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大阪市中央公会堂
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大阪通商会社・為替会社跡
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中之島まつり
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淀屋橋
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栴檀木橋
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大阪市役所
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まいどおおきに食堂 大阪市役所食堂
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水晶橋
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大阪府立中之島図書館
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大阪市立東洋陶磁美術館
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こども本の森 中之島
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木邨長門守重成表忠碑
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中之島公園
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R RIVERSIDE GRILL & BEER GARDEN
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なにわ橋駅
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大江橋駅
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日本銀行大阪支店旧館
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中之島フェスティバルタワー
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錦橋
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中之島遊歩道
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グタイピナコテカ跡
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渡辺橋駅
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Mデリ&バーガー中之島店
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玉江橋
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大阪市立科学館
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国立国際美術館
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花の散歩道
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大阪大倉商業学校跡地
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大阪府師範学校跡
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大阪府立国際会議場
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明治天皇聖躅・大阪紙砂糖製造所跡
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中之島バンクス
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蔵屋敷跡
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近代製紙業発祥の地
八百八橋とも呼ばれた水の都・大阪で川の旅
大阪八百八橋とも呼ばれた水の都・大阪で川の旅
まいどまいど! 滋賀県の琵琶湖を始点として大阪市内中心部を流れる淀川は、大阪市都島区の毛馬閘門で大川(旧淀川)に分流。 寝屋を始点に寝屋川市から流れてきた寝屋川と合流しながら、大阪市役所、中央公会堂、中之島図書館、日本銀行大阪支店などが集まる官公庁街のお膝元、中之島にて分流してまんねん。 中之島の北を堂島川、南を土佐堀川、中之島の西端で合流して安治川に。 後に木津川、尻無川と名称を変えながら大阪湾へと注ぎまんねやけど、その中間地点に位置する中之島は水の都の象徴として昔から注目を浴びてきてはんねやで。 かつての中之島は現在よりも小さな面積やったらしいでんねんけど、上流から多くの土砂が運び込まれるうちに東に延び、現在の形になったらしいですわ。 なんや、そない聞いたら、めっちゃ歴史、感じまんなぁ。 江戸時代の江戸の町は八百八町。 つまり、江戸に人が集まり、町が多いことをたとえた言葉やねんけど、浪花では八百八橋と呼ばれてましてですな、大坂には多くの川流れ、多くの橋が架けられたことから、たとえた言葉やそうで。 大阪の中心地・中之島を散策してみまひょ!
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1911年、岩本栄之助の寄付により建設した公会堂は大阪のシンボル。 日本銀行本店、浜寺公園駅、旧大阪市役所庁舎などを手掛けてきた辰野金吾・片岡安による作品。 施設内には、岩本氏の資料を集めた展示室や建設当時に使用されていた昇降機の電動機、レンガや基礎の紹介などを行っている。
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中之島オムライス
中央公会堂内にあるレストラン「中之島倶楽部」では、お食事を楽しむことができる。 なかでも、名物「オムライス」は好評で、昔ながらの味を堪能。 店内は、当時のガス燈が残され、大正浪漫を感じつつ、素敵なひと時をお過ごしください。
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岩本記念室・岩本栄之助
渡米実業団が発足、渋沢栄一氏、岩本栄之助らも参加。 米国の公共施設の立派さや富豪による慈善事業・寄付の習慣に強い印象を受け、父の遺産と私財をあわせた100万円を公共施設建設に寄付。 設計は、懸賞付き建築設計競技により岡田信一郎案が採用。 岡田氏の原案に基づいて辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。 1913年、着工。 1918年、開業。 記念室では、銅像、遺品などを展示。
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創建当初の昇降機の電動装置
1911年、株式仲買人だった岩本栄之助らの寄付により、旧中之島公会堂の建設案が出された。 設計は、岡田信一郎氏の原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。 1913年、地上3階、地下1階建として着工。 1918年、オープン。 各種の講演や会合などが開催。 2002年、国の重要文化財に指定。 ここでは、建設当時の面影を今に伝える。
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1872年、商業振興のための政府機関として、通商司大阪支署を設置した。 商業目的の通商会社と、それに資金を供給するための為替会社を設立した。 為替会社は通商会社以外の諸会社にも貸付けを行い、また為替札として金・銀券を発行した。 1877年、解散となる。
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毎年、ゴールデンウィーク中に開催される中之島祭り。 大阪府大阪市北区中之島一帯で開催され、メイン会場となる中の島中央公会堂を中心に多くの人でにぎわう。
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遊びの神様
中之島中央公会堂の玄関前をメイン会場に、遊びの神様が遊び神社にご降臨。 中之島の東端「剣先エリア」では、人力博物会があり、人力による「でんしゃでゴーランド」「ドラゴーランド」などがある。 そのほか、東洋陶磁美術館周辺では飲食店が並び、リバーサイドエリアでは、フリーマーケットが同時開催。 市役所周辺では、市民団体による出店が多く、40万人の来場者数を見込む。
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コロッケ男爵
庶民の間で親しまれ続けるコロッケがモデル。 いろんな商店街やスーパーマーケットに出没し、コロッケを試食、評価を行う。 中之島まつりのほか、大阪府のイベントに登場!
