2000年前のリサイクルシステム
三重2000年前のリサイクルシステム
リサイクルや リユースが叫ばれる時代。 伊勢神宮では、神様の宮に使われていた御用材を 決して粗末にせず、大切に使い回します。表面を削り落とすたびに 御用材は 新しい木肌や香りを取り戻し、新たな生命を得て 新しい地に旅立つのです。 また神宮では 200年後を見据えて、豊かな森づくりに 力を入れています。 私たちは、1000年前の太古の昔の知恵に、再び学ぶことができるのではないでしょうか。
衣食住を司る 豊受大御神を祀るのが外宮(げくう)。
中央が棟持柱
地面に直接差し込まれ、屋根を支える棟持柱。直径 約80センチというのですから、樹齢は400年ほどでしょうか。
太陽の女神 天照大御神を祀るのが内宮(ないくう)。
御正殿の棟持柱
棟持柱も樹齢数百年を経たヒノキを御用材としますが、御正殿の扉を 本来の様式に合わせ一枚板とするには、なんと樹齢900年のヒノキを要するそうです。
神宮参拝の折には、宇治橋を渡るとき 鳥居を形作るヒノキの見事な太さにご注目ください。 これ、新材で作ってるんじゃないんですよ。
宇治橋 西側鳥居(おはらい町側)
この見事な太さの鳥居、元は外宮御正殿の棟持柱でした。つまり20年前の新材です。 役目を終えた旧正殿を解体して その材の表面をていねいに削ると、見事な白木の木肌が現れ ヒノキ独特の香りがしてくるのだそうです。
宇治橋 東側鳥居(神宮側鳥居)
こちら側の鳥居は、内宮御正殿の棟持柱だったヒノキの肌を削ったもの。こちらも20年前には新材でした。
外宮 御正殿の棟持柱は、20年後の式年遷宮を経て 宇治橋おはらい町側の鳥居となります。そしてさらに20年後の式年遷宮を経て、ここ桑名の七里の渡しの鳥居となり、伊勢の国の入り口を示す第一鳥居となるのです。
鳥居 建て替え
かつて外宮 御正殿の屋根を 20年間に渡り支えてきた棟持柱が、宇治橋鳥居としての20年を経て、今度は はるばる 桑名の地に運ばれてきます。
内宮正殿の棟持柱は、20年後の式年遷宮を経て解体され、宇治橋 神宮側の鳥居となります。 そしてさらに20年後の式年遷宮のあと、ここ関にある 東の追分の鳥居となるのです。 関の追分は 江戸時代の 東海道と伊勢街道の分岐点だったので、こちらも「ここから伊勢」という目印だったのでしょう。
表面を削り 新材のように
かつては内宮御正殿の棟持柱だったヒノキ。40年を経て 接続部には少し黒ずみもありますが、表面に鉋をかけてあるので 美しい白木の木肌が現れていますね。
式年遷宮には膨大な量のヒノキを要し、その用材を切り出す山を 御杣(みそま)山と呼びます。 14世紀までは 神宮近隣の神路山、鳥路山、高倉山が御杣山とされていましたが、戦国時代を経て 原木が枯渇し、1709年の御遷宮からは 長野県の木曽谷に 御杣山が移されました。
手入れの行き届いた 針葉広葉混合林
神宮職員が足で歩き回って ていねいに手入れする宮域林は、昔ながらの豊かで美しい日本の森の姿を保っています。 一般の立ち入りは許可されていませんが、写真集の美しい緑を見れば 森の限りない豊かさが感じられます。
200年後のために
再び宮域林から御用材を得ることを目標に、神宮では大正時代から植林を続けています。 それらの木が育って 本格的に 神路山から御用材が伐り出せるようになるのは、2120年頃になる見通しなのだとか。 2013年の式年遷宮でも、700年ぶりに三山からの木が 御用材の一部として使用されたそうです。
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内宮脇から志摩磯部に抜ける伊勢道路は、伊勢神宮の宮域林を横切る道路なのです。 一般の人が 神宮林の美しさを目にすることのできる 貴重な場所です。 新緑 紅葉がたいそう美しく、運転していても目を奪われてしまいます。 カーブが多いので、脇見運転には ご注意ください。
トンネルとトンネルの間が 宮域林
神宮の宮域林には 道路灯や広告などが 一切ありませんから、夜に伊勢道路を走ると バックミラーが 黒い板と化します。 道路沿いには、シカやウサギが 現れることもあります。
川沿いの美しい緑
ただし、横道に入り込むことは許されていませんし、車を停める場所も ほとんどありません。
御用材を伐り出す御杣山は、14世紀までは 外宮 内宮の背後に広がる神路山、鳥路山、高倉山でした。 原木が枯渇したため、御杣山は 尾張徳川家の領地 木曽谷に移され、以後300年以上に渡って御用材を産出しています。