
大阪造幣局桜の通り抜けの春
大阪大阪造幣局桜の通り抜けの春
まいどまいど! 冬の厳しい寒さが過ぎれば、桜が満開を迎えるお花見の季節でんな。 まちのあちこちに桜が咲き乱れ、まるで新入生・新社会人の門出を祝ってるようですやん♪ 大阪で桜っちゅうたらやっぱり「造幣局の桜の通り抜け」やおまへんでっしゃろか。 大阪造幣局は、日本国内で流通している硬貨や記念硬貨を製造する工場やさかい、普段は敷地内部に立ち入ることができまへんけど、お祭りなどイベントの開催期間中は内部を散策することができるさかい、関西一円からぎょうさん観光客が訪れまんねん。 せやけど、まだまだ肌寒い時期。 昼間はポカポカ陽気でも花冷えの対策として上着を一枚、準備してたら安心でんな。 さて、造幣局の桜の通り抜けでは、日本有数の名所としても知られてんねやけど、毎年、「今年の花」が選定されまんねん。 今年の「今年の花」は何でっしゃろな? この他、造幣局周辺には多くの屋台が立ち並び、まるで神社の縁日のようで。 造幣局のすぐそばを大川(旧淀川)が流れ、その上を遊覧船が走り、周辺の桜並木も楽しめるため、ぎょうさんの見物客でにぎわってまっせ。
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大川(旧淀川)沿いにある造幣局では毎年、桜の通り抜けのイベントが開催される。 ここでは、約120品種、約40本の桜が植えられている。 かつて、この土地には、藤堂家の大坂屋敷があった。 この屋敷が植栽していたサクラの樹木が造幣局にも引き継がれたと言う。 1883年、開花したサクラを一般公開することになった。 日没後の夜桜も鑑賞できる。
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通り抜けのご案内
造幣局内に設置されている看板。 造幣局は桜の名所として知られ、「さくら名所100選の地」に選定されている。 造幣局とともに歩んできた桜とその桜の通り抜けの歴史が刻まれている。
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さくら名所100選の地
造幣局内に設置されている看板。 造幣局には現在、約120品種、約400本の桜が植樹。 かつてこの場所には、藤堂家の大坂屋敷があり、同家の植栽していた桜が造幣局に引き継がれた。 1883年、桜の通り抜けの一般開放が開始。 毎年、多くの観光客が訪れるため、基本、一方通行となっている。 桜の品種は数多くあり、桜を代表する「ソメイヨシノ」以外にも毎年「今年の桜」として一品種を選定して紹介している。
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造幣局
1871年、大阪市北区天満に大蔵省造幣寮として創設された。 東京オリンピックや長野オリンピックの金・銀・銅の各メダル、名古屋城の金鯱なども製作された。
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造幣局旧正門
造幣局内にある施設。 1871年、大阪に造幣局が開設された。 創業当時の造幣寮はこの場所に正門を設置していた。 レンガ造り八角形の建物は警備員が主に利用していたという。
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造幣局の鉄柵
造幣局内にある鉄柵。 1868年、後藤象二郎大阪府知事が大阪城に動物園を開園する計画を立てていた。 その際、英国から鉄柵を輸入したが、動物園の計画が中止になった。 そのとき、久世喜弘造幣局判事の進言により、この場所に移設された。 1872年、明治天皇が京都御所から近畿・中国地方へ行幸される際、途中、造幣局に立ち寄り、視察した。 そのときに、最初の一歩を踏んだのが、この場所であるといわれている。
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めがね橋
造幣局内にある橋跡。 1871年、大川と構内の入り堀間に架けられた石造りの橋。 中央部分には膨らみがあったことから、「めがね橋」という愛称で親しまれ、正式名称となった。
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煉瓦の由来
造幣局内に設置された看板。 造幣局では煉瓦が使用され、レトロな雰囲気を醸し出している。 最近では、近代建築として注目を浴び、多くの観光客が訪れるようになった。 大正時代前期に建設された当時、造幣局の宿舎と幼稚園との境界にあった塀に使用されていた。
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創業当時のガス燈
