ブラタモリからの横浜の開港近代化歴史探索
神奈川ブラタモリからの横浜の開港近代化歴史探索
ブラタモリで横浜を取り上げていたので、横浜の歴史探索に行きたくなってしまいました。ブラタモリでのキーワードは「ハマ」。横浜っていう地名はそもそも横に長い浜があったから「横浜」になったそうで、(みなとみらいは当然でしょうが)今回の関内あたりは全部海の中で、山下公園のあたりから横に長い浜が伸びているってわけです。今の福岡の海の中道みたいなかんじだったんですね、知らなかった!
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1854年の日米和親条約締結の地がここと開港ひろばのあたりです。旧館は旧イギリス総領事館だった建物でもあります。この貴重な場所が、開港記念資料館として1981年6月2日の開港記念日に開館しました。
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開港広場に設置された条約締結の碑です。 後に不平等条約として問題となる日米和親条約(1854年)と日米通商修好条約(1858年)2つの条約のうち、最初に和親条約が締結されたのが、開港広場だそうです。黒船で有名なペリーが相手ですが、当初は貿易に踏み込めず、通称修好条約でそれが実現し、神奈川港が開港されます。
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開港記念館併設のカフェです。営業時間が9時30分からやっているので早い時間からの利用が穴場です。名前の通り「ペリーの庭」なので、そういう雰囲気で利用しましょう。
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ペリーやらハリスやらがやって来て日米通商修好条約で幕府は「神奈川」の港を開港しなければならなくなるわけですが、江戸の鼻の先の東海道の要所、神奈川の宿に外国人に住まれ大手を振って歩かれるのは非常に嫌なことで、そのために長崎の出島のような閉じ込めやすい場所を探していました。そのため選ばれたのがこの「横浜」だったのです。
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横浜は横に長い浜
当時の地図では外海と入海を隔てるように横に長い浜がありました。これをもって「横浜」と呼ばれていたのが現在350万人の人口を誇る巨大都市横浜のスタートです。
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吉田新田
横に長い浜に外国人居留地を作る前に、実はこの入海を埋め立てて、新田開発が行われており、開港前に既に80%の入海は埋め立て済だったと言われています。そんなこともあって「横に長い浜」の部分の埋め立て拡張という考えが出て来たのでしょう。
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外国人居留地
外国人を居留地に閉じ込めるためには長崎の出島のように橋で区切られた場所を用意するのが用意でした。そんなことからこの「横浜」の場所を陸から切り離して、埋め立てて広げるという方法がとられました。 そして、川に囲まれた居留地が出来上がり、吉田橋に関所が設けられ出入りを管理したということでした。この吉田橋の内側を「関内」そして外側を「関外」と呼んだことから「関内」の地名も残っています。
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駅改札下
改札の地下には関内と関外を分けていた派大岡川の石垣が残っているとのことです。一般公開はないそうですが。
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この場所がまさに関内と関外の境目の関所跡ということですね。最初は木造で作られたそうですがが、交通量が多かったことから、明治2年(1869年)にイギリスによる設計と鋼材で鉄製の橋になり、長崎のくろがね橋と並ぶ日本で最初の鉄橋だったそうです。
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京急の神奈川駅ですが、日本橋から数えて3つ目の宿場があったのがこの神奈川の宿です。ペリーやハリスがやってきて開港されるまではこちらの神奈川宿が横浜の中心地でした。
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神奈川宿
安藤広重の東海道五拾三次之内 神奈川『臺之景』 台町です。このように坂に旅籠が並び、海に帆船が浮かぶ様に象徴されますね。つまり神奈川のこの東海道より東は海だったわけですね。
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現代
かつての東海道は今はこんな具合ですが地形の関係でなんとなくわかりますね。
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江戸時代
神奈川の沖はこんな具合だったのですね。葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」です。
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神奈川宿に今もある唯一の料亭です。幕末の頃、1863年に、田中家の初代が「さくらや」を買い取り「田中家」が始まったそうで約150年の歴史があります。
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さくらや
坂の上から三軒目に「さくらや」という看板の文字が読めます。これが、現在の田中家の前身だそうです。
