たいしくんのまち大阪府河南町と太子町をぶらり
大阪たいしくんのまち大阪府河南町と太子町をぶらり
まいど! 冠位十二階や十七条の憲法を制定したこととしても知られる聖徳太子ゆかりの地・大阪府南河内郡太子町。 奈良県との県境で、生駒・金剛山地の西麓に位置するため、町内には、緑豊かな景色が広がる一方、推古天皇陵、聖徳太子廟に代表されるように、歴史の趣を感じさせる古墳の町としても知られている。 その他、日本で初めてとなる国道と呼ばれる官道・竹内街道が通り抜け、かつての面影が今に残っている。 聖徳太子は、四天王寺(大阪市天王寺区)を建立、日本最古として。 桃ヶ池(大阪市阿倍野区)にて生息していた大蛇を退治した伝説をはじめ、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺、兵庫県揖保郡太子町の斑鳩寺、兵庫県加古川市の鶴林寺など、関西地域各地に多くの伝説を残している。 そんな聖徳太子をモチーフに太子町では、マスコットキャラクターが登場。 その名も、「たいしくん」。 町内の名所である叡福寺、竹内街道、二上山などが散歩道。 さあ、たいしくんと一緒に、聖徳太子、小野妹子、推古天皇ゆかりの太子町を散歩してみまひょ!
聖徳太子ゆかりの地・太子町として知られ、奈良県・斑鳩との縁が深い。 山登りや散歩にお出かけする男の子。 大阪府庁咲洲庁舎、大阪・御堂筋、玉造、東大阪市のほか、太子町のイベントに登場!
ひとまず、道の駅・太子町にてぶらり。 ここでは、数多くの太子町特産が並んでいる。 オススメなのは、太子町名物もなか。
パッケージには、たいしくんが登場。
太子町名物のもなかを味わう。
道の駅内をぶらり
全国的に有名な「唐本御影」。 聖徳太子を中心に描かれた肖像画で、向かって左には弟の殖栗皇子、向かって右には息子の山背大兄王が並ぶ。
大阪府の特産品にも選ばれた「太子最中」。 最中には、太子町の「太子」という文字が。
お土産に、たいし最中
お土産に最適な太子最中は、道の駅「近つ飛鳥の里・太子」で!
竹内街道の沿道に開設された資料館には、日本最古の国道として知られる竹内街道の歴史と太子町の歴史が展示。 竹内街道はかつて、大阪・難波と奈良県・飛鳥とを結ぶ重要な交通の要として利用され、聖徳太子によって派遣された遣隋使が大陸より持ち込んだ文化を都へ伝えるためなどに利用した。
竹内街道
竹内街道の旗が風になびく。 実は、ここ道の駅近つ飛鳥の里太子は、竹内街道の中間地点。 竹内街道とは、613年頃に整備された日本最古の官道(国道)として知られ、大阪府堺市を始点に二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近までを結ぶ約2kmの街道。 なぜ、このような道が整備されたのかは、謎となっているが、沿道にはかつて松尾芭蕉が一時期、住んでいたと言い、歌碑が建立されているとか。
開基は、聖武天皇、聖徳太子、推古天皇。 太子の没後、伯母・推古天皇が土地、建物を寄進したのが叡福寺の始まり。 平安時代、嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝、空海、親鸞、日蓮などもこの地へ訪れたという。 豊臣秀頼再建の聖霊殿、多宝塔が重要文化財に指定。 日本最古の仏教寺院・四天王寺(大阪市天王寺区)を建立後、法隆寺、中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)の創建に携わった。 これを七大寺と呼ぶ。 また、その中でも、上之太子・叡福寺、中之太子・野中寺、下之太子・大聖勝軍寺は「河内三太子」と総称されている。
境内には聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(聖徳太子御廟)がある。 北古墳は約直径55mの円墳で、宮内庁が管理している。 聖徳太子、母・穴穂部間人皇女、太子の妃・膳部菩岐々美郎女が眠る。