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FOOD SONIC 2019 in 中之島
2019年4月27日から5月6日まで中之島フードソニック特設スペースにてイベント「FOOD SONIC 2019 in 中之島」が開催。 出店店舗は、4月27日から5月1日までの前半と5月2日から6日までの後半にわかれた入替制。 敷地内にはレストラン検索・予約サイト「食べログ」協力で、点数が3.5以上という高評価の約70店舗が和食、洋食・中華、イタリアン、ラーメンなど様々なジャンルを問わず登場。
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淀屋橋南に建立された淀屋の屋敷跡碑。 時は江戸時代。 大坂の町に全国から多くの船が行き交い、商人のまち「天下の台所」として、にぎわっていた。 その中で、財を成していた当時の豪商・淀屋家は、材木商を営んでいた。 永代浜に雑喉場市場、堂島米会所(市場)を設立(大阪証券取引所の前身)し、世界で初めてとなる先物取引、為替の原型をつくる一方、私財で淀屋橋、常安橋を架橋。 現在もその名を残しつつ、市民の足として親しまれている。 国の重要文化財に指定。 また、大阪のシンボルストリートとして知られる御堂筋の一部に属し、季節になると、青々とした並木道が銀杏並木に生まれ変わる。
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中央公会堂とともに注目を浴びる近代建築物「中之島図書館」「旧日本銀行大阪支店」
モダニズム建築として注目を浴びる中之島図書館や旧日本銀行大阪支店を楽しむことができるのは、淀屋橋界隈。 明治時代から大正時代にかけての大阪は東洋のマンチェスター(煙の都)と呼ばれ、町中に工場の煙突が立っていた。 当時の勢いは、東京府東京市を超えて日本最大。 大大阪と呼ばれるまでに成長していた。 その時に流行したのが、ヨーロッパ建築を真似た建築デザイン。 現在も多くのファンが訪れ、記念撮影を楽しむ。
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栴檀木橋(せんだんのきはし)は、浪速の名橋50選に選定。 江戸時代、中之島と船場を結ぶ橋として架橋。
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西日本最大の政令指定都市の中枢・大阪市役所。 大阪市北区中之島のほぼ中心部に位置し、目の前には大阪府のメインストリートとして知られる御堂筋。 付近では年間を通じて様々なイベントが開催され、多くの人でにぎわっている。
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大阪府大阪市北区の大阪市庁舎地下2階にある飲食店。 2014年、フジオフードシステムが運営する「まいどおおきに食堂」のOSAKA市役所食堂として開店。 店内はテーブル席のみ、お弁当などテイクアウトも可能。
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食堂のカレーとサラダ
メニューはかけうどんや中華そば、サラダ、とんかつなど。 食堂のカレーとサラダ。
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1929年、河川浄化を目的に堂島川可動堰として建設された。 1982年、改装整備が行われた。 本体のアーチとその上の9つの小アーチの組み合わせ特徴。 橋の上には植栽やベンチが設置されている。 橋名の由来は、橋上の照明灯が水面に映り、その様子が水晶の輝きに似ているからだとか。 また、水の都としての大阪の繁昌を願ったなどの説がある。
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1904年、大阪図書館として開館し、大阪府立図書館に改称した。 1950年、天王寺分館を建てた。 1974年、大阪府立図書館は大阪府立中之島図書館に改称。 天王寺分館は大阪府立夕陽丘図書館に改称。 1996年、東大阪市に大阪府立中央図書館が開館したため、夕陽丘図書館は中央館に移転して閉館。 2004年、中之島図書館は図書館としての機能を中央図書館にまとめ、蔵書の一部を移転。 社会人に様々な情報を提供する「ビジネス支援サービス」を開始した。 また別館では、社会人向けにサテライト大学院を開講し、ビジネス学校化している。 1974年、本館と左右の両翼が共に国の重要文化財に指定された。
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静岡県出身で大正時代、大阪市長に就任した関一氏の像の背中には、東洋陶磁美術館が立つ。 ここには、高麗・朝鮮時代の朝鮮陶磁、中国陶磁を中心に、国宝、重要文化財を合わせて約4000点が収蔵されている。
