「まっちゃまち(松屋町)」と「からほり(空堀)」を歩きまひょ!
大阪「まっちゃまち(松屋町)」と「からほり(空堀)」を歩きまひょ!
まいど! 大阪っちゅうたら、キタ・ミナミに代表されるように日本最大級の繁華街が形成されておます。 なかでも、ミナミは、南船場から心斎橋、道頓堀、難波に至るまで日本最大の繁華街を擁し、くいだおれ等のド派手な看板が全国的に有名でんな。 でも、そんなにぎやかな繁華街を少し離れると戦災を免れた古い街並みと昔ながらの路地が現れ、まるで昭和前期にタイムスリップしたような雰囲気が楽しめます。 おもちゃ、人形と言えば、松屋町筋商店街。 地元では古くから「まっちゃまち」と呼び、多くの買い物客でにぎわおうてはります。 また付近には直木賞で知られる直木三十五はんの生誕地や文学碑が建立され、ファンの間で人気を呼んでいます。 そんなまっちゃまちの近くには比較的に庶民的な商店が立ち並ぶ空堀商店街が見えてきます。 でも、実はここ空堀商店街は太閤豊臣秀吉のおひざ元として知られる大阪城の外堀の一部であったことをご存知でっか? 今では住宅街の風景の中に溶け込んでんねんけど、歴史上、貴重な資料の一部として語り継がれてまんねん。 そして、日本最大の地下街「クリスタ長堀」もおすすめ! さあ、遊びに出かけまひょ!
大阪市中央区のマスコットキャラクター「ゆめまるくん」。 中央区民音頭「あなたの夢はなんですか」というフレーズ「夢」と、大阪城天守閣の「本丸」から命名。 頭には大阪城と区の花に選定された「うめ」、額の三日月マーク「C」は中央区をあらわしている。 袴の色は、水の回廊をイメージした水色を使用し、水の都の歴史・文化などの魅力をアピールする。 城北公園フェア、御堂筋カッポのほか、中央区のイベントに登場!
通称、「まっちゃまち」とよばれ、親しまれてる。 中央区の農人橋交差点南側から地下鉄松屋町駅周辺にかけての地域。
まっちゃまちを歩く
主に、人形・駄菓子・花火などの卸問屋街がある。
空堀はかつて、大阪城の外堀(南惣構堀)として整備されたが、大坂冬の陣後に埋め立てられた。 江戸時代、御用瓦師の寺島宗左衛門による南瓦屋町、寺島藤右衛門による瓦土取場、五十軒屋敷と呼ばれる鉄砲同心の屋敷地があった。 同心とは、江戸幕府の下級役人の一つに数えられ、諸奉行・京都所司代・城代・大番頭・書院番頭・火付盗賊改方等の配下で、与力の下にあって庶務・見回等の警備に就いた。 また、その他の場所には畑地が点在。 明治時代、武家屋敷は破却されて畑地が拡大。 その後、急速に街が発展し、家屋が密集するようになった。 1945年、大阪大空襲では奇跡的に焼失を免れ、今も趣のある街並みが残っている。
空堀らしいまちなみ
掲示板では、寺西家阿倍野長屋が紹介されている。 寺西家阿倍野長屋は、大阪大空襲による焼失を免れた町屋の一つとして存在していたが、町屋の老朽化に伴い、一度、解体し、高層マンションに建て替えられる計画が進んでいた。 ある日、建築家の一人に「消えていく長屋を一軒でも残してほしい」と呼び止められ、数少なくなった町屋を残すことを決意。 国の登録有形文化財にも指定された町屋を守っていく大切さを訴えかけている。
空堀はかつて、大阪城の外堀(南惣構堀)として整備された。 大坂冬の陣後に埋め立てられた。 現在も、多くの長屋や町家、石段や石畳の路地など、趣のある街並みが残っている。 ここに、路地を活用した防災広場「田島北ふれあい広場」が「空堀地区HOPEゾーン協議会」(通称:空堀まちなみ井戸端会)によって完成した。 ※HOPEゾーンの「HOPE」とは、「HOusing with Proper Environment」の略。 「地域それぞれの文化的・歴史的・自然的、幅広い意味での環境を活かした住宅地づくり」という意味が込められている。 また、「HOPE」には、「希望」という意味も込められている。
外堀の面影
空堀商店街では、随所に空堀の名残を見ることができる。 写真奥には、田島北ふれあい広場。 その場所へたどり着くまでに、なだらかな坂が続く。
「谷町のクスノキさん」、「楠玉社(くすたましゃ)」。 谷町七丁目交差点すぐにあり、道路の真ん中に木立が茂っている特徴を持つ。 枯れた切り株に注蓮縄(しめなわ)を張り、神木として祀っている。 かつて、神木は、この場所にあった本照寺の境内に植えられていた。 本照寺は、「クスノキ寺」と呼ばれ、地元の人に親しまれていたが、道路拡張工事のため、本照寺は移転した。 楠は、繁栄をもたらす蛇が棲んでいるとされ、「伐るとたたりが起こる」と信じられていた。 愛称は、巳(みい)さんと呼ばれ、親しまれていた楠は当時のまま今に残る。 現在、両脇を挟むように走る道路は「楠木筋」と呼ばれている。