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現存唯一の料亭
かつて神奈川宿に1300軒あった料亭で、今は田中家一軒が残っています。
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料理
和会席のような料理がメインですが、葉山牛のすき焼きなどもあります。
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歴史
写真は全然違いますが、実際には米国総領事ハリス、伊藤博文、西郷隆盛、高杉晋作などが倒幕の計画を練った場所とも言われているそうです。
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おりょう
なんと坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬が死んだ後、ここの住み込みの仲居として勤めていたそうです。
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神奈川の駅前には「天空の寺」とも呼ぶべき三宝寺があり、ブラタモリでも取り上げられていました。丘の上とマンションをつなぎジャッキアップされてるみたいな寺ですね。 増上寺系のお寺で、嘆誉和尚(慶長2年1597年寂)が開山となり創建したそうです。 ブラタモリでは、幕末の脈絡無く面白い構造からのみ取り上げられていました。
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横浜開港時にはアメリカ領事館となっていたお寺です。 日米和親条約で下田、函館を開港。米国の最初の領事館は下田柿崎の玉泉寺でした。その後、日米通称修好条約で、江戸麻布山の善福寺に公使館が、横浜が開港され神奈川の本覺寺に領事館が作られました。東海道を守りたい、また東海道で攘夷はともめ事を起こしたくない、幕府の意向で横浜も神奈川の港だと強引な主張が行われたようです。 その後、横浜の外国人居留区ができ、中心地が横浜に移ることになり、実際1863年に公使館が置かれていた麻布善福寺火事により公使館は、横浜関内の外国人居留地に移転し、本覺寺の領事館も、一緒に横浜居留地に移っています。
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下田柿崎の玉泉寺
1856年8月21日、初代米国総領事としてタウンゼント・ハリス(Townsend Harris)が赴任し、下田柿崎の玉泉寺に臨時の領事館を開きました。
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麻布山の善福寺
1859年7月、ハリスは下田より江戸に入り、幕府より貸与された麻布の善福寺に公使館と住居を移します。
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関内地区は東海道と離れているため交通の便が良くないという問題がありました。そこで幕府やその後の明治政府は日本最初の鉄道をひくにあたって江戸から最も近い港であり交易の中心となっていた横浜の港までとすることとします。それが新橋ー桜木町間とされたのは、東海道からはなれ外国人居留区があった「横浜」がこの地域が中心になっていたことからですね。 駅のある側の丘と、公園側は実は地続きだったのですが、新橋ー桜木町間に作られる鉄道建設のために切り通され今の状態になっています。この公園からは切り通した様子がよくわかります。この土で横浜まで海を埋め立てて日本最初の鉄道を通したわけですね。明治5年に開通しています。
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お花見スポット
実は横浜では有数のお花見スポットの公園になっています。
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明治時代に東海道神奈川宿ではなく横浜地区が発展して行くと、関内や関外の地域の人口が急激に増え、水の確保が難しくなります。そんなことから相模川から遠路44キロ引いた水道を通したのがこの尻こすり坂を通った旧水道道路です。これは日本発の近代水道で、実は今も現役だそうです。
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関内、関外の水環境
横浜市の水道はわが国最初の近代水道として、明治20年(1887)10月17日に給水が開始されました。 戸数わずか87戸ほどの一寒村であった横浜の人口は日増しに増加し市街は急激に発展しました。 当時住民は水を求めて井戸を掘りましたが、横浜は海を埋め立てて拡張してきたので良質な水に恵まれず、ほとんどの井戸水は塩分を含み、飲み水には適しませんでした。
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サイフォン効果
取水値と利用地の高低差を利用したサイフォンの原理を使って水を運んでいます。出発点より高い地点を通って. 導くための原理がサイフォンの原理で、自然流下方式と言われます。 これを使っているので尻こすり坂のような所も通れるのです。
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横浜の水道は明治20年に給水が開始された日本初の近代水道です。戸数わずか87戸ほどの一寒村であった横浜の人口が急増したことでここが設備投資の対象となったようです。 当時住民は水を求めて井戸を掘りましたが、横浜は海を埋め立てて拡張してきたので良質な水に恵まれず、ほとんどの井戸水は塩分を含み、飲み水には適しませんでした。 英国人技師に依頼し、相模川の上流に水源を求めた形で明治18年に着手、明治20年に完成しました。 その水道の歴史を資料・映像展示等を行っている場所です。