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關 一大阪市長
1873年、静岡県伊豆で旧幕臣の小学校教員の家で生まれた。 高等商業学校(一橋大学)卒業、大蔵省に勤務。 大阪市助役となった。 1923年、第7代の大阪市長となる。 市営公園や公営住宅の整備、御堂筋の拡幅、地下鉄御堂筋線の建設、大阪城天守閣の再建、大阪商科大学(大阪市立大学)の開設など様々な都市政策を実行した。
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大阪銀行集会所・大阪銀行協会跡
1878年、大阪の有力銀行が集まって、毎月1度、協議会を開いた。 会合の内容は、銀行業務の改善や進歩、一般経済の発展など。 常設の集会所「銀行苦楽部」を開設し、「大阪同盟銀行集会所」と呼ばれるようになった。 解散後、「大阪銀行集会所」を新設、財団法人組織に改組された。 1945年、解散した後、「社団法人大阪銀行協会」を新設した。
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中之島公園内に位置する図書館。 2020年、一級建築士の安藤忠雄氏より大阪市に寄贈された文化施設。 安藤は大病を患い、療養期間中に読書の時間を得たことで、子どもが本と触れあえる場所を作ることに着想。 蔵書は市民から寄贈された本も含め、約2万冊。 蔵書の貸し出しは行っていないが、館内および公園内全てが閲覧スペース。
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青リンゴ
青リンゴ 建築家・安藤忠雄氏によるオブジェ。 モチーフは米国の詩人、サムエル・ウルマンの詩「青春」で、「若さとは、年齢でなく心の持ちようだ」というメッセージから。 「挑戦心にあふれる青春のシンボルとして多くの人に触れてほしい」との願いが込められている。
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木村重成は、豊臣秀頼とともに軍議にも参加。 大坂冬の陣・今福の戦いで、木村重成は後藤又兵衛らとともに佐竹義宣らを押し返した。 して、佐竹勢が大和川対岸にいる上杉勢に援軍を求めた。 杉景勝、堀尾忠晴・榊原康勝らによって、豊臣方を退陣に追い込んだ。 大坂夏の陣では、長宗我部盛親とともに出陣し、若江に陣を展開。
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東側の大川を土佐堀川と堂島側をわける尖った島の部分は「剣先」と呼ばれ、「剣先公園」となっている。 1891年に、開園。 バラの庭の園内には89品種、約4000株のバラが咲く。 野外音楽堂、東洋陶磁美術館、テニスコート、中央公会堂、府立中之島図書館、中之島緑道が設置されている。 また、自転車道である「北大阪サイクルライン」が中之島公園内を通っている。
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自由亭跡
草野丈吉氏によって日本初の西洋料理店「良林亭」を長崎県長崎市にて開業。 自遊亭へと改称後、自由亭へと改称。 大阪市西区にて川口波止場の開港と同時に川口居留地の計画があった。 欧風亭ホテルを開業。 規模の拡大により、大阪市北区中之島に移転、自由亭ホテルと改称。 洋式と和式の二棟からなる大型ホテル。 木戸孝允、岩倉具視、三條実美、ロシア皇太子らからも好評を得た。
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おしゃれな店内の雰囲気で楽しみながら、都会のランチを楽しんでみてはいかがでしょうか。
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中之島界隈の景色を楽しむ
水辺の座席に座ると、都会らしい景色。
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オムレツカレーライス
ビアガーデンで楽しめるメニューは、ランチ(サラダ・スープ・フリードリンク付き)の場合、 ロースカツカレーライス、ナポリタンスパゲティ、明太子スパゲティ、ジンジャーポークプレート、チキン南蛮プレート、ロコモコボウル、キッズプレート。 ディナー、コースでは、ジンギスカン鍋、サムギョプサルなど、豊富に楽しめる。
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え?なにこれ!?と思わず目を引くような橋がある。 それが、難波(なにわ)橋。 まるでシンガポールのマーライオンのような勇敢な姿は、ライオンそのもの。 もともとは天王寺動物園で飼育されていたライオンを模したデザインで、当時はまだ珍しかったことから、設置されるようになったとか。 704年、行基によって架けられた。 天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称された。 フランスのパリを流れるセーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考にして製作されたとか。 海外の雰囲気漂う中之島界隈。 実はこの他にも、ヨーロッパから世界に広まったモダニズム建築が数多く残っている。