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別名、山田高塚古墳と呼ばれ、古墳時代末期に築造された。 500年代、推古天皇は日本初の女帝であると同時に、東アジア初の女性君主として活躍。 渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)の妃となり、2男5女を授かった。 甥には、聖徳太子がいた。 聖徳太子は、冠位十二階、十七条憲法を制定。 小野妹子を隋に派遣した。 没後、息子・竹田皇子が眠る植山古墳(奈良県橿原市五条野)に合葬された。 後年、当地に改葬、現在に至る。
源泉名は、太子温泉。 泉質は、単純温泉(低張性弱アルカリ性低温泉)で、体中がポカポカ。 天然温泉で、一日の旅の疲れを癒す最高のひと時。
ヘアスタイルは、日本最大の双円墳「金山古墳」がモチーフ。 誕生日は、9月30日(1956年に河南町が発足と同時に誕生)。 明るく元気な性格で、お米やいちじくが好物。 史跡めぐり、勾玉づくり、花見が趣味。
大阪府立近つ飛鳥風土記の丘(国の指定文化財)の一部。 周辺には多くの古墳が現存する中、1994年、「黄泉の塔」は安藤忠雄氏の設計により建設された。 第26回日本芸術大賞他を受賞。 館内には、仁徳天皇陵を再現した模型や付近から出土した埴輪、土器などが展示。 展示としては、近つ飛鳥と国際交流と題し、聖徳太子を中心とした歴史を展示。 そのほか、古代国家の源流、現代科学と文化遺産を公開している。
南北朝時代、楠木氏一族により築城。 地名の由来は、室町時代後期、根来寺の僧兵の勢力が入り、この地に葬られた大河将盤の墓にちなむ。 織田信長により根来衆が敗退し、村人が自衛の為、久宝寺顕証寺に依頼。 根来衆の大ケ塚道場善念寺を顕証寺の通寺としたことにはじまる。 江戸時代、幕府領、京都所司代牧野親成領、山城淀藩領、下総佐倉藩領、常陸笠間藩領等へと変遷し、幕末を迎えた。 付近を石川支流の梅川が流れ、水運、河内木綿・米・菜種、酒造業なども盛んであった。 儒学者の貝原益軒が立ち寄った。 商取引は北国や長崎にまで及び、各地の藩札・手形も流通。 文化面では、歌舞伎・相撲・人形浄瑠璃などの興行も盛んであった。
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山号は「近松山」。 「大ケ塚御坊」とも呼ばれている。 顕証寺を中心とした寺内町が形成され、現在もその痕跡をとどめている。 鎌倉時代、念仏宗第7世法明が、念仏道場を開き、布教をはじめた。 1573年、本願寺11世顕如が道場「大ケ塚総道場」を開基。 当時、この地は柴田勝家に属し、柴田家の菩提寺とされていた。 後に豊臣秀吉は築城を試みるが、失敗に終わる。 伝統行事は、「八朔法要」と「八朔市」。 元禄年代、京都御所の皇室から下贈された灯籠人形を本堂に飾ったところ、人々が次々に拝観に訪れた為、顕証寺周辺の商いが発展した。
壹須何神社、壱須何神社とも称する。 主祭神は、大己貴尊、天照皇大神、天児屋根尊、品陀別命。 祭神は、天滿大自在天神(旧菅原神社祭神)、天忍日尊、天津彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、彦波瀲武鵜鵜草葺不合尊、神日本磐余彦尊(以上、旧降旗神社祭神)。 当地は蘇我氏の末裔・石川朝臣の本拠地であり、元は宗祖・蘇我石川宿禰を祀った。 創建時期など詳細は不明となっている。 南北朝時代、当地に南朝方の石川城が築城するも焼失。 1589年、豊臣秀吉は石川郡代官伊藤加賀守秀盛を通して祈祷と境内免許の証を下した。 その際、湯釜が奉納、社宝として残っている。
融通念仏宗の中本山。 1323年、法明上人の開基。 1646年、宗慶上人の再興。 素地・切金文様のある木造十一面観音立像は、国指定の重要文化財。
別名、大宝寺。 本尊は、阿弥陀如来。 山城に位置する寺院として知られている。 境内には鎌倉時代に築造されたとされる如来坐像「木造阿弥陀如来坐像」は国の重要文化財に指定。
