
いにしえの文化漂う播磨を探検
兵庫いにしえの文化漂う播磨を探検
まいどまいど! 兵庫県の東南部に位置する加古郡の播磨町っちゅうことで、電車ではJR西日本山陽本線土山駅または山陽電車本線の播磨町駅が便利。 いにしえの文化漂う播磨町界隈では、大中遺跡やその遺跡に隣接する形で開館した兵庫県立考古博物館が名所。 特に大中遺跡は現在、大中遺跡公園として整備され、園内には弥生時代から古墳時代にかけて形成されたとされ、当時の生活を復元した竪穴住居も見学することができまんねん。 考古博物館は参加体験型博物館として知られ、地階では様々な遺物が収蔵された収蔵庫の見学、地上階では、大中遺跡など兵庫県内で調査、発掘された研究結果が展示されてまっせ。 ・・・兵庫県では遺跡の数は全国1位なんやとか。 ほんでそれに隣接して播磨町立郷土資料館も開館。 別府鉄道? なにやら鉄道ファン必見の名所も。 ほんでまた、兵庫県では新聞の父と呼ばれるジョセフ・ヒコさんの出身地。 日本初の新聞を発刊。 月刊「海外新聞」は、半紙約5枚を仮綴したもので、手書き後に活版印刷を用い、2年間で26号まで発行したことでも知られてまんねん。 これは、いっぺん、行ってみる価値がありまんな。
播磨町のマスコットキャラクターとして活躍する「いせきくん」と「やよいちゃん」。 大中遺跡の弥生時代の子どもたちを思い描き、名を大中遺跡からいせきくん、弥生時代からやよいちゃんと命名。 いせきくん、やよいちゃんは、古代でも、夢があって楽しく生活している様子を、見る人に語りかけるように描かれている。 背景には大中遺跡の住居、ペットのトカゲも描かれ、大中遺跡がより身近に感じるように、また古い時代からみんながなかよく生きていることを表しているという。
いせきくんとやよいちゃん
播磨町のマスコットキャラクターとして活躍するいせきくんとやよいちゃんの後ろには、大人の男性と女性。 一家でしょうか。 こちらに笑顔で語り掛けるように、描かれている。
1837年、彦太郎(ジョセフ彦)氏は兵庫県加古郡播磨町生まれ。 1850年、江戸から船で兵庫県加古郡播磨町に帰る途中、暴風雨に遭遇し、50日余り太平洋を漂流、米国商船に救われ、渡米した。 税関長サンダースによって米国教育を受け、カトリックの洗礼を受けた。 クリスチャンネーム「ジョセフ」を受け、ジョセフ彦と名乗り、米国籍を得た。 1859年、米国領事館の通訳として、ハリスとともに開国直後の日本に着任。 一旦、米国に帰国後、再来日し、日本初の新聞を発刊。 月刊「海外新聞」は、半紙約5枚を仮綴したもので、手書き後に活版印刷を用い、2年間で26号まで発行。 1897年まで、新生日本の発展に尽くした。
公園内には大型複合遊具、健康遊具、バーベキュースペースも。 またはりまシーサイドドームが併設され、テニスやフットサル、グラウンドゴルフができる多目的ドームがある。
1700年代、鎖国状態の日本に対し通商を求める露国(ソビエト連邦共和国)や米国など欧米諸国の異国船の出現が頻繁になり、幕末の世論が「攘夷か開国か」で沸騰するなか、幕府は海岸に大砲を備えるなどして防備を厳重にした。 1825年、外国船打払令を出して、あくまでも鎖国を守ろうとした。 1850年、幕府の命により姫路藩も家島、室津に砲台を築いた。 1863年、飾磨、福泊(的形)、高砂、古宮に砲台場を築いた。 当地は姫路藩の東端に位置し、大阪湾を経て姫路領沿海に近づこうとする異国船を発見すれば大砲で威嚇する一方、姫路城に急を知らせるために設置されたもので、三門の大砲を備え、藩士によりこれを守らせた。
