勝竜寺城下町・長岡京をめぐる
京都勝竜寺城下町・長岡京をめぐる
まいどまいど! 京都の長岡京市といえばかつての日本の中心地「長岡京」としても有名で隣接する向日市や京都市と同様、長岡京当時の遺構やそれに関連する歴史が各地に点在してはります。 駅前には長岡京発見の地と題した石碑が建立され、長岡京の詳細が刻まれておます。 駅から少し歩いた場所には勝竜寺城跡を中心とする公園が整備され、自由に見学することができますねん。 緑豊かな園内には池があり、鯉が優雅に泳ぐそのそばには博物館。 特に2階は城や長岡京に関する歴史が展示されておます。 その他、周辺には遺跡や古墳が点在し、歴史にロマンを感じることができまっせ。 小畑川と犬川に挟まれた低位段丘上に立地する旧石器時代から江戸時代にかけての複合遺跡・神足遺跡。 弥生時代には環濠があり、内側には多数の竪穴建物や高床倉庫が立ち並んでいたとか。 遺物には石鏃、石剣などの磨製石器が見られ、集落内には石器の工房があったとも。 隣接する神足神社には陸上選手やサッカー選手など多くのスポーツ選手が参拝に訪れるとも。 馬の池公園にはかつて湧き水と三角の形をした小さな池があった。 小倉神社の祭りの際、稚児を乗せる馬を清めたとも。
中山修一氏らによる長岡宮朝堂院南門の発掘調査から数えて、2000回(宮跡477回、右京990回、左京535回)を迎えた。 2010年、遷都の日に「長岡京発見之地」の石碑を建立。 石碑に刻まれたマス目のラインは「長岡京」の条坊制を、中心に真っすぐ伸びるラインは、「長岡京」の朱雀大路と長岡京市名産の竹を表現。
行政サービスコーナー、市民活動サポートセンター、オープンラウンジ カフェ エポカなどで構成。
その他いろいろ
その他、市民ギャラリーや観光情報センター、メインホール、特別展示室などがある。
山一パン総本店が運営する総菜パンの製造・販売の専門店。 1947年、山本東造氏によって創業。 1955年、設立。
総菜パン
山一パン総本店が運営する総菜パン。
総菜パン
山一パン総本店が運営する総菜パン。
西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の停車駅の一つ。 1931年、日本国有鉄道東海道本線の向日町駅と山崎駅間に神足駅として開業。 1945年、連合国の戦闘機が機銃掃射、日本輸送機などが被害に。 1987年、国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。 駅前広場には蒸気機関車D51と初代新幹線0系の車輪それぞれ1組が展示、保存されている。
神足遺跡は小畑川と犬川に挟まれた低位段丘上に立地する旧石器時代から江戸時代にかけての複合遺跡。 弥生時代、環濠があり、内側には多数の竪穴建物や高床倉庫が立ち並んでいたとか。 外側には方形周溝墓群や土壙墓が密集する墓域も形成。 また遺物には石鏃、石剣などの磨製石器が見られ、集落内には石器の工房があったとも。
神足神社境内にある勝竜寺城の土塁跡と空堀跡。 勝龍寺城は南北朝時代から江戸時代にかけて存在した。 土塁は城へと攻めてくる敵兵を迎え撃つために整備された。 別名、横矢掛かりの虎口。 土塁に架かる橋は土橋のみで、幅は約1m。
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祭神は、産土神、舎人親王。 社名「神足」は「神の足」と表記されるため、陸上選手やサッカー選手など多くのスポーツ選手が参拝に訪れるとも。 800年頃、桓武天皇は夢の中で、田村(神足村の前身)の池に神が降臨し、宮中を南方から襲撃しようとした悪霊を防いだところを目撃。 それが縁で、田村に社を建てた。
公園として整備された市民の憩いの場。 かつて当地には勝竜寺城が存在した。 城名は勝龍寺に由来。 勝龍寺城は小畑川と犬川の合流地点に位置し、西国街道と久我畷が交差する交通の要衝で、京都では山崎城につぐ防衛拠点であった。 1339年、南朝方に対抗する北朝方の細川頼春が築城。 一説によると山城守護畠山義就が郡代役所として築城。 1470年、軍事施設して使用された。 淀古城と共に松永久秀、三好三人衆の属城となった。 観音寺城の戦いで勝利した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛する前に柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ら4人の家臣に先陣を命じ、桂川を渡河し三好三人衆の岩成友通が守る勝龍寺城を攻撃させた。