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天保期当時のにぎわいを描かれている。 年代は、1830年から1843年ころ。 江戸時代、大阪は水運の利便性の高さから商工業都市として発展した。 全国から年貢米や特産物が集まり、各地へと運ばれた。 「天下の台所」とも呼ばれ、栄えていた。 全国から堂島・中之島付近に多くの蔵屋敷が建ち並ぶようになった。 蔵屋敷とは、諸藩が年貢米や特産物を管理・販売した施設のこと。 1872年、払い下げの時点で、蔵屋敷の数は135にも及んでいたとか。
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この建物は、近代建築として知られ、1903年に国立銀行(ベルギー)をモデルに建設された。 設計は、辰野金吾らによるもの。 周辺には、島原藩大阪内屋敷や五代友厚の別邸があったと言う。 見学する場合は、予約が必要である。
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大阪郵便役所跡
1871年、郵便制度開始と同時に国内3ヶ所に設けられた郵便役所の一つである。 1939年、吉田鉄郎氏の設計により、大阪中央郵便局が完成した。
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高さ200m、39階建のフェスティバルタワー。 世界スカイラインランキングに日本最大として堂々とランクインした梅田・中之島界隈の高層ビル密集地。 その一角で2012年、開業した。 かつては昭和時代より長らくフェスティバルホールとして親しまれてきたが、再開発により超高層ビルに生まれ変わった。 現在も低層部にはフェスティバルホールがあり、最上階には、レストラン。 13階のスカイロビーからは大阪平野を一望でき、遠くは淡路島と明石海峡大橋。 夜は夜景として楽しむことができる。 将来的にはツインタワーとする予定で、現在は、第一期のみ。
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赤色の絨毯がお客様をお出迎え。
フェスティバルタワー1階では、赤色の絨毯がお客様をお出迎え。 なだらかな階段を目の前に、その上をそっと歩いていく。 豪華な絨毯はふわふわで、日ごろ体験することのできない現実がここにある。 またフェスティバルホールは多くの有名芸能人に親しまれてきた施設の一つで、サイン色紙が飾られている。
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土佐堀川に架かる橋。 1931年、橋長55.1m、幅員10.6mとして架けられた。 1985年、改装の際、名称が変更された。 橋上は、橋のギャラリーとなった。 大阪の橋をテーマとした江戸末期から明治初期に画かれた錦絵を展示している。
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大阪市北区にある都市計画道路中之島歩行者専用道。 通称、中之島遊歩道(なかのしまゆうほどう)と呼ばれる歩行者専用道路。 別名、プロムナードとも呼ばれている。
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吉原治良所有の明治時代の土蔵を改修した展示施設「グタイピナコテカ」が開業。 「ピナコテカ」とは、絵画館や画廊を意味する言葉。 「具体」の活動に関わったフランス人美術批評家のミシェル・タピエが命名した。 展示場は、美術展、個展、小品展などを定期的に開催する傍ら、フォンタナやカポグロッシ、サム・フランシスら海外作家の展覧会も開催。 ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ、イサム・ノグチなどの美術家や、音楽家のジョン・ケージ、美術批評家のクレメント・グリーンバーグなど、海外の著名な美術関係者も来場した。
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京阪電気鉄道中之島線の4駅すべてに、カナダ杉が約1万平方メートル使用されている。 これが縁で、大阪に住むカナダ人らで構成されている団体「関西カナダビジネスアソシエーション」が両国の友好の証しとして寄贈したと言う。 記念碑は、カナダ産の砂岩4個を人型に積み上げてあると言う。 高さは、2.5m、幅2mで、重さは、5.5トン。 「イヌクシュク」と呼ばれ、本来はイヌイットが、道しるべとして使ってきたという。
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渡辺橋・肥後橋