オダイバ
この砲台場に異国船が近づいて、砲撃したという記録はない。 1854年、露国の使節プチャーチンが天保山沖(大阪湾)に現れ、下田港へ向けて出航したが、その間に代官中村五右衛門が兵を率いて当地で警備にあたった。 ここは砲台場であることから「オダイバ」と呼ばれていた。
1837年、彦太郎(ジョセフ彦)氏は兵庫県加古郡播磨町生まれ。 1850年、江戸から船で兵庫県加古郡播磨町に帰る途中、暴風雨に遭遇し、50日余り太平洋を漂流、米国商船に救われ、渡米した。 税関長サンダースによって米国教育を受け、カトリックの洗礼を受けた。 クリスチャンネーム「ジョセフ」を受け、ジョセフ彦と名乗り、米国籍を得た。 1859年、米国領事館の通訳として、ハリスとともに開国直後の日本に着任。 一旦、米国に帰国後、再来日し、日本初の新聞を発刊。 月刊「海外新聞」は、半紙約5枚を仮綴したもので、手書き後に活版印刷を用い、2年間で26号まで発行。 1897年まで、新生日本の発展に尽くした。
「元祖カレー風味うどん」という看板が目立つ鄙星 ひなぼし。 昭和時代にタイムスリップしたような外観、そして、店先には井戸が置かれている。 店内に入ると、趣のある落ち着いた雰囲気が漂い、カウンター席と座敷がある。 座敷では囲炉裏のような雰囲気、そして、店内のBGMは小さなお子様から楽しめる童謡が流れていた。 定食メニューは、あっさりうどん定食、きつねうどん定食、ハイカラうどん定食など。 単品メニューは、あっさりうどん、きつねうどん、ハイカラ(天かす)うどんの他、こぶうどん、きざみうどん、わかめうどん、いなか鍋うどん、ざるうどん、かやくごはん、親子丼、他人丼、ライスカレー、味付け海苔などがある。
元祖カレー風味うどん
今回は店先の看板にも書かれていた和風カレースープのような味わいが特徴の「元祖カレー風味うどん」で、単品と定食で定食を選んだ。 定食の場合、元祖カレー風味うどんとごはん、生卵などがあり、カレー風味の深い味わいと昔ながらの出汁のしみ込んだうどんを楽しんだ。
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毎週金曜日から日曜日までの3日間のみ営業している精肉専門店。 マツオカフーズが運営し、加古川市のブランドである「志方牛(加古川和牛)」を中心に取り扱う。
肉の新鮮市場
国産和牛すじ煮込みをはじめ、国産鶏肉からあげ、功庵のミンチカツなどが人気。
JR西日本山陽本線の停車駅の一つである土山駅。 1888年、兵庫県明石市と加古川市、播磨町の境界上に開業以来、地域の駅として親しまれている。 また、付近には、弥生時代から古墳時代にかけて形成されたとされる遺跡「大中遺跡」があり、その雰囲気を想像させるような高見櫓が土山駅前に設置されている。 実際、この櫓は時計台になっていて、一時間に一度だけ音楽が流れ、櫓の中の人形が櫓の中を回転する仕組みとなっている。
土山線とはかつて、兵庫県加古川市の別府港駅から兵庫県加古郡播磨町の土山駅を結んでいた別府鉄道の鉄道路線。 1923年、別府港と新土山(現在の土山)を結ぶ路線が開業。 1984年、別府港にある多木製肥所(現在の多木化学)で製造された化学肥料や製鉄化学工業(現在の住友精化)の製品を輸送、旅客輸送していたが廃線。 路線距離は4.1km。 駅は別府港駅、中野駅、川崎車輛工場前信号所、土山駅。
大和リーズが手掛ける商業施設「BiVi土山」。 スーパーマーケットや薬局、書店、美容室、飲食店が入居する。 駐車場、駐輪場完備。
