尼崎・大物界隈で見る義経と弁慶
兵庫尼崎・大物界隈で見る義経と弁慶
まいどまいど! かつて源義経と弁慶が滞在していたという伝説の残る大物主神社。 ここは「尼の生醤油」の発祥地としても知られ、信仰を集めてはんねんやとか。 付近の大物川緑地ではぎょうさんの緑に囲まれている一方、蒸気機関車SLのD51が保存され、鉄道ファン必見の場所ともなってまんねん。 また、謡曲「船弁慶」のゆかりの地として知られ、源義経と静御前の別れの場として登場するとか。 その他、戦国時代に勃発した「大物くずれの戦跡」は別名、天王寺の戦い、天王寺崩れともいわれ、石碑や説明板がかつての戦いを偲ばせる。 さてそんな歴史と史跡を巡りつつ、訪れたのは杭瀬駅界隈。 ここは兵庫県と大阪府の境目に位置し、ぎょうさんの人が行き交ってはりまんねん。 この杭瀬の駅前には市場・商店街があり、飲食店をはじめ、居酒屋や雑貨店が所狭しと立ち並び、いつの時間もにぎわってまんねん。 尼崎の下町・杭瀬・大物を街歩きしてみまへんか。 ほな、まいどおおきに!
創建時期など詳細は不明。 別名、大物社、大物若宮、若宮社、若宮弁財天、若宮八幡。 当時点在した三角州の一つに祀りの場として大物主の社が建立。 創建者は、大物主の子孫・大田田根子のさらに子孫となる鴨部祝。 平安時代、安芸守であった平清盛が厳島神社の祭神を勧請合祀。 当社に近く、海上交通の要所かつ難所であった大物浦の安全を祈念したとか。 その後、源頼朝から追討された義経が大物浦より船出する際、当社東側にあった七軒長屋に一時滞在している。 また、平安時代に生まれ、太平洋戦争後に途絶えたとされ、復活した「尼の生醤油」の発祥地として知られている。
昭和時代、九州や山口県で貨物列車として活躍していた蒸気機関車D51が展示されている公園。 春になると、桜が満開を迎え花見客でにぎわうとか。 また、謡曲「船弁慶」のゆかりの地として知られ、源義経と静御前の別れの場として登場する。 毎年8月には野外能舞台で「尼崎薪能」が開かれる。
蒸気機関車D51
1936年、初期型として製造。 主に貨物輸送を目的に作られたもの。
1900年、「尼崎紡績会社(現在のユニチカ)」の本社事務所として建設。 設計は日本人によるもの。 赤煉瓦はイギリスからの輸入品であるとか。 また、尼崎市は、兵庫県の一部として知られているが、市外局番は大阪市と同じ「06」を使用、通話料金も大阪府扱い。 ただし、西日本電信電話の事業区域では兵庫県扱い。 この理由は、尼崎市も大阪市内と同じ通話料金で利用できるようにとの配慮で、日本電信電話公社に、工事費の一部として電信電話債券を引き受け、大阪市と同じ市外局番になった。 また、大阪市までしか通っていなかった電話を「どうしても尼崎まで通してほしい」とユニチカは、自費で電話線をひいたとか。
別名、天王寺の戦い、天王寺崩れ。 1531年、戦が勃発。 桂川原の戦いで赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を破った。 近江に逃れた管領細川高国は、伊賀、伊勢、備中、出雲を巡り、備前守護代の浦上村宗が要請に応じた。 1530年、播磨統一を成し遂げ、高国の宿願を果たすため、摂津へ侵攻、池田久宗(信正)が守備する池田城を陥落、京都を警護していた晴元派の木沢長政が撤退、将軍地蔵山城の高国の兵が京に侵攻、京を奪回。 堺公方側は、三好元長を総大将に阿波から堺に上陸した細川持隆の援軍が摂津中嶋に陣取った細川・浦上連合軍を攻撃(中嶋の戦い)一進一退の攻防が続く。
赤松軍と三好軍
神呪寺にいた赤松政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃、勝敗が決した。 赤松軍が中嶋の高国陣営を奇襲、三好軍が攻撃を仕掛け、村宗とその宿老島村貴則を始め、侍所所司代松田元陸・伊丹国扶・薬師寺国盛・波々伯部兵庫助・瓦林日向守ら主だった部将が戦死。
大物崩れ
参戦した赤松政祐には細川・浦上連合軍の背後(西宮方面)から、続いて正面(天王寺方面)の三好軍からも攻撃され打撃。 結果、膠着状態から戦局が崩れて、高国の滅亡に。 そこから「大物崩れ」と呼ばれるようになった。 高国は戦場を離脱。 仇敵晴元の命によって高国は尼崎広徳寺で自害。
軟式野球場や多目的広場などがある総合公園。 2025年、プロ野球・阪神タイガース二軍は兵庫県西宮市内にある阪神鳴尾浜球場の老朽化に伴い、本拠地球場及び練習場が移転。
長州藩士山本文之助の眠る墓。 1864年、文之助は禁門の変(蛤御門の変)に従軍するも、薩摩・会津の軍勢によって長州藩が敗北。 京都からの敗走途中、大物の城下町北の口門で尼崎藩に捕らえられ、取調中に自決。 墓は尼崎藩が建てたが、当時の「長州びいき」の流行から大坂からの参詣人が押し寄せた。 死に際に「残念、残念」と叫んだと言うので、「残念さん」と呼ばれるようになったという。 長州藩と取引のあった尼崎の商人油屋喜平(長尾家)の世話で建立。 今では「1つだけ願いを叶えてくれる」と言われ、近隣の信仰を集めている。
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別名、長洲御厨。 756年、東大寺領猪名荘の一部。 950年代、荘園として独立。 海沿いに位置することから漁村が多く、東大寺が地子を課し、検非違使庁も港湾維持を名目に庁役を課した。 この二重課税に対して、荘民は小一条院の散所として身を寄せ、皇子の敦貞親王、関白藤原教通、娘・藤原歓子と従属先を変え、歓子はこれを自らが建立した常寿院に寄進。 賀茂社の社司・県主惟季は毎日の祭祀に用いる魚を求めてこの地に目を付け、一方荘民側も仏教の「不殺生戒」との関係から寺院領となるのを好まなかった。 1084年、に賀茂社領栗栖郷の一部と相博され、四至牓示を行った。
長洲御厨
荘民は賀茂社の神人として魚類の奉納と引換に漁業の権利を確保。 1092年、東大寺は朝廷に賀茂社を訴えた。 1106年、土地は東大寺、在家は賀茂社とする官宣旨が出されたが、訴訟は鎌倉時代まで続いた。 尼崎御厨・大物御厨が分立するが、悪党や武士が進出、赤松範資・貞範兄弟がそれぞれが執行・総追捕使に任じられるなど、賀茂社の支配も揺らぐ。
901年、菅原道真が太宰府に左遷の際、長洲の地に立ち寄ったという。 そのとき、道真一行を乗せた船をつないだのが、北門の松の木で「菅公繋船之の松」と言われている。 菅原道真は、ここで次の船を待ち、歌を一首詠み、形見として自画像を長洲の村人に与えた。
飲食店や居酒屋、雑貨店などが立ち並ぶ。 昭和時代、現在の国道2号線沿いに映画館やダンスホールが立ち並び、賑わっていた。 1945年、第二次世界大戦の空襲により大きな被害を受けた。 市場が復興し、県営団地ができ、商店は活況に。 現在、杭瀬市場や商店街と中心になって、街角コンサートなど杭瀬の街を盛り上げている。