
豊臣家滅亡から400年…大阪城で太閤殿下を偲びましょうぞ!
大阪豊臣家滅亡から400年…大阪城で太閤殿下を偲びましょうぞ!
観光地としては今更って感じの大阪城ですけど。 こないだNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で竹中直人演じる豊臣秀吉が亡くなったので、いい機会かな? と。 最近では日本人よりも、なぜか中国や韓国、タイなどアジア系の観光客が圧倒的に幅を利かせております。 その大阪城、慶長20(1615)年の大阪夏の陣で豊臣家が滅亡してから、来2015年は400周年という節目の年。 しかも2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」は、まさにその大阪の陣で伝説と化した武将真田信繁が主人公。 来年から再来年にかけて再び熱い注目を集めること請け合いの大阪城を、一足早く巡ってみましょうぞ!
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天正11(1583)年、豊臣秀吉は天下統一の象徴として大阪城の建築に着手。 完成したのは約15年後で、その規模は現在の4~5倍という巨大なものだったそうです。 慶長20(1615)年、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した際、大阪城も丸焼けになってしまいます。 元和6(1620)年、徳川幕府は大阪城の再建に着手し、10年後に完成しました。 豊臣大阪城の上に大量の土を盛り、石垣を積み上げ、堀を掘り下げるなどして、全く別モンの城にしてしまいます。 世間は仇敵の徳川幕府が建てた大阪城を見て「さすが太閤殿下、豪壮な城を作ったものだ」と“錯覚”しているわけです。
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大手門
天守閣の西側にある大阪城公園の正面玄関。 大手前一帯は約5ヘクタールもの広さを誇ります。 黒松の並木が重要文化財の大手門へ続き、白壁の土塀が昔の面影を今に伝えています。 大手門は高麗門様式で重要文化財。 創建は寛永5(1628)年で嘉永元(1848)年に修復され、昭和31年(1956)に解体修理。 その際、天明3年の落雷では焼け残り、屋根のみ改修されていたことが判明しました。
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多門櫓(たもんやぐら)
多聞櫓は京橋口や玉造口などにもありましたが、全て焼失。 大阪城内に現存する多聞櫓は、ここの大手口だけです。 初代は寛永5(1628)年の創建で、天明3(1783)年に落雷で焼失。 嘉永元(1848)年に再建され、昭和31(1956)年に解体修理されました。 総面積600平方メートル余、高さ14.7メートル。 多聞櫓は各地の城にありますが、規模の大きさは大阪城が随一です。
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桜門
桜門は本丸の正門に当たります。 寛永3(1626)年、徳川幕府によって創建されました。 慶応4(1868)年に明治維新の大火で焼失。 明治20(1887)年に陸軍が再建し、今に至ってます。 内堀にかかる橋を渡るのですが、左右は両側とも空堀です。 ここは豊臣時代から空堀で、大阪の陣で徳川方が水を抜いたわけもなく。 その後、寛永元(1624)年に徳川幕府が大坂城を再築した際も空堀にしたそうです。
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枡形の蛸石と振袖石
桜門を入ると内側に「枡形」と呼ばれる一角があります。 本丸の正面入口を護るため、巨大な石垣で四角く囲んだスペース。 寛永元(1624)年、備前岡山藩主の池田忠雄(ただかつ)が手がけたもの。 真ん中の石は「蛸石」と呼ばれる城内第一位の巨石。 その左側は「振袖石」という巨石で、こちらは城内第三位。 戦争で損傷していた枡型は戦後、原型に忠実な形に加工された瀬戸内産の花崗岩に置き換えられ、修復されました。
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「大日本帝国」の亡霊か? 歴史的な建築遺産か?
枡形を過ぎると目の前に現れるのは旧大阪市立博物館。 昭和6(1931)年、旧陸軍第四師団司令部庁舎として建設されました。 戦後は大阪府警本部庁舎、大阪市立博物館などを経て、現在は空き家。 旧市立博物館は展示内容を大阪の地域文化に特化し、当時としては珍しかった地域博物館として大きな役割を果たしました。 その後は取り壊されるわけでもなく、ある意味“放ったらかし”です。
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現在の天守閣は“三代目”
旧市立博物館の前を通り過ぎると、いよいよ大阪城天守閣のお目見えです。 現在立っている天守閣は三代目で、初代は天正13(1585)年に豊臣秀吉が建立。 戦後の学術調査によると太閤天守は今より東側、現在配水池のある場所に立っていたことが判明しています。 二代目は寛永3(1626)年に徳川幕府が現在の場所に建立。 寛文5(1665)年に落雷を受けて焼失し、その後は長らく再建されることはありませんでした。
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初代は豊臣、二代目は徳川、そして三代目は…大阪市民!