渡辺橋は、浪速の名橋50選に選定。 大阪市北区堂島と北区中之島を結ぶ橋で、四つ橋筋が通っている。 江戸時代に初めて架かったとされ、堂島開発の一環として架けられた5つの橋(大江橋、渡辺橋、田蓑橋、堀江橋、船津橋)のうちの1つである。 渡辺橋の名称は、古代大阪の渡辺津から。 大阪市西区土佐堀と大阪市北区中之島に架かる肥後橋。 江戸時代、橋の北詰の中之島に肥後熊本藩の旧蔵屋敷に由来。
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Mデリ&バーガーが販売している新名物のバーガーである。 松坂牛の専門店が素材からこだわったと言う美味しさが人気です。 その名も「中之島バーガー」。
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玉江橋は、浪速の名橋50選に選定。 1690年、堂島川に本格的な架橋が始まり、堀江橋として架橋。 後に、堀江川が開削され、玉江橋に改名。 江戸時代、この橋の南詰めに薬師堂があり、橋の上からは、四天王寺などが見えたという。
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テーマは「宇宙とエネルギー」。 大阪市立科学館とその前身の電気博物館は、日本で初めての科学館として開館したと同時に、初めてプラネタリウムを導入した。 施設内では、日本で初めてとなる本格的な化学研究所で、オランダの化学者ハラタマ氏が教師を務めた舎密局の貴重な資料も展示している。 舎密局の舎密(せいみ)は化学を意味する「Chemie」から。 かつて大阪城の西に位置していた(現在は跡地で石碑のみが建立)が、後に京都大学に統合。 また、最近では、東洋で初めてのロボット「學天則」を復元、展示したことでも注目を浴びた。 學天則は、空気圧の変化を動力に腕を動かしたり、表情を変えることができるとか。
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「こんにちは こんにちは 西の国から」という歌詞で知られる「世界の国からこんにちは」は1970年に開催された大阪万博(日本万国博覧会)のテーマソング。 現在もそびえたつ太陽の塔がシンボルの万博記念公園(大阪府吹田市)に位置していたが、建物の老朽化を理由に現在地に移転。 第二次世界大戦以後の国内外の現代美術が中心である。 主な展示は地下にあり、展示室、レストランなどは地下1階から3階にかけて。 ポール・セザンヌ、パブロ・ピカソ、マックス・エルンスト、藤田嗣治、国吉康雄らの作品も。
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大阪市北区中之島にある中之島公園の一部。 花の散歩道は遊歩道として整備され、堂島川沿いに位置する。 「花の散歩道」という名前の由来は2004年5月に開催された国際ロータリー年次大会の成功を記念したことから。 夜間になると堂島川沿い、玉江橋がライトアップされ、幻想的な世界へと誘う。
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学校法人関西大倉学園が運営する私立中学校・高等学校の関西大倉中学校・高等学校(大阪府茨木市室山2丁目)の前身にあたる大阪大倉商業学校が大倉喜八郎によって当地で開校。 大倉喜八郎は実業家で教育事業家、貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業の経営に携わった。 1902年、大阪市北区堂島で関西商工学校が開校(翌年、大阪市北区大淀南2丁目に移転)。 1907年、大阪市北区中之島で大倉喜八郎によって大阪大倉商業学校が開校。 1948年、関西商工学校は学制改革により、新制関西実業高等学校に。 また、関西実業高等学校は大阪大倉商業学校と合併、関西大倉高等学校(大阪市北区大淀南2丁目)に。
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大阪市から茨木市へ
1963年、大阪府茨木市室山2丁目に移転。 旧敷地は、1966年から2008年まで朝日放送の社屋(ABC放送)として使用。 1994年、関西大倉中学校が開校。 かつて、男子校であったが中学校では1997年以降、高等学校では2000年以降、共学。 その他、創設者の大倉喜八郎は私財を投じて東京経済大学(東京都国分寺市)と善隣インターネット高等学校(韓国・ソウル特別市)を創立。
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官立(国立)としては1873年、文部省により大阪医学校跡地(大阪市中央区法円坂)に大阪師範学校を設立。 1878年、財政難により廃止、大阪府に移管。 府立としては1873年、真宗大谷派難波別院(南御堂)内の集成学校に「講習所」を開設。 1874年、教員伝習所を設立。 1875年、大阪府師範学校に改称。 1877年、西南の役により、難波別院が征伐総督府にあてられたため、興正寺別院に移転。 現在地の旧久留米藩邸に校舎を建設。 1878年、官立大阪師範学校跡地に移転。 1881年、堺県が大阪府に統合、大阪府師範学校を府立大阪師範学校、堺県師範学校を府立堺師範学校と改称。