造幣局内に設置されているガス燈。 造幣局として創業した当時、旧正門内に左右一対のガス燈が設置された。 1857年、薩摩藩主島津斉彬がガスの製造実験を行い、別邸の石灯籠に日本で初めてガス燈が点燈。 設置された当時は物珍しさからガス燈を眺めに訪れる来訪者が多かったとか。
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長谷川為治氏の像
造幣局内に設置されている像。 山口県(長州)生まれ。 1870年、造幣局に入局した後、造幣局長を務めた。 貨幣法の制定、動力電化・貨幣製造能力倍増の設備拡張工事などに尽力。
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造幣局製品販売所
日本の硬貨を製造している大阪の造幣局は、本局として知られ、記念硬貨の販売所が設置されている。 造幣局が長年の研究開発による「貨幣」や「勲章」の製造技術が生かされている。
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大阪造幣局桜の通り抜け
毎年、春になると多くの見物客でにぎわう。 今回は、造幣局の入り口で入場制限があり、ゆったりと見物、博物館見学、記念撮影を楽しむことができた。
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大阪造幣局桜の通り抜け
毎年、春になると多くの見物客でにぎわう。 今回は、造幣局の入り口で入場制限があり、ゆったりと見物、博物館見学、記念撮影を楽しむことができた。
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大阪造幣局桜の通り抜け
毎年、春になると多くの見物客でにぎわう。 今回は、造幣局の入り口で入場制限があり、ゆったりと見物、博物館見学、記念撮影を楽しむことができた。
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大阪造幣局桜の通り抜け
毎年、春になると多くの見物客でにぎわう。 今回は、造幣局の入り口で入場制限があり、ゆったりと見物、博物館見学、記念撮影を楽しむことができた。
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大阪造幣局桜の通り抜け
毎年、春になると多くの見物客でにぎわう。 今回は、造幣局の入り口で入場制限があり、ゆったりと見物、博物館見学、記念撮影を楽しむことができた。
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大阪造幣局桜の通り抜け
毎年、春になると多くの見物客でにぎわう。 今回は、造幣局の入り口で入場制限があり、ゆったりと見物、博物館見学、記念撮影を楽しむことができた。
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大阪造幣局桜の通り抜け
毎年、春になると多くの見物客でにぎわう。 今回は、造幣局の入り口で入場制限があり、ゆったりと見物、博物館見学、記念撮影を楽しむことができた。
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大阪造幣局桜の通り抜け
毎年、春になると多くの見物客でにぎわう。 今回は、造幣局の入り口で入場制限があり、ゆったりと見物、博物館見学、記念撮影を楽しむことができた。
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大阪造幣局桜の通り抜け
毎年、春になると多くの見物客でにぎわう。 今回は、造幣局の入り口で入場制限があり、ゆったりと見物、博物館見学、記念撮影を楽しむことができた。
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大阪造幣局桜の通り抜け
毎年、春になると多くの見物客でにぎわう。 今回は、造幣局の入り口で入場制限があり、ゆったりと見物、博物館見学、記念撮影を楽しむことができた。
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大阪造幣局桜の通り抜け
毎年、春になると多くの見物客でにぎわう。 今回は、造幣局の入り口で入場制限があり、ゆったりと見物、博物館見学、記念撮影を楽しむことができた。
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桜が咲く季節。 花見としてオススメなのは、造幣局前を流れる大川沿いの桜之宮公園。 ここには市民の寄付によって植樹された桜が咲き誇り、大阪を代表する名所としても知られている。 大阪の人情がたっぷり詰まった公園でゆっくり過ごしてみるのはいかが? 約4800本の桜並木は、花見客であふれ、露店が立ち並び、観光船が大活躍。 川の上から桜の景色を楽しむことができるだけでなく、大阪城も眺めることができる。 その他、普段でもウォーキングやランニングなど、スポーツを楽しむ人が多い。 普段では決して楽しむことのできない大阪市内での川の旅。 あなただけの特別な時間を大切な人と過ごしてみるのもいかがでしょうか。
