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☆世界文化遺産☆ 創建:874年(貞観16年) 山号:醍醐山 宗派:真言宗醍醐派 寺格:総本山 本尊:薬師如来 開基:聖宝(…空海の孫弟子) 【下醍醐】 本尊の薬師如来像を安置する金堂、三宝院などを中心に、上醍醐とは対照的に、絢爛な大伽藍が広がる。 応仁の乱でほぼ全焼しているが、五重塔は創建当時のまま現在に残る✨ 五重塔内部の壁画も国宝に指定されており、壁画中の空海像は同人の肖像として現存最古のもの✨ ⚠︎注意⚠︎ 醍醐寺の敷地はとても広いので、歩きやすい靴で行きましょう!砂利道もあります!!
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総門
【醍醐寺の歴史】 平安時代初期、空海の孫弟子にあたる理源大師 聖宝が、准胝観音と如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。 醍醐寺は、山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。
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総門
【歴史 つづき】 後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると、共に手厚い庇護を与え、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。 その後、室町時代の応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。 しかし、豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに、紀州などから寺院建築が移築されたり(金堂、満願寺)や三宝院が再建されたりなどし、今日の姿となった
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総門を抜けると…
総門抜けると、桜馬場という真っ直ぐな通り。 桜馬場の右側:霊宝館エリア 桜馬場の左側:三宝院エリア 桜馬場の奥側:伽藍エリア ※三宝院エリア⇒伽藍エリアの順に紹介していきます。
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三宝院 門跡
ここから三宝院エリア! いざ!
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三宝院と松
1115年(永久3年)創建。 (醍醐寺 第14代座主 勝覚僧正による。) 醍醐寺座主の居住する本坊であった。 現在の三宝院は、豊臣秀吉が1598年(慶長3年)に催した『醍醐の花見』を契機として整備された✨ 建造物の大半が重文に指定されている。
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三宝院 庭園
庭園全体を見渡せる表書院【国宝/追加料金エリア】を横から見た図。
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表書院(国宝)
庭園全体を見渡せる表書院は、寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物。
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庭園
国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院庭園。 慶長3年(1598)、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭✨ 桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。
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三宝院 唐門(国宝)
門跡寺院としての三宝院にあり、朝廷からの使者を迎える時だけに扉を開いたとされる門(勅使門)が唐門です。 創建時は、門全体が黒の漆塗で菊と桐の四つの大きな紋には金箔が施されていました。平成22年、約1年半をかけて修復。 その大胆な意匠は、桃山時代の気風を今に伝えています。
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西大門(仁王門)
豊臣秀頼が慶長10年(1605年)に再建。 ここから伽藍エリア!! 広大な下伽藍に出会えるエリア。 いざ!
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清瀧宮本殿(重要文化財)
永正14年(1517年)に再建。 【清瀧宮本殿・拝殿の歴史】 醍醐寺の総鎮守 清瀧権現(せいりゅうごんげん)を祀る鎮守社。 永長2年(1097)最初に建てられた上醍醐⇒下醍醐へ分身を移す。 この社殿の前で清瀧会(桜会)が行われるようになるが、文明の兵火により焼失。 永正14年(1517)再建。 慶長4年(1599)座主・義演(ぎえん)僧正が拝殿を整備。
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清瀧宮拝殿
慶長4年(1599年)建立。 現在 🌱毎年4月1日から21日まで『清瀧権現桜会(さくらえ)』として様々な法要が行われている。
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新緑が美しい通り
右側 手前…清瀧宮拝殿&本殿 奥側…五重塔 左側 手前…金堂 奥側…不動堂&祖師堂など
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五重塔(国宝)
【五重塔】 承平6年(936) 醍醐天皇のご冥福を祈るため、第一皇子 朱雀天皇が起工。 天暦5年(951) 第二皇子 村上天皇の時代に完成。 ✨京都府下最古の木造建造物✨ 初層の内部には、両界曼荼羅や真言八祖が描かれている ⇒内部の壁画は日本密教絵画の源流をなすものといわれています。 ※ 両界曼荼羅とは 日本密教の中心である大日如来の説く、真理や悟りの境地を、視覚的に表現したもの
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五重塔
下から見上げると、とっても迫力があります。 すごい…
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金堂(国宝)
【下伽藍の中心である金堂】 豊臣秀吉の命によって、紀州(和歌山県)の湯浅から移築。 主要部は平安末期の様式を完全に残している。 本尊・薬師如来坐像(重要文化財)&日光菩薩、月光菩薩&四天王像を安置する。
