中島三郎助の墓
神奈川県横須賀市東浦賀2丁目10
浦賀奉行所与力・中島三郎助親子が眠る。
中島三郎助は江戸幕府浦賀奉行所与力、蝦夷共和国箱館奉行並。
砲術、田付流、集最流、荻野流の免許、高島流の皆伝を受けた、俳諧や和歌を詠む。
1853年、米国マシュー・ペリー艦隊が浦賀沖に来航(黒船来航)した際、副奉行と称して通詞の堀達之助を連れて旗艦「サスケハナ」に乗船。
浦賀奉行・戸田氏栄ら重役に代わり、香山栄左衛門と共にアメリカ側使者の応対を務めた。
船体構造・搭載砲(ペクサン砲およびダールグレン砲)・蒸気機関を調査、密偵とも。
ペリー艦隊の帰国後、老中・阿部正弘に提出した意見書で軍艦の建造と蒸気船を含む艦隊の設置を主張。