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どこまでも続く桜並木
大川沿いには道が整備されており、四季折々の景色を楽しむことができる。
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太陽の光を浴びながら
太陽の光を浴びながら歩く桜並木。 花と鼻の間から光が差し込み、幻想的な世界へいざなう。
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水陸両用バス
水上と陸上の両方を走ることができる水陸両用バス。 桜をバックに記念撮影。
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川の上から桜並木
大阪市内の中心部を流れる大川の水上から毛馬桜ノ宮公園の桜並木を見物することができる。
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川崎橋
大阪市北区と都島区内を流れる大川に架かる橋。 自転車・歩行者専用斜張橋として親しまれている。 大阪市北区中之島を起点とした北大阪サイクルラインの一部。 終点は、大阪府吹田市にある万博記念公園。 浪速の名橋50選に選定された。 1978年、土木学会田中賞を受賞した。 橋長は、約130mで、幅員は3mである。
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1969年、開館した。 1911年、旧造幣局火力発電所の施設として建設された。 館内では実際に製造された大判、小判、丁銀、貿易銀、皇朝十二銭などが展示されている。 また、そのほかにも外国貨幣、勲章、メダル、工芸品など約4000点。 貨幣の歴史や種類、人物紹介など幅広い展示がされている。
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造幣博物館ご来館記念撮影
日本円でおなじみの硬貨を背に記念撮影を楽しもう!
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旧造幣寮鋳造所正面玄関(旧 ユースアートギャラリー)が隣接。 1871年、造幣寮(現在の造幣局)の応接所として建設された。 1872年、泉布観と命名。 貨幣を意味する「泉布」と館を意味する「観」から泉布観となった。 1956年、国の重要文化財に指定された。 1908年、当時の部屋の内装が今現在も残る。 現在は、毎年春分の日前後にのみ一般公開されている。
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泉布観案内板
1871年、造幣局が開設された。 造幣局の造幣寮鋳造所として竣工し、今に至る。 造幣局とともに歩んできた洋風建築としての歴史が刻まれている。
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1871年、トーマス・ウォートルスの設計で造幣寮鋳造所として竣工。 1927年、老朽化に伴い、取り壊されたが、金銀貨幣鋳造所の正面玄関の石材を保存。 1925年、正面玄関の石材を明治天皇記念館の正面玄関として復元した後、聖徳館に改称。 1945年以降、桜宮公会堂として利用される。 大阪市立図書館(桜宮図書館)、学校教育の振興施設ユースアートギャラリーが移転したが後に閉鎖。 1956年、旧造幣寮鋳造所正面玄関が国の重要文化財に指定される。
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大阪市内を流れる大川に架かる橋。 1930年、大阪市北区と都島区の間に架けられた、最大支間は104m。 そのほか、銀橋と呼ばれ、親しまれている。 地名となっている「桜之宮」は、大川の東岸にある神社の名が由来となっている。 江戸時代、桜の名所として親しまれ、「桜の渡」と呼ばれたと言う。 明治時代、造幣局が造られ、「桜の通り抜け」が話題を集め始める。
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桜ノ宮橋
階段を駆け上がると橋の上。 付近には、新桜宮橋(新銀橋)。 世界的に有名な安藤忠雄氏(大阪市旭区出身)が設計した。
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みゆき橋跡