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堺や奈良とともに
1886年、堺師範学校と奈良師範学校が廃止、大阪師範学校と吉野師範学校に統合されるも吉野師範学校が大阪師範学校に統合。 師範学校令の施行により、大阪府尋常師範学校と改称。 女学科が独立し、大阪府女学校(大阪府立大手前高等学校の前身)となった。 1898年、師範教育令の施行により、大阪府師範学校と改称。 1900年、女子部が独立し大阪府女子師範学校に。 大阪府師範学校は男子校となった。
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1900年代
1901年、大阪市天王寺区南河堀町に移転。 1908年、大阪府池田師範学校を新設、大阪府天王寺師範学校と改称。 1943年、官立(国立)に移管、天王寺師範学校と女子師範学校は統合、大阪第一師範学校に。 1949年、新制大学「大阪学芸大学」が発足、学芸学部の母体として包括「大阪学芸大学大阪第一師範学校」となる。 1951年、大阪第一師範学校が廃止。
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「大阪国際会議場」や「グランキューブ大阪」とも呼ばれる。 建物の高さは、104.51mで地上13階、地下3階である。 メインホールでは、最大2754人の収容が可能である。 また、会議室やイベントホールが設けられている。 2000年に開業した。 これまで、世界観光機関総会やサミット財務相会議などの国際会議の会場となっている。 他にもコンサート、展示会などが開かれている。
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明治時代、実業家の真島襄一郎が大阪紙砂糖製造所を設立。 当時、紙と砂糖を製造。 1870年、大阪商人高木五兵衛(平野屋)の分家にあたる百武安兵衛は伊藤博文とともに米国の製紙工場を視察。 百武安兵衛は国内で洋紙製造を実現させようとイギリス製製紙機械を導入。 その間、経営不振となり、蓬莱社が製紙機械を引き取ることに。 1874年、蓬莱社は大阪府から融資を受け、製糖事業と製紙事業を設立。 工場にはイギリス人製紙技師を招き、経営は真島襄一郎が担当。 1876年、製紙業の経営は好調であったが、製糖業の経営は厳しさを増した。
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王子製紙
蓬莱社は経営不振となり、製紙業・製糖業のすべてを真島襄一郎に譲渡、蓬莱社は撤退。 真島襄一郎は大阪紙砂糖製造所に改名、事業を続行させるが1882年以降、経営者が頻繁に交代。 1877年、明治天皇が当地を行幸。 1882年、経営不振となり、樺太工業に事業を売却するも1932年に王子製紙となった。
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2010年、堂島川の左岸、玉江橋と堂島大橋の間に複合商業施設として開業。 デザインをテーマにしたミュージアムやカフェなどが営業する。 「バンクス(BANKS)」とは「土手、堤防、堆積」などという意味。 中之島は川に囲まれた中洲という地形で江戸時代には全国各地から物資が集まり取引が行われた天下の台所として栄えた。 これらかつての歴史に重ねあわせて、「中之島バンクス」と名付けられたという。
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江戸時代、諸藩は年貢米の換金や産物の販売を目的として、中之島界隈に蔵屋敷を建設した。 周辺には大川や堂島川、土佐堀川、安治川、木津川などが流れ、水運に適していたことから舟で搬入させ、管理していた。 舟が屋敷内に直接出入りできるよう蔵屋敷に水門が設けられていた。 当地は讃岐高松藩蔵屋敷が存在した。 1718年、江戸時代に活躍した学僧の慈雲尊者は当地で生まれた。 13歳の頃、大阪・法楽寺で得度し、修行研究を重ね、京都で伊藤東涯に儒学も学んだ。 代表作は、インドの原典を注釈した「梵学津梁」1000巻。
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かつて、この場所には、熊本藩の蔵屋敷が存在した。 1871年、洋紙を製造する機械が英国で販売されていた。 これを大阪の商人として知られる平野屋五兵衛氏が購入した。 1875年、日本で初めてとなる洋紙が製造された。 大阪の商人や高知出身の政治家・後藤象二郎氏らによって「蓬莱社」を設立した。 戦後、工場が移転し、今では、石碑だけが当時を物語っている。