手作りアイスクリームが売りというこのお店。 「イタリアのジェラートコンテストで4位」「ジェラートマエストロコンテストで準優勝」を飾ったといい、これは、期待できますね。 店内に入ると、いろんなジェラート商品が並べられていました。 店名ともなっている「ジェラテリア」とは、イタリア語でアイスクリーム屋さんを意味するといい、ダウンタウンの浜田雅功さんと東野幸治さんの番組「ごぶごぶ(放送終了)」や「となりの人間国宝さん(よーいドン!)」など、数々のメディア取材もうなずけます。
アッフォガート
出来立てのミルクアイスに、淹れたてのエスプレッソがけ。 スプーンについている赤色は紅玉りんごシャーベットで、おまけっちゅうことで、ペロリとどうぞ、と。
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開山は中正院日長聖人。 福禄寿を祀る。 大阪七福神の一つに数えられ、多くの人が参詣に訪れる。 1579年、豊臣秀頼の武運長久を祈るため淀君の命で、片桐且元並びに大野修理之介が奉行となり、大坂城築城の余材をもって建立。 1712年、焼失したが、復興した。 淀君が建立した本堂、大門等は奈良西之京・薬師寺に移され、現在は慈恩院として活用されている。 淀屋辰五郎が寄進した客殿は奈良・樫原市の愛和之道本部に、鐘楼は茨木市・妙徳寺に、妙見堂は池田市・本養寺に、小門は能勢・安隠寺に移築、現存している。 尚、境内の墓地には赤穂浪士の1人に数えられる原惣右衛門の墓がある。
1653年、越前藩士である杉森信義と岡本為竹法眼の娘である喜里の間に生まれた。 本名は、杉森 信盛。 幼名は次郎吉。 人形浄瑠璃と歌舞伎の作者として知られ、江戸時代の元禄期に活躍したことでも知られている。 浄瑠璃作者・竹本座に属し、後に、歌舞伎狂言作者に転向した。 再び、浄瑠璃の世界に戻り、出世景清は近世浄瑠璃の始まりと言われている。 「国性爺合戦」や「曽根崎心中」など、100を超える浄瑠璃に関する作品を残した。 現在の墓所は、国の指定史跡に指定されている。
大衆小説の新人に与えられる文学賞である直木三十五賞のきっかけとなった。 通称、直木賞とも呼ばれる。 植村の植の字を二字にして直木とした。 時事新報や文芸春秋、苦楽、大衆文芸、由比根元大殺記、南国太平記などを執筆。 その後、荒木又右衛門、楠木正成、足利尊氏、源久郎義経も執筆し、直木賞が生まれた。
直木三十五生誕地
1891年、植村宗一は、大阪市中央区に生まれ、後に早稲田大学英文科を卒業した。
大衆小説の新人に与えられる文学賞の一つに数えられる「直木三十五賞(通称、直木賞)のきっかけとなった人物。 由来は、植村の植の字を二字にして直木とした。 直木三十五氏の本名は、植村宗一。 大阪市中央区に生まれ、後に早稲田大学英文科を卒業した。 時事新報や文芸春秋、苦楽、大衆文芸、由比根元大殺記、南国太平記などを執筆。 その後、荒木又右衛門、楠木正成、足利尊氏、源久郎義経も執筆し、直木賞が生まれた。 ここでは、当時の書斎の再現や直筆の品を展示している。 直木作品の他、直木賞作品、直木の同時代の小説等が手に取れるコーナーもある。
大阪市中央区を流れる東横堀川に架かる橋。 江戸時代、久太郎町橋として架橋。 当初、付近では田畑が広がっていたため、農作業に用いられていた。 これが、橋の名前の由来となり、公儀橋の一つにも指定された。 明治時代、鉄柱木橋に架け替えられた。 1926年、鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け替えられた。 1969年、中央大通の敷設に伴い、架け替えられた。 付近は、橋名をもとに、農人橋と呼ばれ、中央大通と松屋町筋の交点にあたる場所を農人橋交差点と呼ぶ。
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1500年代、大阪の町は、豊臣秀吉の都市計画によって造られたうちの一つが、太閤路地である。 太閤路地とは、下水道のことで、建物の背中合わせの部分を割るように開削したことから「背割下水」や「太閤下水」とも呼ばれている。 大阪市内に現在も約40kmで活躍している。
江戸時代、大坂は、大川(旧淀川)を含め、3か所に区分されていた。 大川以北には、天満組。 それ以南の2組はそれぞれ、北組・南組に区分された。 そして、その3組を総祢して大坂三郷と呼ばれていたと言う。 江戸時代、大阪における惣年寄の会所として設けられた現在の事務所。 惣代は惣会所に住んでいたと言う。
大槻能楽堂は、戦前から残り、戦禍を免れ、戦後も能楽公演が続く。 もともと一般的だった桟敷席を椅子席にした能楽堂として誕生したことで知られる。 2007年には、70周年を迎えた。 ユネスコ世界無形遺産にも宣言される日本古来の伝統芸能である。