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木曾義仲と松尾芭蕉の墓が並んである。
Wikipediaによると、 木曾義仲の死後、愛妾であった巴御前が義仲の墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。
先日、大阪にある松尾芭蕉の終焉の地を訪れた後、この寺に来たいと思っていました。
芭蕉は生前この寺と湖南のひとびとを愛し、たびたび此処に滞在し、無名庵で句会も盛んに行われたとの事。
旅をすると度々、西行の歌碑と出会う。そしてそこは松尾芭蕉の歌碑とも重なる。
昨日も崇徳天皇白峯陵で西行に出逢えた。そこで西行は涙したという。
芭蕉が使っていた杖が展示されていたのは嬉しかった。
2021年5月2日
木曾義仲の死後、愛妾であった巴御前が義仲の墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。
芭蕉は生前この寺と湖南のひとびとを愛し、たびたび此処に滞在。この寺にある無名庵で句会も盛んに行われたとの事。
昨日も西行に出逢えた。
そんな2人の終焉の地とお墓をお参りしたことになる。
2019年7月30日
平家討伐の兵を挙げて都に入った帰りに、源頼朝軍に追われこの粟津で壮烈な死を遂げたと言われる「木曽義仲(源義仲)」。その、菩提を弔い側室だった「巴御前」が尼僧となってここに草庵を結び供養したのが始まりとなりました。 また、俳聖・松尾芭蕉は1694年に大阪で亡くなったのち、幾度となく訪れていたこの地に遺言通り葬られたそうです。
2016年6月10日
2017年1月10日
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木曾義仲と松尾芭蕉の墓が並んである。
Wikipediaによると、
木曾義仲の死後、愛妾であった巴御前が義仲の墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。
先日、大阪にある松尾芭蕉の終焉の地を訪れた後、この寺に来たいと思っていました。
芭蕉は生前この寺と湖南のひとびとを愛し、たびたび此処に滞在し、無名庵で句会も盛んに行われたとの事。
旅をすると度々、西行の歌碑と出会う。そしてそこは松尾芭蕉の歌碑とも重なる。
昨日も崇徳天皇白峯陵で西行に出逢えた。そこで西行は涙したという。
芭蕉が使っていた杖が展示されていたのは嬉しかった。
2021年5月2日
木曾義仲と松尾芭蕉の墓が並んである。
木曾義仲の死後、愛妾であった巴御前が義仲の墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。
先日、大阪にある松尾芭蕉の終焉の地を訪れた後、この寺に来たいと思っていました。
芭蕉は生前この寺と湖南のひとびとを愛し、たびたび此処に滞在。この寺にある無名庵で句会も盛んに行われたとの事。
旅をすると度々、西行の歌碑と出会う。そしてそこは松尾芭蕉の歌碑とも重なる。
昨日も西行に出逢えた。
そんな2人の終焉の地とお墓をお参りしたことになる。
芭蕉が使っていた杖が展示されていたのは嬉しかった。
2019年7月30日
平家討伐の兵を挙げて都に入った帰りに、源頼朝軍に追われこの粟津で壮烈な死を遂げたと言われる「木曽義仲(源義仲)」。その、菩提を弔い側室だった「巴御前」が尼僧となってここに草庵を結び供養したのが始まりとなりました。
また、俳聖・松尾芭蕉は1694年に大阪で亡くなったのち、幾度となく訪れていたこの地に遺言通り葬られたそうです。
2016年6月10日
2017年1月10日