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スポット内のおすすめ
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不動堂
◎堂内 不動明王を中心に五体の明王を奉安。 ◎堂前の護摩道場 当山派 修験道の柴燈護摩が焚かれ、世界平和など様々な祈願を行っている。
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真如三昧耶堂
神聖な道に感じる
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真如三昧耶堂
【真如三昧耶堂 】 天暦3年(949) 朱雀天皇の御願により法華三昧堂として創建。 文明2年(1470) 焼失。 現在の堂は、平成9年(1997)に真如三昧耶堂として建立された。
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祖師堂
【祖師堂】 慶長10年(1605) 座主 義演准后(ぎえんじゅごう)により建立。 真言宗を開いた弘法大師・空海と、その孫弟子で醍醐寺を開創した理源大師・聖宝とが祀られている。 現在 🌱弘法大師の誕生日である6月15日には、 降誕会が行われる。
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祖師堂
下伽藍で一番好きな堂宇でした✨
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日月門
ここから、違う空間…
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鐘楼堂
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観音堂
【観音堂】 観音堂を中心に広がる、林泉及び弁天堂、鐘楼、伝法学院等を総称して、大伝法院と呼ぶ。 これら諸堂は、醍醐天皇一千年御忌を記念し、昭和5年(1930)山口玄洞居士の寄進により造築されたもの。
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弁天堂
【弁天堂】 紅葉やイチョウが色づく季節には、朱塗りの弁天堂が水面とよく合う紅葉の名所。 堂内には、音楽などの学芸や知識の女神として広く知られている弁才天(七福神の一つ)が祀られている。 新緑と弁天堂と水✨ ずっとここに居られそう…(笑)
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お休み所
【醍醐寺の祈り】 醍醐寺には千年以上にわたって大切に伝承されている3つの祈りがある。 ★「観音信仰」「薬師信仰」「五大力信仰」★ 森と水によって育まれ続けてきた“命”を中心とした祈りの世界。
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創建:1202年(建仁2年) 山号:東山(とうざん) 宗派:臨済宗 建仁寺派 寺格:大本山 本尊:釈迦如来 開基:源 頼家 開山:栄西 ★京都最古の禅寺✨ ★国宝・重要文化財の襖絵や屏風は複製展示のため、写真撮影禁止場所は無し!!!
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スポット内のおすすめ
【歴史】 建仁2年(1202年)鎌倉幕府2代将軍 源頼家の援助を得て、京都における臨済宗の拠点として建立。 創建当時の建仁寺は、天台・真言・禅の3宗並立であった。 ←当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。
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本坊
【続き】 1258年 東福寺 開山の円爾(聖一国師)が当山に入寺。仏殿などを復興。 翌年、宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入寺すると臨済禅道場となり、この頃から純粋禅の寺院となる。 文永2年(1265年) 臨済禅寺となる。 【本坊(庫裏) 】 文政元年(1818年)に建立。
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風神雷神図屏風(国宝/複製を展示)
【風神雷神図屏風】 俵屋宗達(たわらやそうたつ)の真作で、晩年の最高傑作とされる。 二曲一双の屏風全面に金箔を押し、風神雷神を描いている。 原本は京都国立博物館内で保管されている。
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スポット内のおすすめ
【栄西禅師】 寺伝では「ようさい」というが、一般的には「えいさい」と読む。 1141年(英治元年) 備中(岡山県) に生まれ、14歳で落髪し、比叡山で天台密教を修めた。 その後2度の入宋を果たし、日本で禅を広めた。 都での禅の布教は困難を極めたが、博多の聖福寺(日本最古の禅寺)を開く。 また、中国から茶種を持ち帰り、日本で栽培することを奨励。喫茶の法を普及した「茶祖」としても知られる。
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スポット内のおすすめ
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方丈から法堂への渡り廊下
【法堂】 明和2年(1765年)上棟。 仏殿兼用の「拈華堂(ねんげどう)」。 禅宗様仏殿建築。 正面須弥壇には、本尊 釈迦如来座像・脇侍 迦葉尊者・阿難尊者が祀られてる。 方丈と渡り廊下で繋がっている。
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双龍図
平成14年(2002年) 天井には創建800年を記念して「小泉淳作画伯」筆の阿吽の双龍図が描かれた。
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方丈(重要文化財)
【方丈】 慶長四年(1599) 恵瓊(えけい)が安芸の安国寺から移築したもの。 優美な銅板葺の屋根が印象的な禅宗方丈建築。 本尊…東福門院寄進の十一面観音菩薩像。 前庭に枯山水様式の「大雄苑(だいおうえん)」を有する。
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庭園「大雄苑」
枯山水庭園。方丈前庭。 1940年(昭和15年)の作庭。 他の臨済宗のお寺と比べても一際大きい庭園は、名前の通り雄大な庭園。
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枯山水庭園から法堂を眺める
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方丈(重要文化財)
今から、方丈をぐるっと1周します!!!