三好三人衆
岩成友通は足軽衆を中心に応戦し、織田軍は馬廻り衆を乗り入れ、戦いを有利に進め、上洛を果たした信長の陣所の東福寺へ届けた。 信長は全軍に出陣を命じて勝龍寺城の攻略に向かった。 三好三人衆は織田方の軍を前に降伏・開城。 信長は芥川山城、越水城、高屋城を攻城、降伏させ、三人衆を阿波に追放。 1571年、細川藤孝は勝龍寺城主となった。
本能寺の変
藤孝の嫡男・細川忠興、明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)は勝龍寺城で挙式。 村井貞勝の与力として矢部家定、猪子高就の両名が城主となり、二人は細川の旧領の検地を行った。 1582年、本能寺の変の際、明智光秀方が占拠し拠点とした。 山崎の戦いで光秀は敗走、勝龍寺城に帰城するも、追撃を受けて北門から脱出するも死去。 明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城。 1649年、直清が摂津高槻藩に転封され、廃城。
平安時代 、空海(弘法大師)によって開基。 元の寺号は恵解山青龍寺。 観音堂を始め九十九坊が建てられたとも。 大干ばつ大飢饉の年、住職千観上人の祈祷で雨が降り、龍神に勝ったという意味から「勝龍寺」と改名。 付近に築城された勝龍寺城の由来ともなった。
勝龍寺城は1339年、南北朝時代後醍醐天皇を擁する南朝方は、男山八幡宮まで進出し、京を窺う情勢であった。 北朝方の足利尊氏は細川頼春(細川氏遠祖)とその弟師氏に命じて、京を守るために前戦基地として勝龍寺に土塁を持って周囲を囲む城塞を築いた。 784年、宇波多川(小畑川)は向日市から東流し、京都府伏見区で合流。 その河道を西南に移動して勝龍寺域の外堀の役目を果たしながら、大山崎町で桂川に合流させる河川工事を担当したのが弟の細川師氏。 1571年、織田信長の許可を得て細川藤孝(幽斎)は鉄砲戦術に対抗するため総構を拡張。 大手門、搦手を構築。 大手門に架かる橋を大門橋と呼んだ。
考古学者、歴史地理学者として活躍した。 1915年、生まれ。 長岡京の調査・研究等に携わったことから「長岡京発見の父」とも。 長岡京跡発掘調査研究所所長、京都文教短期大学名誉教授などを歴任。
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主力商品「ザ・プレミアム・モルツ」や「スタイルフリー」などを製造するサントリーのビール工場。 工場見学(無料・事前予約制)では、製造工程見学を通じて、天然水にまでこだわるビールづくりや、おいしさの秘密を学ぶことができる。 見学後は試飲もできる。
京丹波牛で有名な「いづつや」のローストビーフと黒毛和牛のステーキ、「シゲクニ」の焼き豚丼、日替わり定食などを味わうことができる。 竹をモチーフにした部屋や掘りごたつのある和洋室、リゾート風の洋室、女性専用のシングルルームなど。
調子八角は西国街道と丹波街道の分岐点にあたる。 愛宕詣へと向かうための道案内として作られた。 道標には西国街道を「あたご道」、丹波街道を「たんば道」と表記。
西国街道を「あたご道」、丹波街道を「たんば道」と表記
愛宕信仰は京都の愛宕神社を火伏せの神として崇拝するもの。
公園内には地下水100%の水道水供給施設やため池がある。 ため池はかつての馬ノ池を再現したもの。 馬の銅像は長岡京市の友好都市である中国の寧波市から寄贈された。 中国の諺で「馬到成功」とあり、名馬が来ると必ず事業が成功を収めるとされる縁起もの。
地下水100%の水道水供給施設。 かつて当地に湧き水と三角の形をした小さな池があった。 一説によると小倉神社の祭りの際、稚児を乗せる馬を清めたとも。
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硲遺跡は小泉川左岸の扇状地から段丘上に立地する弥生時代の集落遺跡。 発掘調査により、竪穴住居や土坑、溝などが発見された。 土坑群の一つから、日本独自に発展した鐘のように音を鳴らす青銅器の銅鐸形土製品、骨や木の棒の舌形土製品が発見された。 当時は祭祀に使用されたとも。
長岡京市を中心とする情報発信や観光案内、特産物販売、レンタサイクル等などを行っている。
1582年、本能寺の変を知った羽柴(豊臣)秀吉が、約200km離れた備中高松城から大軍を率いて10日で踏破し、明智光秀を打ち破ったことに由来。 その間、当地で水を飲んだとも。