三代目は昭和6(1931)年、大阪市長の呼びかけに市民からの寄付が殺到、僅か半年で目標額150万円に達したそうです。 もちろんモデルは二代目ではなく初代の豊臣大阪城。 ですが資料が残っておらず、デザインには苦労したとか。 恒久的建造物にするため当時の最新建築工法だった鉄骨鉄筋コンクリート造りを採用。 今でこそ超高層ビルは珍しくありませんが、当時の地上55mは空前絶後の超高層建築だったそうです。
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「鉄筋コンクリート製で天守閣の形をした郷土博物館」の原型は大阪城だった!
こうして完成した天守閣は近代建築による初の復興天守閣。 しかも開城当初から内部は郷土歴史博物館として利用されています。 平成9(1997)年、鉄筋コンクリート製の復興天守閣にもかかわらず国の登録有形文化財に指定されました。 コンクリ製博物館というコンセプトは戦後、日本中にポコポコ建てられた復興・復元天守閣のモデルにもなっています。 その意味では文化財としての価値は十二分に備えているように思えます。
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「残念石」とは何が残念なの!?
天守閣入口の横に巨石が2つ据えられています。 元和6(1620)年の大坂城改修で小豆島から多数の用材石が運ばれました。 ところが加工されたものの使われなかった巨石が島中いたるところに放置され、「残念石」と呼ばれているそう。 この両石は筑前福岡藩黒田長政と豊前小倉藩細川忠興、それぞれの石切場で発見されたもの。 昭和56(1981)年に大阪と小豆島の両青年会議所が共同で企画し、ここに安置したそうです。
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大阪人の徳川ギライは家康だけでなく慶喜にも責任の一端があるのかも?
幕末、大坂城で戊辰戦争を指揮していた徳川十四代将軍家茂が病で急逝し、その後を一橋慶喜が継ぎます。 慶喜は歴代徳川将軍の中で初めて大坂で即位した征夷大将軍なのです。 ところが大阪市民の口から慶喜に対する愛着の言葉など耳にしたことはありません。 鳥羽・伏見の戦いの敗報に接するや城を抜け出し“逃亡”。 大阪人の徳川嫌いは豊臣家を滅した家康だけでなく、大坂を戊辰戦争に巻き込んだ慶喜にも責任がありそうです。
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城郭の片隅にヒッソリと佇む石碑「秀頼・淀殿ら自刃の地」
ドラマ「軍師官兵衛」で二階堂ふみが妖艶(?)に演じている淀殿。 大坂夏の陣で天守閣が炎上し、淀殿と秀頼の母子は徳川軍に包囲され万事休す。 潜んでいた櫓の中で共に自害したと伝えられています。 その事実を後世に伝えるべく、大阪市が平成9(1997)年に碑を建立。 天守閣の真北にある「刻印石広場」の片隅に、ひっそりと立っています。
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他の城に比べて規模が桁違いにデカい大阪城の石垣は、大名たちの競争心の賜物です!
徳川幕府は西国と北陸の諸大名64家に石垣の構築を命じ、石高に応じて分担する長さを割り当てました。 諸大名は組み分けされ、「丁場」という担当区域ごとに出来栄えを競わされ、その優劣に連帯責任と個別責任を負わされました。 このため諸大名は自ら担当した丁場を誇示するかのように、積み上げる石に家紋などの刻印を丁寧に彫り込みました。 こうして幕府は諸大名の競争心を煽り、高度に洗練された石垣を構築したのですね。
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噴水を左手に折れると、そこにはコンサートやイベントでおなじみの「大阪城ホール」。 道を挟んだ向かい側には野球場と太陽の広場。 この一帯は1983年に大阪21世紀計画の幕開けイベント「大阪築城400年まつり」のメインイベント会場として整備されました。 それまでは終戦まで存在した「大阪砲兵工廠」の跡地として長らく放置されていました。
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「砲兵工廠跡」の石碑と「歴史的建造物」への認識
野球場の入口に「砲兵工廠跡」と刻まれた石碑が立っています。 大阪砲兵工廠は明治3(1870)年創設の官営兵器製造工場。 日清、日露、第一次世界大戦と戦争を経るごとに規模が拡大。 明治時代末期に敷地は大阪城東側全域に広がっていました。 最盛期には従業員数も6万人強まで膨れ上がり、アジアでも最大規模の軍需工場だったのです。
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西の丸庭園は豊臣秀吉の正室北政所(きたのまんどころ)の屋敷があった場所とされています。 昭和40(1965)年、総面積約6万4千平方mの芝生庭園として開園しました。 春ともなるとソメイヨシノなど300本ものサクラが咲きまくる、大阪でも随一の花見の名所でございます。
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大阪迎賓館
