鬼は外!福は内!の鬼と会えるまち。大阪府茨木市
大阪鬼は外!福は内!の鬼と会えるまち。大阪府茨木市
まいどまいど! え!?おもろいカフェがあるねんて? そんな噂を聞きつけてやってきたのは、大阪府茨木市。 茨木市では東奈良遺跡、茨木神社をはじめ、ぎょうさんの歴史的建造物が残っている他、楠木正成築城の茨木城跡も楽しめまんねん。 平安時代には、西国街道(旧山陽道)の往来が盛んとなり、江戸時代には参勤交代に利用されるなど、交通の要衝としての役割を果たしてきた。 小説家の川端康成は、大阪市北区に鎮座する大阪天満宮の近くで生まれ、幼少時代を茨木市で過ごしてはったんやて。 青春時代まで地元の学校に通っていたため、付近には川端康成に因むスポットがぎょうさん点在してまんねん。 また、茨木市は鬼の「茨木童子」と縁が深いことがわかってきました。 茨木童子は茨木市で生まれ育ち、京の都に向かった。 京都で頼光四天王の一人である渡辺綱と出会い、一条戻り橋や羅生門で戦うことになるが・・・。
代美術家で京都造形芸術大教授のヤノベケンジ氏作品の像。 2011年3月11日に発生した東日本大震災からの復興と再生を願って、出身地である茨木市に建立。 テーマは、巨大な未来の子ども像。 高さ6.2mの強化プラスチック製。 防護服を着た子どもがヘルメットを脱ぎ、放射線を測定する胸のガイガーカウンターはゼロを示している。 右手には「希望のエネルギー」「再生の光」を象徴する太陽。 1997年、事故が発生したチェルノブイリ原発付近を訪問中、廃虚となった保育園の壁に描かれていた太陽の絵がモチーフ。
テレビやラジオのバラエティやドラマ、映画、コマーシャルなど、多目的に活躍するお笑いコンビの雨上がり決死隊の宮迫博之さん。 生まれは大阪府茨木市で、今もご実家がありご家族でたこ焼き屋さんを経営しているとか。 赤色で「たこ焼き」という文字が風に吹かれて踊り、さらに奥を見ると、「みや蛸です」との文字が。 東京都品川区にもご実家の「みや蛸」を暖簾分けする形で出店したタコ焼き屋さんが2015年4月にオープンしたそうですが。
6個で300円
蛸の可愛らしいパッケージが目を引きます。
宮迫家名物の「みや蛸」
芸能人も愛した宮迫家名物の「みや蛸」。 ぜひ皆さんも味わってみてはいかがでしょうか。
平安時代、茨木童子は、大江山を本拠に京都を荒らしまわったとされる鬼の一人。 「酒呑童子」と名乗る鬼の家来であった。 生まれた頃から歯が生え揃っていた、巨体であったなど周囲から恐れられ、鬼と化した後は酒呑童子と出会い舎弟となり、共に京を目指したと言う。 酒呑童子一味は大江山を拠点に、京の貴族の子女を誘拐するなど乱暴狼藉をはたらいた。 源頼光と4人の家臣(頼光四天王)によって滅ぼされた。 茨木童子は逃げ延び、その後も頼光四天王の一人である渡辺綱と一条戻り橋や羅生門で戦った。
茨木童子は、16か月の難産の末に生まれたが、牙が生え、髪が長く、鋭い目つきをしていたため、両親は怖れて、茨木村の九頭神の森近くにある髪結床屋の前に捨てた。 子宝に恵まれなかった床屋を営む夫婦は、茨木童子を引き取り、床屋の仕事を教えて落ち着かせることにした。 ある日、茨木童子は剃刀で客の顔を傷つけてしまう。 慌てて指で血をぬぐって、血をなめるとその味が癖になってしまい、以後、わざと客の顔を傷つけるようになった。 怒られた童子は落ち込んで、近くの小川の橋にもたれ、うつむいて、水面に写る自分の顔を見ると、まるで鬼のようになっていることに気づき、床屋には帰らず、酒呑童子と出会う。
807年、坂上田村磨が荊切の里(茨木)を作った際に創建。 織田信長はキリスト教を保護、一方で社寺の破壊を行っていた。 境内では、かつて存在した茨木城の門が移築、保存されている。
幻の黒井の清水
この井戸の水はかつて、豊臣秀吉の茶の湯にも供されたと伝わる。 また、「嶋下郡三名水」の一つに数えられている。 他の二つは赤井の清水(天岩門別神社)と青井の清水(慧光院)である。
1400年代、茨木氏は奉行の1人として活躍。 1482年、摂津で国人一揆が勃発、細川政元が鎮圧に乗り出し、三宅城、茨木三郎氏の茨木城、吹田成枝氏の吹田城を落城。 茨木長隆が勢力を拡大させ、細川高国と細川晴元との対立では、晴元方について高国を敗死させた。 1548年、晴元と三好長慶が対立、江口の戦いで敗北。 茨木重朝は本圀寺の変や野田城・福島城の戦いで高槻城主・和田惟政と共に織田信長の先兵として活躍。 白井河原の戦いで重朝・惟政と荒木村重・中川清秀の間で戦闘が勃発、茨木城が落城、清秀が茨木城主となった。 江戸幕府は一国一城令を発布、茨木城は取り壊され、茨木城の門の一部が茨木神社に移築された。
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ここは、Sur(スール)と呼ばれるエリアで食堂やファストフードなどが楽しめる。 その一角に、「うどん専門店」「カフェ」などのお店が建ち並ぶ。 今日は、「まいどおおきに食堂」でおなじみの「茨木食堂」に入ってみた。 すべてセルフサービスとなっており、トレーを手に取って、列の最後尾に並ぶ。 このときは、お昼時で、かなりのお客さんがトレーを持って並んでいた。 列に並びながら、目の前に並ぶ惣菜の中から選び、トレーの上に並べていく。 予算は、~約1000円程度でっしゃろか。 阪急茨木の茨木食堂。
