
山崎古戦場・天王山の戦い跡
京都山崎古戦場・天王山の戦い跡
まいどまいど! 本能寺の変を受け、摂津国と山城国の境に位置する一帯で、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉の軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した天王山の戦い。 現在では山崎古戦場として知られ、市内各地に史跡が点在する。 羽柴軍は前夜に中川・高山ら摂津衆が山崎の集落を占拠し最前線に着陣、池田恒興らが右翼に、黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らが天王山山裾の旧西国街道に沿って布陣し、秀吉の本陣は宝積寺に置かれた。 明智軍は斎藤利三、阿閉貞征(貞秀)、河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取った。 光秀は勝龍寺城を脱出して居城坂本城を目指して落ち延びるが殺害された。 山崎合戦古戦場のPRを目的に自動販売機が設置された。 山崎合戦古戦場は羽柴秀吉と明智光秀が対決した場所として知られ、石碑も建立。
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1582年、本能寺の変を受け、摂津国と山城国の境に位置する一帯で、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉の軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した。 別名、天王山の戦い。 羽柴秀吉は高松城に篭る毛利軍を包囲し、守将・清水宗治の申し出を受諾し、近日中に高松城は宗治の自刃によって開城されるはずであったが、本能寺の変の報を入手し、毛利軍との和議を結ぶ。 いわゆる「中国大返し」で畿内へ急いだ。 両軍円明寺川(小泉川)を挟んで対陣する。
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山崎古戦場跡
羽柴軍は前夜に中川・高山ら摂津衆が山崎の集落を占拠し最前線に着陣、池田恒興らが右翼に、黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らが天王山山裾の旧西国街道に沿って布陣し、秀吉の本陣は宝積寺に置かれた。 明智軍は斎藤利三、阿閉貞征(貞秀)、河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取った。 光秀は勝龍寺城を脱出して居城坂本城を目指して落ち延びるが殺害された。
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山崎合戦古戦場のPRを目的に自動販売機
山崎合戦古戦場のPRを目的に自動販売機が設置された。 山崎合戦古戦場は羽柴秀吉と明智光秀が対決した場所として知られ、石碑も建立。 自動販売機には秀吉や光秀のキャラクターが描かれ、町商工会が大河ドラマの舞台になった地として企画した。 QRコードを読み込むと、14種類のイラスト画像のダウンロード申請画面が表示される。
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かつての大山崎集落は離宮八幡宮の神領であった。 1400年代、集落の東と西の端にそれぞれ黒門が設置され、東の黒門・上の黒門と、西の黒門・下の黒門と呼んだ。 門は夜になると用心のため閉めていた。 また魔よけの石とされる石敢当があり、高槻屋さんの子供が夭逝するので、子供の無事を祈って、贔屓の力士、太孝山が建てたとも。 石敢当は中国地方から九州、沖縄にかけて分布しているが、京都府には三つのみ。 悪鬼、邪気は曲がり角を曲がれず石敢当に当たって死ぬとも。
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久我畷は平安時代に作られた鳥羽離宮と西国街道を直結する直線道であった。 当初、京道(山崎道)と呼んでいた。 久我畷と西国街道の分岐点があり、幅が約10m。 現在は約4mに縮小されている。
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京都府地域力再生プロジェクト及び京都市西京区地域力サポート事業として自然景観歴史的文化景観並びに生態景観からなる乙訓景観十景が選定。
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羽柴秀吉を相手とする「山崎の合戦」で明智光秀が本陣を置いたとされる「御坊塚」は境野古墳群のなかの境野1号墳と推定。 境野一号墳は、古墳時代の前方後円墳。 埋葬施設は不明。 発掘調査により車輪石・石釧などの石製品や鉄刀などが発見。 1582年、天下分け目の天王山「山崎合戦」の時、明智光秀の本陣が置かれた。 兵力は五千有余、古墳は標高約25mで、天王山や西国街道方向に視界がひらける。 火縄銃の鉄砲玉も出土し、両軍の激戦の様子も。