
北大阪の台所・大阪府中央卸売市場があるまちで
大阪北大阪の台所・大阪府中央卸売市場があるまちで
まいどまいど! 大阪府民の台所として知られる大阪府中央卸売市場は大阪府茨木市におまして、大阪府大阪市福島区にある大阪市中央卸売市場と並ぶ市場として知られてまんねん。 市場内外には新鮮な食材を使用した飲食店が点在し、美味しい料理を楽しむことができまっせ。 さて、京都府と山口県とを結ぶ西国街道は茨木市内を通り、古くから交通の要衝として栄えてきた歴史がおます。 茨木市内におます旧宿場町「郡山宿(椿の本陣)」では、本陣跡を見学できるだけでなく、周辺には古い町並みが残っておまして、静かな雰囲気の中、まるでタイムスリップしたかのような感覚に。 奈良時代、奈良・平城京と九州を結ぶ山陽道(太宰府道)として利用されてきたが、平安時代には京都・平安京から九州に通じる道と発展。 江戸時代、江戸幕府によって整備された西国街道の3番目の宿場に指定。 その他、白井河原合戦跡や古墳が点在。 西日本旅客鉄道(JR)東海道本線、阪急電車京都線が東西に走り抜け、駅名ともなっておます総持寺もおすすめ。 古の時代が今に残る茨木市郊外もぜひ散策を。
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中央卸売市場。 通称、北部市場。 1970年、大阪府吹田市で日本万国博覧会(通称、大阪万博)が開催された。 1978年、大阪万博以降、大阪府茨木市を中心とする北大阪地域での人口増加に伴い、開設された。 大阪府食品衛生検査所、大阪府中央卸売市場付設加工食品卸売場が併設されている。 野菜、果実、生鮮水産物、冷凍水産物、加工水産物などを扱っている。 付設加工食品卸売場は、大阪府中央卸売市場と同時に開設された。 愛称は、大阪・茨木こだわり食材市場。
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藤原山蔭の父・藤原高房は、漁師が大亀を捕獲しているところを発見。 「今日18日は観音様の縁日だから」と、大亀を買い取って逃がしてやった。 その日の夜、藤原山蔭は、継母の計略で船から川に落とされてしまった。 父の高房は悲しみ、観音様に祈った。 すると、高房が助けた大亀が、山蔭を甲羅に乗せて現れたという。 879年、高房の没後、山蔭が報恩のために創建した。
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別名、疣水神社とも呼ばれている。 祭神は、磯良大神。 かつて、新屋坐天照御魂神社の境内社として建立された。 1669年、新屋神社が遷座し、現在に至る。
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疣を取るのに神験あり
境内には、井保桜、疣水がある。 1927年、井保桜は天然記念物に指定された。 当時は、一重の桜が八重のように見える桜の大樹として人気を集めていた。 古くから、疣水は諸病平癒に霊験あらたかな神水「疣を取るのに神験あり」として信仰を集めてきた。
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西福井、宿久庄、西河原のそれぞれに鎮座する。 西河原に鎮座する新屋坐天照御魂神社について記述する。 別名、新屋神社とも呼ばれている。 主祭神は、天照国照彦火明命。 建立当時、広大な神域(敷地)を持っていたが、兵乱や太閤検地により縮小。 当初の鎮座地は総持寺付近との説もある。 1669年、磯良神社(疣水神社)に鎮座していたが、現在地に遷座した。
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別名、「三嶋藍野陵」と呼ばれている。 陵名「三島藍野陵」の「藍」は、三島が島上郡と島下郡に分かれる以前の広範囲の地名である。 付近には地名「安威(あい)」があり、安威川が流れている。 古墳時代、築造。 墳丘長は約226m、濠幅は約33m。 発掘調査により、埴輪、須恵器片などが出土している。 太田茶臼山古墳は、継体天皇陵としているが、一説によると、高槻市の今城塚古墳が本来の継体天皇陵とされている。
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祭神は、天照皇大神、速素盞鳴尊、豊受皇大神。 創建時期など詳細は不明となっている。
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江戸時代、京都の羅城門(東寺口)から下関の赤間関まで続く街道の一つとして整備された。 別名、近世山陽道、西国路、中国街道、中国路、山陽路などとも呼ばれている。 江戸幕府は、道幅二間半(約4.5m)と定め、幕府巡視使の巡視を契機とした。 1635年、参勤交代制の確立のためにも重要な街道となった。
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古い街並み
街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う問屋場、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。 茨木市では、郡山宿が指定された。 現在も当時の面影を物語る古い街並みが残っている。
