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金剛山ロープウェイでハイキング!日本最大級の棚田・千早赤阪村で大切な時間を探しに行こう
まいどおおきに! 北新地、道頓堀、新世界などに代表される大阪の歓楽街。 そんな都会の喧騒の近くで、大自然に囲まれた緑豊かな場所がある。 それが、千早赤阪村。 ここは、大阪府内で唯一の村で、大阪市内から電車とバスを乗り継いで約30分。 さすが、千早赤阪村! 全国的にも珍しい棚田は、現在も活躍してはりますねん。 そのほかにも、「大楠公(だいなんこう)」として知られる武将「楠木正成」の出身地として知られ、村内には、生誕地や産湯に使用された井戸などが残っている。 さらに、鎌倉幕府から悪党と呼ばれ避けられてきた大楠公。 後醍醐天皇とともに、千早城、下赤坂城など村内を中心に、いくつもの城を築きあげ、それらを総称して「楠木七城」と呼ばれた。 一部は、隣接する富田林市などにも城址が残ってんねん。 今回の千早赤阪村の旅では、そんな大楠公の歩んできた道をたどりながら、皆様にご紹介していきます。 っちゅうことで、皆さん! 村内には、一軒もコンビニエンスストアが存在してまへん。 電車も走ってへんので、昼食は、近鉄の富田林駅など主要のコンビニでこうてってや~(=買って行ってや~)!
千早赤阪村
南北朝時代の武将、楠木正成公の少年時代の容姿がモチーフ。 千早赤阪村ゆかりの人物として知られている。 楠木正成公は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将で、建武の新政の立役者として知られる。 足利尊氏、後醍醐天皇らと共に活躍。 鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれ、恐れられていた。 「大楠公」と称される。 千早赤阪村の観光PRを中心に活躍する。
下赤坂城跡
別名、赤坂城跡とも呼ばれている。 楠木七城の一つに数えられ、楠木正成氏に関連する古跡ファンの人気のスポットとなっている。 1330年頃に活躍したとされる楠木正成氏の本城。 元弘の乱の頃、倒幕計画が発覚し、後醍醐天皇は笠置山で挙兵、楠木正成は、この地で挙兵するが、後に落城した。 1332年、再挙兵したが落城。
楠公誕生地
かつてこの場所には、楠木家の屋敷があり、ここで、楠木正成氏が誕生したと伝わる。 幼名は多聞丸。 1570年頃、豊臣秀吉の命により、増田長盛によって土台を築き、百日紅を移植している。
楠公産湯の井戸
南北朝時代の武将、楠木正成公が生まれるときに産湯として使用されたとの伝説が残る井戸がある。 楠木正成公は、千早赤阪村ゆかりの人物として知られ、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将。 また、建武の新政の立役者として知られる。 足利尊氏、後醍醐天皇らと共に活躍。 鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれ、恐れられていた。 「大楠公」と称される。
奉建塔
記念塔。 1940年、没後600年を記念して、全国の児童学生や教職員等の募金により浄心寺塞(上赤坂城支塞)跡に建立。 1336年、楠木正成公が討死。 年齢43歳に因み、高さはおよそ43尺(約13m)。 塔には家紋の菊水紋、旗印の「非理法権天」の文字が刻まれている。
楠木正成公
南北朝時代の武将、楠木正成公の生涯が刻まれている。 楠木正成公は、千早赤阪村ゆかりの人物として知られ、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将。 また、建武の新政の立役者として知られる。 足利尊氏、後醍醐天皇らと共に活躍。 鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれ、恐れられていた。 「大楠公」と称される。
上赤阪城跡
別名、楠木城、小根田城、桐山城とも呼ばれている。 楠木七城の一つに数えられ、楠木正成氏に関連する古跡ファンの人気のスポットとなっている。 1330年頃に活躍したとされる楠木正成氏の本城。 元弘の乱の頃、下赤坂城、上赤坂城が落城した。 千早城に移った正成氏は、幕府軍と戦い続けた。
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