本願寺第三代覚如上人と存覚上人がこの地を訪れていた。 1596年、教如上人は本願寺の宗主を弟の准如上人に譲渡していたが、大谷本願寺(難波別院)を建立。 1603年、京都と大阪の中間地点に当たる茨木市に、東本願寺第十二代教如上人によって建立した。 寺号を満照寺とした。 境内には、茨木市指定保存樹「弘誓の松」が植樹。
江戸時代の隠れキリシタンの里の歴史を今に伝える。 安威川、茨木川、勝尾寺川が流れ、竜王山、鉢伏山、阿武山などが連なる。 市名の由来は、イバラの木が多く茂っていたことから、「茨切」が訛って「茨木」となったと言う。 弥生時代、大規模環濠集落の遺跡「東奈良遺跡」を発掘。 二重の環濠に囲まれた場所に住居、高床式倉庫などが建立していたことが推測される。 の集落が奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ日本最大級の銅鐸工場、銅製品工場であったと言う。 このほか、太田茶臼山古墳、郡山宿本陣(通称「椿の本陣」)、茨木城などの見どころがあり、ニュータウン「国際文化公園都市」(愛称:彩都)は最近、注目を浴びている。
茨木にぎわい亭
まちづくり交流ステーションとして開設した。 地域活性化のほか、イベントスペース、会議室などがある。
かつて、茨木川と呼ばれる河川が存在した。 茨木川は安威川の支流で、上流は、「佐保川」と呼ばれている。 茨木市と豊能町の市境付近から南から流れ、一級河川・佐保川となる。 後に、勝尾寺川と合流して茨木川となる。 1935年、暴風雨により、茨木川の堤防が決壊し、大きな水害が発生。 これを機に付け替え工事を行い、河川敷を公園に整備した。
江戸時代、古田織部氏が住んでいた。 茶人として知られる。 本名は、重然。 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えていた。 1600年、関ヶ原の合戦に徳川方として参戦。 千利休との親交が深く、利休七哲の1人に数えられる。 茶の湯名人として知られ、小堀遠州、江戸城で活躍。
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日本人では初めてとなるノーベル文学賞を受賞した作家の川端康成氏。 1985年、文学館が開館。 生まれは、大阪市北区の大阪天満宮付近。 現在は、生誕の地として石碑が建立されている。 茨木市は、幼少期から青春時代までを過ごした。 幼少期、近親者がこの世を去り、母の実家である大阪市東淀川区に移住、その後、祖父母とともに大阪府茨木市へ移住した。 小学校を卒業後、中学校に入学。 作家を志して作品を残し、中学校を卒業後、上京。 第一高等学校、東京帝国大学文学部英文学科を卒業。 施設内では、遺品の展示や屋敷の模型の展示。 川端氏の作品と生涯を紹介。
川端康成
川端康成が書き残した文献の詳細が刻まれている。
川端通り
大阪府茨木市にある一般道路。
おもしろいカフェがあるよ。 旧銭湯の前には、cafeとの看板が。 ここは閉鎖した町の銭湯をそのまま再利用した全く新しいカフェ。
下駄箱
下駄箱でスリッパに履き替え、ドアを開けると、脱衣場が飲食スペースになっている。
カウンターとテーブル席
カウンターとテーブル席が設けられ、気の向くままにテーブル席に座り、あたりを見渡してみる。 左手にロッカースペース。 (厨房もロッカー等を再利用) 奥には、シャワー、湯船へと続く入り口が。
定食も楽しめる
カフェの他にもカレーライスやうどん、定食があり、A定食(魚の塩焼)を選んだ(予算は1000円程度)。 店内は、地元の常連客やカップル、おしゃれな女性たちでにぎわっていた。
ついに突撃!
さて、男性の皆さん! お待たせいたしました! 成人男性の夢、女湯に突撃です!(笑) カメラを握りしめ、扉を開けて、バシャバシャバシャバシャ(笑) ※現在は改造され、部屋の両端にシャワー、中央には旧浴槽とステージです。
最後に・・・
おもしろいカフェがあるよ。 ここはホンマにおもしろいです。
1913年、徳島県三好郡山城谷村(三好市)生まれ。 野間宏氏らと出会い、竹内勝太郎氏に師事。 1944年、第二次世界大戦中、戦争にのぞみ、必ず生きて帰ること、戦時強姦をしないこと、大いに飯を食うこと、ビンタを張られても無理な仕事は避けること、という鉄の規則を立てて、結果「自称・三等兵」のその立場を貫いた。 戦後、島尾敏雄氏、林富士馬氏らと同人誌「VIKING」を創刊。 「桂春団治」が受賞。 1992年、歴史小説「たんぽぽの歌」は「豪姫」と改題され、勅使河原宏監督、宮沢りえ主演で映画化。 詩人の伊東静雄、仏文学者の桑原武夫、作家の司馬遼太郎など多くの著名文学者と交流があった。