造幣寮開設当時は、水運も盛んだった。 貨幣の材料となる地金は船で構内の地金溶解工場横の船着場に運び込むための掘割に架かっていた吊り橋だという。 1898年、明治天皇が最初に渡ったことにより、みゆき橋と名づけられた。 掘割に架けられた眼鏡橋は桜の通り抜けの通路に欄干だけが残っていると言う。 現在は、橋が撤去され、「みゆき橋跡」と言う文字だけが当時の面影を物語っている。
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源八渡し跡
1907年、公営として運営する。 1936年、源八橋がかけられるまで活躍した。 この周辺は、梅や桜の名所として知られ、とてもにぎわっていたのだとか。 与謝野蕪村も句を残している。
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略称は、OAP。 核となる高層ビルの名称はOAPタワー。
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1881年、天満紡績の工場として建設された。 その後、大阪合同紡績天満工場、東洋紡績を経て、現在は中西金属工業の工場として稼働している。 デザインは、赤レンガ造り。 日本で初めて、女工らがストライキを行った場所とも言われている。
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江戸時代に活躍した儒学・陽明学者で天満与力・大塩平八郎の私塾跡。 当時、凶作が続き、庶民は疲弊していたので、自分の蔵書を処分して救済していた。 その後、幕府の政策に腹を立て、窮民救済と政治の覚醒をめざして挙兵、大砲を放った。 これを大塩の乱と呼んでいる。 大塩の乱は半日で鎮圧されたが、一揆が続発して幕府に大きな打撃を与えた。
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与力役宅門
武家屋敷の建物。 江戸時代、大阪東町奉行配下であった天満与力の中嶋家の役宅門。 当時、この付近一帯は、天満与力の役宅が軒を並べていたが、大正末期、現在位置へ移築。 1948年、茶室として増改し、この建物だけが現存する。
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今は小学校となっているこの辺りに鎮座していた。 豊臣秀吉が天下統一の頃、織田有楽斎の別邸があり、徳川家康も訪れていたのだとか。 1616年、徳川秀忠は、全国各地に東照宮を建立させた。 1617年、松平忠明氏によって川崎東照宮が造営された。 1837年、大塩平八郎の乱により、焼失したが、後に再興した。 1873年、明治維新の混乱により、衰退し、廃絶した。 1934年、地元住民の声により石灯篭や記念碑などは、大阪天満宮に寄付され、現在に至る。
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本堂には、阿彌陀如来が安置されている。 旧石山本願寺として知られ、各地を移ったが、江戸期にこの地にあったと言う。
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カレーパンを中心とする焼きたてパンの専門店。 テイクアウトのみ。 北海道北海道広尾郡大樹町に1号店を開店した。
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カレーパン
ザックザクカレーパンはカレーパングランプリ2020にて金賞受賞。 店内では堀江貴文さん(通称、ホリエモン)発案のカレーパンも。
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プロ野球チームのオリックスバファローズのファンが集うと人気の居酒屋。 店内はカウンター席とテーブル席がある。 メニューは餃子やおでん、お好み焼きなど。 店内には大型のテレビがあり、オリックスバファローズが試合中であれば生中継で試合観戦も。
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本格的な上海料理でお持ち帰りも可能。 店内は、セルフサービスでビールや酎ハイレモン、青島ビールなども楽しめる。
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小龍包で口の中も心の中もアッツアツ
焼き小龍包とは、上海料理を代表するメニューの一つ。 挽き肉の具を小麦粉の皮で包み、鉄板で蒸し焼きにした包子のこと。 店内の壁には、「小龍包のなかからアツアツの肉汁が出て、火傷する場合があります」との注意書きが。 でもこの肉汁、実はコラーゲンたっぷり。 (生煎饅頭・シェンチェンマントウとも)
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水餃子
焼き餃子とはまた違った味を楽しむなら、これ!
