黒田官兵衛、福沢諭吉、鱧、そして唐揚げ…中津は歴史と美味の街!
大分黒田官兵衛、福沢諭吉、鱧、そして唐揚げ…中津は歴史と美味の街!
大分県と福岡県の県境にある海沿いの町、中津。 2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の舞台の一つとなりました。 その黒田“如水”官兵衛が開き、後を受けた細川“三斎”忠興が築き、奥平家が150年にわたって治めた町。 シンボル中津城に登れば、黒田官兵衛が描いた天下統一への夢が見えるよう。 また、中津は蘭学と医学の町でもあります。 市内には医学の史料館が2つもあり、日本の近代医学が花開いてゆく過程が学べます。 そして中津といえば(?)福沢諭吉。 彼自身は中津に思い入れがあったどうか知りませんが、中津側は熱烈ラブコール! 少年時代を過ごした旧居が保存され、隣には業績を一望できる記念館が立ってます。 さらに中津の名物料理といえば鱧(はも)と唐揚げ。 戦国ロマンと維新の息吹に触れ、ご当地グルメを味わう…そんなプランを作ってみました。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」のせいか黒田家の城という印象が強い中津城。 ですが実質的には享保2(1717)年から明治維新まで中津を治めた奥平家の城です。 現在の天守閣は昭和39(1964)年に建設された模擬天守で、内部は奥平家に関する歴史資料館。 奥平家が勃興する契機となった「長篠合戦図」や、家康から贈られた「白鳥鞘の鑓」、そして「歴代藩主の甲冑」といった宝物が展示公開されてます。
天守閣からの眺望
豊臣と徳川の争いに乗じて九州を制覇した黒田官兵衛。 拠点としたのが、ここ中津城でした。 その後は折あらば天下人に…という野望を抱いていたのですが。 なにせ期待していた関ヶ原の戦いが1日で終わっちゃったわけで。 しかも徳川家康から筑前52万石を与えられた息子の長政は福岡城を築城。 黒田家は中津を後に引っ越して行ったのでした。 天守閣から中津の街を眺めていると、官兵衛の無念が感じとれる気がします。
三斎池
黒田家の後に中津へ来たのは細川忠興でした。 小倉城を居城にしていた忠興は元和6(1620)年に家督を息子の忠利に譲って隠居。 忠興は三斎と号し、翌7年に再び中津城へ。 黒田家の後を引き継ぎ、中津城や城下町の整備を進めました。 その際、場内に水を引く大工事を行いました。 その水を溜めて鑑賞用や防火用水用に利用したのが、この『三斎池』。 忠興の号『三斎』の名を冠して命名されたそうです。
奥平神社
天守閣の前に鎮座する奥平神社。 享保2(1717)年から明治維新まで155年にわたって中津を治めた奥平家を祀った神社です。 本丸跡への入り口にも鳥居が立っていて、城跡という雰囲気が薄いのは残念。 奥平家は長篠の合戦で名を上げた一族で、籠城中に食料がなくなり「たにし」などを食べて戦い続けたことにちなみ、毎年5月21日ごろ「たにし祭」を催行しています。
y字の石垣
黒田如水は中津城を築城途中で福岡へ引っ越していきました。 その後やって来た細川三斎が中津の城郭と城下町を本格的に整備したのです。 城郭北側の石垣は黒田時代と細川時代にクッキリ分かれています。 中央のy字部分から右側が黒田家、左側が細川家の築いた石垣です。
中津といえば福沢諭吉! 郷土の英雄を讃える施設です。 少年時代を過ごした旧居と偉業の数々が誇示された記念館の二棟で構成。 ちなみに銅像が庭に記念館内と二カ所も立ってます。 いかにも中津市が明治時代の英雄史的な観点から作った施設…それが全体の印象。 でも慶大の年譜に「家風が中津の風に合わない」と記されてますから、中津側の片思い的な施設かも知れません。 旧居と記念館の前には大型観光バスが何台も入れる大型の駐車場。 たぶんツアー客と慶大関係者だけで運営費を余裕で賄える裕福な施設なのでしょう。 まさに中津で「独立」した「自尊」心の高い観光施設と言えそうです。
旧居は少年時代の諭吉が約15年間過ごした家
天保7(1836)年、諭吉が1歳6ヶ月の時に父が急逝したため、大坂の中津藩蔵屋敷から母子6人で藩地の中津へ帰って来ました。 父が大坂赴任前に住んでいた家は既になく、新たに引っ越した家が現在残されている福澤旧居です。 木造藁葺き平屋建てで間口二間半、奥行十五間。 諭吉は早くから学問を志し中津を出たので、ここには十数年しかいませんでした。
土蔵の2階が勉強部屋
諭吉自ら手直ししたという、庭に立つ土蔵。 1854年に長崎へ遊学する19歳ごろまで、米を搗いたり、2階の窓辺で勉強していたそう。 急な梯子段を上がると薄暗い屋根裏部屋で窓の明かりを頼りに勉学に勤しむ諭吉少年の像を拝むことができますよ。
福沢諭吉といえば…壱万円札!