山号は神下山、開山は役行者。 文武天皇の勅願により役行者が草創した二十八箇所の修験霊場の一つ。 底筒男命が降臨後、神下山香花寺、空海が来住、高貴徳王菩薩の示現を見、高貴寺と改称。 南朝の後醍醐天皇より北朝軍調伏の祈祷を命じられ、南朝側につき、兵火により焼失。 慈雲尊者飲光が入寺、大和郡山藩主柳沢保光の帰依・支援を受け、堂舎を整備、当寺を真言律と梵学修行道場とし、戒壇を設け、正法律を本山。 神仏分離により、磐船神社は分離。 弘法大師御影堂、慈雲の墓、後桃園天皇の御実母の開明門院御髪奉安塔、柳沢保光(尭山)の遺髪碑、慈雲筆の梵学津梁一千巻を所蔵。 明治時代に活躍した女流歌人、石上露子のゆかりの地。
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ぷくアリーナ(大体育室)とぷくホール(小体育室)がある。 バレーボール、バスケットボール、バドミントン、バウンドテニス、卓球、剣道などの室内スポーツの拠点、文化・芸術活動の場として幅広く活用されている。
真言宗醍醐派の準別格本山。 山号は竜池山。 665年、役小角によって創建、薬師如来像を自作し、本尊とした。 祈雨法が修せられて天武天皇から山寺号が与えられた。 空海によって中興。 空寂が後鳥羽天皇の病気平癒を祈願。 空寂を慕って歌人と知られる西行法師がこの寺を訪れ、終焉の地となった。 江戸時代、歌僧似雲がこの寺を訪れ、西行堂を建立。 天武朝期に勅願寺となり、行基や空海もここで修行したと伝わる。 また、境内には、大阪府指定の天然記念物「海棠(バラ科の一種)」が生息する。 西行記念館では、西行直筆の掛け軸をはじめ、西行法師にまつわる数多くの資料が展示されている。
コンセプトは「人と自然と動物たちの心のふれあい」。 1989年、動物たちとのふれあい体験型のテーマパークとして開園。 約140種、約1,500頭羽の動物を飼育。 敷地内では、フィールドアスレチック、コイの釣り堀、金魚すくい、和金釣り、バッテリーカーなどで遊べる施設、天然温泉、宿泊施設、乗馬クラブ、ゴルフ場、バーベキュー。 園内ではナポリタン・マスティフ、ペルシュロン、フレミッシュ・ジャイアントなどの動物を鑑賞できる他、購入、引き取り、里親探しも行っている。 ウマのギャロップくん、ウサギのプリンちゃん、ウシのミルモくん、イヌのハックルくん、ブタのピンキーちゃんなどのキャラクターが登場。
この地域一帯には総数92基の古墳が点在しているため、寛弘寺古墳群(ツギノ木山支群)と呼ばれている。 4世紀から7世紀にかけて豪族が築造したとされ、現在は寛弘寺古墳公園として整備。 古くから「寛弘寺の七ツ墓」として知られ、出土遺物は大阪府立近つ飛鳥博物館で保管・展示されている。
主祭神は、饒速日命、天照地照彦火明命、櫛玉命。 一帯は物部氏の勢力圏であったことから物部氏の祖神・饒速日命を主祭神とした。 また、本来の祭神は「鴨」の賀茂氏に関する神とする説も。 相殿に高皇産霊尊を祀る。 創建時期など詳細は不明となっている。 明治時代、「天満宮」と称し、祭神は、菅原道真。 1660年、付近の高皇産霊尊を祀る天神神山神社を合祀。
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墳丘の長さ85.8m、総長約104m。 南丘直径55.4mで、高さ9.4m。 北丘直径38.6mで、高さ6.8m。 全国的に珍しい双円墳(瓢形双円墳)として知られ、国の史跡に指定されている。 北丘は2段、南丘は3段に築かれ、周囲には周濠がある。 各段の間と墳頂部の平坦な部分には敷石が敷かれていた。 北丘の横穴式石室内の玄室と羨道には、凝灰岩をくり抜いて作られた家形石棺が2個置かれている。 発掘調査では石室・石棺の内外から、銀環、瑠璃玉、鉄製帯金具、鉄刀子、鉄鏃、馬具、土師器坏などが出土
石川総長は、膳所藩七万石の藩主石川忠総の三男として生まれた。 忠総の死後七万石の内一万石分として伊勢国神戸藩を授けられた。 1660年、総長は大阪城番に任命、神戸藩に加えて河内国石川郡内に一万石を与えられた。 1661年、当地で役所(白木陣屋)を築き領主に代わって代官がこの地を治めた。 石川氏は総長の孫、総茂の代に常陸国下館藩に移されたが、河内の領地は残り、幕末までこの役所は使用された。
ため池の農業用施設としての役割を果たしている他、ベンチなどが設置され、憩いの場となっている。