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別名、苗森神社とも呼ばれている。 創建時期など詳細は不明となっている。 藤原鎌足の勧請で創建されたと伝えられている。 中臣藍氏がその祖神を祀ったもの。
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耳原公園は、耳原大池と、日本庭園により構成されている。 園内には、滝2か所、芝生広場、多目的広場などが設けられている。 中央付近には梅や桜が植樹されており、見ごろになると多くの花見客でにぎわう。 自然環境に恵まれており、野鳥やフナやコイなどが生息している。 また、付近には、耳原古墳がある。 封土の中央に、南向きの立派な横穴式の石室があり、三島地方最大の巨石古墳として知られている。 径約23m、高さ約8m。
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西福井、宿久庄、西河原のそれぞれに鎮座する。 西福井に鎮座する新屋坐天照御魂神社について記述する。 主祭神は、天照皇御魂大神、天照国照天彦火明大神。 別名、福井神社、新屋神社と呼ばれている。 崇神天皇の御代、神が当地に降臨し、伊香色雄命に勅して祀らせたのに始まるという。 後に、天照皇大神と称して皇女五百野媛に祀らせた。 神功皇后の三韓出兵の際、当地の川原で禊をして当社を祀り、凱戦後に当社祭神の幸魂と荒魂を西の川上(宿久庄)と東の川下(西河原)に分祀したという。 付近には、約30基の円墳からなる新屋古墳群がある。 1527年、兵乱により衰退したが、領主中川清秀によって再興。
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3社あるうちの西福井に鎮座する「新屋坐天照御魂神社」の裏山には、約30基の円墳が点在している。 500年から600年頃にかけて、古墳が築造された。
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1542年、大阪府茨木市生まれ。 摂津国の池田勝正に仕え、後に織田信長に仕えた。 1572年、荒木村重と共に白井河原の戦いが勃発。 織田方の和田惟政を討ち取り、茨木城の城主となった。 信長が村重を摂津の国主に据え、清秀もそれに従った。 1578年、村重が信長に対して有岡城の戦いが勃発。
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1568年、猪名寺の戦いが勃発。 茨木重朝・伊丹親興連合軍と池田勝正軍の戦い。 1569年、織田信長が足利義昭を擁立して上洛、摂津に入国。 1571年、池田氏の一家臣であった荒木村重が、摂津国内で勢力を拡大するために起こした戦いとなり、茨木・和田連合軍は幣久良山に陣取り、荒木・中川連合軍は馬塚に陣取った。 荒木村重が戦勝し、茨木城、郡山城、高槻城へと攻め込む。
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中河原は、佐保川と勝尾寺川が合流する白井河原から西、勝尾寺川南沿いに集落が形成されている。 東西には江戸時代から続く「西国街道」がある。 奈良時代、奈良・平城京と九州を結ぶ山陽道(太宰府道)として利用されてきたが、平安時代には京都・平安京から九州に通じる道と発展した。 一方、日本最古の本格的な首都として知られる大阪市中央区の難波宮から長柄、吹田の渡し、宇野辺を経て山陽道に通じる三嶋路と、丹波の亀山(亀岡市)から清坂峠を越え、忍頂寺、大岩から福井を結ぶ清坂越道の2本の南北道の結節点となった。 1571年、白井河原の戦いが勃発。 この戦いで活躍した中川清秀が生まれた由緒地としても知られている。
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旧宿場町「郡山宿(椿の本陣)」の本陣。 かつて、御成門脇に咲く椿が有名であったと言う。 江戸時代、江戸幕府によって整備された西国街道の3番目の宿場に指定された。 奈良時代、奈良・平城京と九州を結ぶ山陽道(太宰府道)として利用されてきたが、平安時代には京都・平安京から九州に通じる道と発展した。 古来より、郡山駅宿として郡山宿は栄えていた事もあり、西国大名等の参勤交代等に度々、利用されてきた。 浅野長矩、脇坂安照、当時の皇太子(のちの明治天皇)らが滞在、宿泊している。
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西国街道
江戸時代、京都の羅城門(東寺口)から下関の赤間関まで続く街道の一つとして整備。 別名、近世山陽道、西国路、中国街道、中国路、山陽路などとも呼ばれている。 江戸幕府は、道幅二間半(約4.5m)と定め、幕府巡視使の巡視を契機とした。 1635年、参勤交代制の重要な街道となり、宿場を指定。 人馬の継立を行う問屋場、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備。
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美肌効果や疲労回復などがテーマ。 源泉温泉や天然温泉、炭酸温泉、冷水風呂、電気風呂などがある。 韓国式岩盤浴は全部で8種類。 温熱スツールや足浴などもあり、遠赤外線サウナも楽しむことができる。
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