西の丸庭園の北端にある鉄骨2階建ての和風建築、現在は休憩所になってます。。 1995年のAPEC大阪会議で非公式首脳会議のために新築されたもの。 モデルは京都の二条城二の丸御殿白書院。 内部は格子天井になっていて、二条城の内部造作を再現しているそうです。
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茶室「豊芳庵」
迎賓館の東側には昭和44(1969)年に松下幸之助氏から寄贈された茶室「豊松庵」があるそうです。
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本丸の南側に豊臣秀吉を祀った豊国(ほうこく)神社が鎮座しています。 ちなみに京都の豊国神社は「とよくにじんじゃ」と読みます。 こちらの京都が本社で、大阪は別院として最初は明治12(1879)年に中之島にて建立。 その後、独立した神社となり昭和36(1961)年に現在地へ遷座。 主祭神は秀吉公ですが秀頼公と秀長卿も合わせて祀られています。 一の鳥居と二の鳥居の間には豊臣秀吉像が陣羽織姿のキリッとした出で立ちで聳立。 秀吉像は中之島時代から存在しましたが、昭和18(1943)年に金属供出令により滅失。 現在の像は平成19(2007)年に完成した二代目で、彫刻家の中村晋也氏の手によるものです。
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幸村桜
秀吉像から一の鳥居へ向かう途中、林の中に「信州上田 幸村桜」と書かれた小さな看板を発見。 幸村とは無論、真田幸村のこと。 史実上の名は、真田信繁。 大坂の陣で徳川家康相手に激闘を繰り広げた武将です。 平成18(2006)年10月、大阪城は幸村が取り持つ縁で真田の御城である信州上田城と友好城郭提携を締結。 その後、上田市の有志からオオヤマザクラが奉納され、ここに花を咲かせているという次第です。
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宮本茶屋
境内を出ると一の鳥居の横に「宮本茶屋」という売店があります。 大きな神社仏閣の門前によくある茶店です。 メニューは豊富で焼そば、お好み焼き、たこ焼き、フランクフルト、回転焼きなどを販売してます。 ちなみに回転焼きは関東だと「大判焼き」と呼ばれてます。 店の前に設えられた露天のテーブルで、大勢の観光客が休息してます。
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森ノ宮駅から大阪環状線外回りの電車に乗り、次の玉造駅にて下車。 徒歩10分ぐらいのところに「真田山公園」があります。 ここは真田幸村が本丸を築いた「真田丸」のあった場所。 2016年NHK大河ドラマのタイトルは、ここが由来になってます。 2014年は大阪冬の陣、2015年は大阪夏の陣から、それぞれ400年という節目。 ここで2014年から2015年にかけて「真田幸村博」が開催されます。 さらにNHK大河ドラマへとつながり、大阪から全国へ没後400年を迎える真田幸村のブームが発信されるに違いありません。
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スポット内ではありませんが…真田山公園から遥か南、堺市の南宗寺には何故か徳川家康の墓があります
『南宗寺史』には「家康が大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れ駕籠で逃げる途中、後藤又兵衛の槍に突かれた。辛くも堺まで落ち延びたが、駕籠を開けてみると既に事切れており、遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」と記されているそうです。 後藤又兵衛は黒田官兵衛の家臣で、大河ドラマでは塚本高史が演じております。 又兵衛は官兵衛の死後、諸事情あって黒田家を出奔。 大阪夏の陣で真田幸村の元に馳せ参じました。
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青屋門から内堀に沿って歩いていると、堀が途切れるあたりに巨大な石碑が立っています。 「蓮如上人碑」 かつてこの地に石山本願寺が存在したことの証です。 天文元(1532)年、京都の山科から移ってきた本願寺は大坂の地を一大宗教都市に仕立て上げました。 しかし法主顕如と織田信長の間に対立が深まり、元亀元(1570)年から11年間に亘って「石山合戦」を繰り広げることに。 天正8(1580)年、両者は朝廷の仲裁で和議に至りますが、本願寺は石山からの退去を余儀なくされます。 天正11(1583)年、その本願寺と寺内町の跡地に豊臣秀吉は大阪城を築きました。 その際、石山本願寺の遺構は地中に埋められました。
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蓮如上人袈裟懸の松
石山本願寺の遺構は未だ確認されていないそうです。 石碑の前に小さな木の根っこが、コンクリートブロックに囲まれてヒッソリ保存されています。 大阪の繁華は太閤殿下の築城に端を発するように思われがちですが、それより前に本願寺の門前町として繁栄していた“下地”があったことは忘れられています。 この「蓮如上人袈裟懸の松」と伝わる木の根っ子だけが、石山本願寺が存在した唯一の証拠と言えるかも知れません。
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