関西が好っきゃねん
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安倍晴明の足跡を求めて京都御所を四季折々の花々と

安倍晴明の足跡を求めて京都御所を四季折々の花々と

まいどまいど! 今回は京都の中心地でおます京都御所を散策しまひょ、と。 京都御所の内部にもいろんなスポットがおまして、京都御苑や京都大宮御所、京都迎賓館など環境省や宮内庁、内閣府が管理。 日本の中枢とも言える場所が今やが一般開放されてるっちゅうことで、京都御所の内部を自由に散策することができますねん。 京都御所の中では、いろんな植物が生息し、野鳥も飛来。 四季折々の花々と珍しい野鳥を観察することができますねん。 ほんでまた、京都御所周辺には藩邸跡や京都の歴史に関する資料の保存、公開を目的に開館した京都市歴史資料館、京洛七福神めぐり、京都七福神めぐりの一つである青龍妙音弁財天、鯖街道の終点にあたることから、サバなどの海の生物が描かれた陶板が埋め込まれている出町桝形商店街など、見どころが満載。 中でも794年、平安京の造営に際し、平安京の京域の北を限る通り「一条大路」に堀川を渡る橋として架橋の一条戻り橋は様々な伝説が残る名所として知られ、時々、メディアに取り上げられることも。 京都も京都御所だけではない魅力をご案内していきまっせ! ほな、まいどおおきに。

清明神社
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清明神社

祭神は安倍晴明御霊神、宇迦之御魂大神、菅原道真。 かつて当地には安倍晴明の屋敷、千利休の屋敷があった。 1005年、安倍晴明の没後、一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、1007年に神社を創建。 当時、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通とかなり広大であった。 しかし、度重なる戦火や豊臣秀吉の都市整備などにより縮小。 2005年、安倍晴明没後1000年にあたることから安倍晴明千年祭が開催。 2017年、土御門晴雄により奉納された二の鳥居の社号額が復元として新調。

応仁の乱 洛中合戦勃発地
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応仁の乱 洛中合戦勃発地

応仁の乱とは、室町時代の1467年に勃発した内乱。 室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争い、足利将軍家や細川勝元・山名宗全といった有力守護大名が参加、幕府を東西2つに分ける大乱へと発展し、西軍が解体され終息までに11年に及んだ。 洛中では当地が最初の勃発地として推定され、東軍細川勝元方の京極持清は、ここを通り、一条戻橋から西軍に攻撃、一条大宮で平安京が壊滅するほどの激戦を繰り広げた。

聚楽城 加藤清正邸跡 伝承地
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聚楽城 加藤清正邸跡 伝承地

加藤清正は安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した武将、大名の一人。 通称、虎之助。 1562年、愛知県名古屋市中村区生まれ。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。 秀吉とともに各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名。 秀吉没後、徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍。 肥後国一国と豊後国の一部を与えられて初代の熊本藩主に。 当地にはかつて加藤清正邸が存在。 加藤清正は豊臣秀吉に従い、現在の京都府京都市上京区の一部にあたる主計町に建てられた屋敷に居住。 当時、主計町は豊臣秀吉・秀次の聚楽城・聚楽第からみて東方にあたり、複数の大名屋敷が建設。

藤原道綱母子邸跡
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藤原道綱母子邸跡

平安時代の女流日記「蜻蛉日記」の著者である藤原道綱母が居住。 954年から974年の間で起きた出来事が書かれ、上中下の三巻より構成。 題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」より。 藤原兼家の妻となり子・道綱を授かる。 兼家の旧妻・源兼忠女の娘を引き取り、養女に。 道綱は平安時代、従五位下に叙爵、武官の右馬助・左衛門佐・左近衛少将を歴任。 花山天皇を出家・退位させた寛和の変では長兄・道隆と共に清涼殿から三種の神器を運び出し、父・兼家の摂政就任に貢献。 中納言、大納言と昇進。

源頼光邸跡
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源頼光邸跡

源頼光とは平安時代に活躍した武将。 父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘。 満仲の長子で清和源氏の3代目。 満仲が武士団を形成した摂津国多田の地を相続、その子孫は「摂津源氏」とも。 異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信。 居貞親王(三条天皇)が皇太子となった際、春宮権大進に任命。 藤原道長の主催した競馬などに参加。 関白・兼家の葬儀に際して藤原道長の振る舞いに感心して側近として従う。 但馬国、伊予国、摂津国の受領を歴任。 受領として蓄えた財により一条邸を持ち、道長に多大な進物をした。

一条戻橋
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一条戻橋

京都市上京区内を流れる堀川に架かる一条通の橋。 別名、戻橋。 794年、平安京の造営に際し、平安京の京域の北を限る通り「一条大路」に堀川を渡る橋として架橋。 平安時代、堀川右岸から右京にかけては衰退が著しく、堀川を渡ることには特別の意味が生じ、様々な伝承や風習が生まれた。 「撰集抄」巻七では、918年に漢学者三善清行の死去に伴って葬列がこの橋を渡ろうとした際、父の死を聞いた子・浄蔵が熊野での修行から急いで帰ってきて棺にすがって祈っていた。 すると雷鳴とともに清行が生き返り、父子が抱き合ったという逸話から、「戻橋」という名前の由来となった。

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