総菜・弁当を販売する専門店。 テイクアウトも可能。 おかずが選択でき、お好みの弁当に。
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1923年の開業から1984年の廃線まで走っていた幻の別府鉄道土山線。 別府鉄道土山線は、現在の土山駅と別府港駅までの約4.1kmを結んでいた。 現在、廃線跡は、「であいのみち」として整備され、歩行者や自転車が往来する道へと生まれ変わった。
野添北公園には、遊具が設置され、休憩スペースもあるため、地域の憩いの場として親しまれている。 また、付近の円満寺は平安時代、弘法大師によって開基と伝わる。 弘法大師空海が修行のため、全国を行脚。 途中、播磨の国に立ち寄り、阿閇の里の路傍に奇瑞を感じた。 その地を錫杖で突くと光明遍照と光り輝く岩が出現、この地を信仰の拠点と定めた。 後に播磨の元・ 中本山 光明遍照山無量寿院が建立。 巌光山円満寺は無量寿院の元塔頭寺院。
2007年、遺跡数が全国1位である兵庫県の考古学の拠点として開設された。 埋蔵文化財調査部では、遺跡の発掘調査、研究と展示方法などの人材育成を行っているとか。 大中遺跡公園に隣接した参加体験型博物館として知られ、地階では様々な遺物が収蔵された収蔵庫の見学、地上階では、大中遺跡など兵庫県内で調査、発掘された研究結果が展示されている。 シンボルマークは山田崇雄のデザイン。 上下に伸びる手をイメージしており、それぞれの手が未来を掴み過去を探るという意味を持っているとか。
ほったん
ナウマンゾウがモチーフ。 名前の由来は、博物館の仕事である遺跡の発掘(掘る)。 誕生日は紀元前2万8000年頃。 好物は、玉子焼き(明石焼き)、かつめし、イイダコ。 友達は、水鳥と土犬。 特徴は、当施設がある大中遺跡にて復元された竪穴式住居を頭に被って、水鳥埴輪を乗せている。 また、尻尾は古代の組紐。 特技は、特徴である長い鼻で遺跡を掘り当てることができ、土器を復元することができる。
大中遺跡を中心に整備された播磨大中古代の村(大中遺跡公園)。 その一角に播磨町立郷土資料館があり、大中遺跡の出土品を保存し、展示しているほか、偉人で「新聞の父」といわれるジョセフ・ヒコや新井開削の父、今里傳兵衛を紹介、展示されている。 また、かつて、播磨町には、土山駅と別府港駅までの約4.1kmを別府鉄道が結び、廃線になった今、博物館の裏で当時、営業走行していた機関車と客車の展示と公開をしている。
ディーゼル機関車DC302号と客車ハフ5
現在は、一般道「であいのみち」として整備された場所にはかつて、別府鉄道土山線が営業走行していた。 別府鉄道土山線とは、1923年から1984年までの間、現在の土山駅と別府港駅までの約4.1kmを結んでいた機関車と客車である。 展示されているDC302は1953年、倉敷市交通局(現在の水島臨海鉄道)の機関車として川崎車輛で製造。 その後、別府鉄道に入線し、別府港の入換用として使用された。
先頭車の運転台
現在は、一般公開され、中を自由に見学することができる。 運転士の緊張感さながらに、先頭車からの景色を眺めてみよう。
後続の客車も一般公開
先頭車と連結された客車のハフ5 。 1930年、神中鉄道(相模鉄道の前身)のガソリンカー・キハ10として日本車両で製造された2軸車。 その後、客車ハ10となり、三重県の三岐鉄道に譲渡された。 1959年、別府鉄道に入線し、廃止。 長らく一般公開し、展示していたが、老朽化に伴い、劣化が激しかったため、リニューアル。 新しくなった客車の車窓から、かつての景色を眺めてみよう。