・艮(北東)の方角を護る呪術的な意味があるとも。
DNタワー21
#史跡
旧稲生神社
#史跡 #神社 #宗教施設
千葉定吉道場跡
大岡越前守忠相 屋敷跡
赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石
皇居正門鉄橋 (二重橋)
#史跡 #橋
ヨネイビルディング
京橋記念碑
当地にはかつて京橋川が流れ、中央通り(東海道)に木造で公儀橋の京橋が架橋。 当時、京橋は日本橋と並ぶ名橋で、東海道にて日本橋を出発して京都方向に向かう途中、最初に渡る橋とされる。 欄干の柱頭部には擬宝珠が飾られ、京橋川の南側には竹を扱う職人が住み「竹河岸」が形成。 1874年、金杉橋(港区)との間にガス灯が設置。 1875年、肥後の石工である橋本勘五郎によって石造りのアーチ橋に架け替えられた。 京橋から新橋にかけて銀座レンガ街が完成。 1901年、馬車鉄道の軌道が複線で併設された大型の橋になったが、交通量の増加により解体、鉄橋に架け替えられた。
京橋大根河岸青物市場跡の碑
1664年、かつて当地を流れていた京橋川の水運を利用して、野菜の売り場が設置。 青物市場では大根の入荷が多くを占め、「京橋大根河岸市場」と呼ばれた。 明治時代、京橋青物食物河岸と呼ばれた。 規模は拡大し、青物・菓物の他、魚類・乾物も扱った。 大正時代、関東大震災が発生して甚大な被害を受けたが、卸問屋・仲買による組合の努力により、問屋68軒、仲買105名に達した。 1935年、築地に東京卸売市場の開業し、それに伴って移転。
銀座・築地・日本橋
Holidayへのご意見やご要望、各種お問い合わせは以下のフォームよりご連絡ください。
お問い合わせいただき、ありがとうございます。内容を確認の上、ご対応させていただきます。
送信に失敗しました。お手数ですが、時間をおいて再度お試しください。
ログイン
Facebookでログイン
パスワードを忘れた方はこちら
初めての方は ユーザー登録をしてください
ご利用のブラウザでは正しく画面が表示されない、もしくは一部の機能が使えない可能性がございます。以下の推奨環境でご利用ください。
推奨環境:Google Chrome 最新版、Safari 最新版