というか「諭吉」といえば1万円を指す隠語にもなっている昨今。 記念館には通し番号「A000001B」という世にも貴重な壱万円札が展示されています。
中津駅の西側、城下町の風情を今に伝える諸町通り。 その中ほどにある中津市歴史民俗資料館の分館です。 村上医家の初代宗伯は寛永17(1640)年、この地に医院を開業しました。 その建物を元に、同家に伝わる数千点もの資料を展示しています。 見かけは小さいですが、内側は江戸から明治へと日本の医学がたどった軌跡を見渡せるほど茫洋とした史料館です。
建物そのものは江戸時代以来の古民家
内部には書物や医療器具などが所狭しと陳列されています。 村上医家七代目玄水は九州で初めて人体解剖を行い、その詳細を記した「解臓記」も展示されています。
高野長英を匿った蔵
幕末、シーボルト事件で追われる身となった高野長英を匿ったという蔵が裏庭に立っています。 普段は鍵がかかっているので、内部の見学は受付に申し込みます。
観光名所ではありませんが
史料館すぐ近くにある村上記念病院は、この村上家の病院です。 江戸時代から現代へと続く、まさに医療の「大河ドラマ」的存在です。
福沢諭吉先生の銅像が聳立する中津駅北口から伸びる広い道路を北進し、細い水路を超えて左折したところにあります。 代々中津藩の御典医を務めた大江家の屋敷を史料館にしたもので、現在の建屋が出来たのは幕末の1860年。 明治時代に待合室や診察室を設ける改築が施されていますが、御典医屋敷の面影を残す貴重な建物です。 1985(昭和60)年に市文化財に指定され、半解体工事を経て平成16年7月に村上医家史料館に次ぐ第2の医家史料館としてオープンしました。
「解体新書」初版本
館内には主に中津と医学・蘭学との関わり、前野良沢をはじめ中津出身の医学・蘭学の先人の偉業などが展示されています。 歴史の教科書にも登場する「解体新書」をはじめ、世界初の全身麻酔による乳がんの摘出手術に成功した華岡青洲、種痘の治療で活躍した中津藩の医師辛島正庵、心臓拍動の謎を解明した「心臓ペースメーカーの父」田原淳博士などの関連資料が展示されています。
医は仁ならざるの術 務めて仁をなさんと欲す
大江家第五代雲沢が残した家訓で「医療は無条件に善なのではなく、医者次第で善にも悪にもなるから、医者は常に謙虚に患者のために尽くすべきである」という意味です。 その雲沢は自宅敷地内に薬草園を造り、育てた薬草を用いて薬湯療法を行ったそう。 それに因んで裏庭に薬草園を設け、珍しい薬草を通年で見ることができます。
鱧(はも)料理といえば夏の京都の風物詩。 小骨が多い鱧に無数の包丁を皮一枚残して入れる「骨切り」という独特の技術は特に有名です。 こうした鱧料理、実は中津が発祥の地なのです。 市内には高級料亭から弁当屋まで、鱧料理を売りにする料理店が数多くあります。 その中から割烹「瑠璃京」をピックアップ。 中津駅北口から日ノ出町アーケード商店街を抜けて仲町通りの中ほどにあります。 鱧懐石や鱧御膳などの高額料理から、鱧しゅうまいや鱧めんなどリーズナブルな料理まで揃ってます。
中津に鱧を持ち込んだ細川忠興
忠興は慶長9(1604)年に今井浦(現・福岡県行橋市今井)から腕利きの漁師たちを強制的に中津小祝へ移住させました。 結果、他の地方では食されない鱧が中津では盛んに食べられるようになったそう。 料理人たちの手で新しい鱧料理が次々と開発され、その技術は西日本に広がっていきました。 例えば粭島(山口県周南市)の漁師の間では「はも漁、はもの骨ぎりの開祖は、豊前中津小祝の漁師たち」と伝わっていたそうです。
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中津駅北口を出ると左手に「日ノ出町商店街」と描かれた看板が見えます。 日本中どこでも見かける寂れた駅前シャッター商店街…に見えますが。 最近なにかとマスコミを騒がせているファンキー加藤と深い関係にあるとか。 実は彼が主演している現在公開中の映画『サブイボマスク』は、ここ日ノ出町商店街がロケ地なのです! にしても何故ここが映画の舞台に選ばれたのか? その理由は右のリンクからどうぞ!
映画で体感する中津の町
映画の公開にぶつけた話題作りとしか思えない此度のファンキー加藤の騒動。 しかも「アモーレ」が流行語大賞候補になってる(?)と噂の平愛梨も出演しています。 ただ、それに比べて映画のほうはあまり話題になってないのが残念! 上映館に限りがあるので劇場で見られない人も多いでしょうけど。 DVD化された暁には是非、この作品で中津の町を疑似体験してみてください。