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ちまき
味がよく染みこんだ上海粽(ちまき)。
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テイクアウトも
小籠包などテイクアウトも可能。
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天満組惣会所の一部だった。 今では、公園として親しまれている。
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江戸時代、大坂は、大川(旧淀川)を含め、3か所に区分されていた。 大川以北には、天満組。 それ以南の2組はそれぞれ、北組・南組に区分された。
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天満組惣会所跡
そして、その3組を総祢して大坂三郷と呼ばれていたと言う。 それぞれの組には惣会所と呼ばれる事務所が設けられ、自治的機関として機能していたと言う。
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1837年、江戸幕府に対する反乱「大塩平八郎の乱」が勃発。 1836年まで、天保の大飢饉により各地で百姓一揆が多発していた。 現在の大阪市北区天満橋の大塩邸から難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民や引っ張り込まれた大坂町民と、「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、奉行所の兵に半日で鎮圧されてしまった。 これによって市内の約30パーセントを焼き尽くしたと言う。
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日時計?謎の深まる石碑
大塩の乱の石碑の近くに、1から12までの数字が描かれた石碑がある。 日時計とする説もあるが、謎が深まるばかり。 謎に包まれた歴史を探索するのも大阪旅。
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天満界隈ではおしゃれなカフェが点在し、中には常に行列ができている人気のところも。 ここは多くの人の姿で賑わっていた。 メニュー表をピャッと読んで、「これや!」と思い、注文したのが、R・J COFFEE特製の「エコプレッソ」。
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エコプレッソ
エスプレッソならぬ「エコプレッソ」が最近、話題を集めていて、多くのメディアでも取り上げられた注目の商品。 何がどう人気で注目を集めているのか、早速、皆さんにご紹介していきましょう。 1日100個限定というエコプレッソ。 実は、コーヒーがカップや容器に入っているのではなく、素材は食べられるクッキーでできている。 そのため、取っ手部分は持たずにという注意事項がありました。
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エコプレッソ
中は、冷たいアイスなので、溶けきる前にスプーンでアイスをほじくり出し(笑)、コーヒーカップを前歯2本で割りました。 「ごめんなさい、備品を割ってしまいました。」 証拠隠滅のために、コーヒーカップごと食べきりました。 ということではなく、クッキーまで美味しくいただきました(笑)
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目の前を大川(旧淀川)が流れ、春になると桜が満開。 造幣局桜の通り抜けと同様、多くの見物客でにぎわう。 また年間を通して、スポーツに遊びに多くの市民の憩いの場として利用されている。
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天満橋北詰めから天神橋までの間にあったとされる。 石山本願寺で次第に繁盛し始め、京橋北詰め付近へ移動した。 その後、当地に移動し、主に野菜や果物を販売していた。 1931年、中央卸売市場に吸収されるまでにぎわっていたと言う。
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大阪・天満では古くから子守唄がある。 「天満の市」は、大阪へ子守娘が多く出ていた。
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大阪の八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀と京都・伏見の平戸橋・蓬莱橋・京橋・阿波橋とを結ぶ船着き場の一つ。 淀川上流の枚方市では、「食らわんか」が流行。 三十石船などに、餅・汁・酒などを商っていた小舟で、“餅くらわんか”“ごんぼ汁くらわんか”などと汚い言葉で食べ物を売りにきたことから、“くらわんか舟”と呼ばれるようになった。 毛馬には“毛馬舟”が存在。
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将棊島は、大阪市内を流れる淀川の水が寝屋川や鯰江川に逆流し、水害を引き起こしていた。 その後、水害を防ぐため、三つある河川の合流点の綱島から天満橋周辺に隔流堤を築いた。 1873年、オランダ出身の技術者として知られたデ・レーケ、エッシェル、テイッセンが来日。 1874年、将棊島地先にオランダ式の粗朶沈床による水制工を実施。 現在、大阪市旭区の城北公園付近にある淀川左岸にもその名残がある。
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天満橋筋の大川に架けられた橋、「天満橋」。 天満橋は、大阪市北区の地名でもあり、橋南詰周辺一帯の地域のことを指す。 大阪市内では、天神橋、難波橋と並ぶ浪華三大橋の一つとして数えられる。 天満橋は、2階建ての橋になっており、上部は土佐堀通をまたぐバイパスになっている。 天満橋南詰には、天満橋交差点があり、ここより北を天満橋筋、南を谷町筋という。