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雲龍図 (重要文化財/複製)
【方丈】 各室には海北友松(桃山時代の画壇を代表する画家)の水墨障壁画があった。 「竹林七賢図」・「雲龍図」・「花鳥図」等 1934年(昭和9年)の室戸台風で倒壊 ↓ 本物は京都国立博物館に寄託されている。
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山水図 (重要文化財/複製)
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方丈 西側の庭
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スポット内のおすすめ
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琴棋書画図 (重要文化財/複製)
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方丈 北側
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納骨堂
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対馬行列輿
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花鳥図 (重要文化財/複製)
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唐子の間
方丈から小書院に向かう廊下、左手に。
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唐子遊戯画
田村月樵 作。 明治45年、月樵が67歳の晩年の作。
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潮音庭(三連の庭)
本坊中庭にある潮音庭。 三尊石、その東に坐禅石、廻りに紅葉。 枯淡な四方正面の禅庭。
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潮音庭
大書院から潮音庭を眺める。
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建仁 建仁
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大書院から小書院へ
潮音庭を眺めながら、渡り廊下を。
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潮音庭 端
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スポット内のおすすめ
小書院の中には、青が美しい襖絵。
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スポット内のおすすめ
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スポット内のおすすめ
小書院(○△□乃庭 側)の襖絵。
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庭園「〇△□乃庭」
2006年(平成18年)北山安夫による作庭。 「〇△ロ乃庭」は、江戸時代の禅僧 仙厓義梵の「〇△ロ」掛け軸が元になっている庭。 禅の四大思想(地・水・火・風)の地(□)・火(△)・水(○)を表している。 単純な3つの図形は、宇宙の根源的形態を示す。 木の根元の苔が○。 写真奥側にある砂が盛り上がっている部分が2等辺三角形となっており△。 手前の井戸が□。
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創建:承安5年(1175年) 山号:華頂山 宗派:浄土宗 寺格:総本山 本尊:法然上人(本堂)、阿弥陀如来(阿弥陀堂) 開基:法然 ★三門(国宝)…日本最大の木造二重門★ ★知恩院の七不思議★
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三門【国宝】
【三門】 元和7年(1621)徳川2代将軍 秀忠公の命を受け建立。日本最大の木造二重門✨ 「三門」 空門、無相門、無願門という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門、三解脱(げだつ)門を意味する。
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三門【国宝】
【三門】 上層部(楼上)内部は仏堂。(非公開!!) 中央に宝冠釈迦牟尼仏像、脇壇には十六羅漢像が安置。 天井や柱、壁などには迦陵頻伽(かりょうびんが)や天女、飛龍が極彩色で描かれている。 【七不思議…白木の棺】 また、七不思議の一つである白木の棺があり、三門造営の命を受けた造営奉行、五味金右衛門夫妻の木像が安置されている。
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三門裏から参道を眺む
【歴史】 知恩院は、法然が東山吉水(現在の知恩院勢至堂付近)に営んだ草庵をその起源とする。 1175(承安5年)、法然は43歳で「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。「専修念仏」…いかなる者も、一心に阿弥陀如来の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想。 この思想は旧仏教側から激しく糾弾され流罪となり、4年には許されて都に戻るが、翌年80歳で没した。
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男坂頂上から三門を眺む
【歴史】 知恩院は、法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院。 現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。 徳川家康は知恩院の寺地を拡大。 2代徳川秀忠は造営を引き継ぎ、現存の三門を建設。 火災で三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼。 3代徳川家光は、再建を進めた。
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お手水
男坂を登りきると、伽藍が並ぶ中段エリア。 手前左手に見えるのが、朱印所やお手水。
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七百五十万霊塔
お手水の奥にはこちら。 説明文はなく、よく分からない…。
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阿弥陀堂
【阿弥陀堂】 御影堂の西側(お手水の右側)に建つ阿弥陀堂は、明治年間に建てられた唯一の建造物。 昔、阿弥陀堂は勢至堂の前に建立されたが、宝永7年(1710)に現在の位置に移築。 荒廃が進み、明治43年(1910)に再建。 本尊は阿弥陀如来座像。 高さ2.7メートルある大きなもの。 堂正面の「大谷寺」という勅額は、後奈良天皇の宸筆で知恩院の寺号を表す。
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御影堂【国宝】
【御影堂】 法然上人の御影を祀ることから「御影堂」と呼ばれる。 寛永16年(1639)3代徳川家光によって建立。 令和2年(2020)4月 平成の大修理を完了。 【葺き残しの瓦】 まだ未完成であることを示すために、御影堂の瓦屋根、大棟の中央に2枚の瓦が残されている。 「満つれば欠くる世の習い」― この世はすべて無常であり、完成すればあとは壊れていくばかり。
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御影堂【国宝】
【七不思議…忘れ傘】 御影堂正面右手上部の軒下には、知恩院七不思議の一つ「忘れ傘」がある✨ ほか、外縁と本殿を区切る大扉の落とし金の意匠なども、きめ細かい趣向がこらされていて素晴しい。 落とし金は、蝉、亀などの意匠が多く見られる。
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名号の松 / 納骨堂
【納骨堂】 昭和5年に造立されて以来、合祀でご遺骨をお納めしている。 堂内に阿弥陀三尊像・二十五菩薩が安置され、地下にご遺骨が奉安される。 【名号の松】 浄土宗では、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるが、これを六字名号という。 名号の松は、根元から6本に分かれていることから、その名が付いたそう。
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経蔵【重要文化財】
【経蔵】(内部非公開!) 御影堂の東側に建っている経蔵は、三門と同じ元和7年(1621)に建てられた。 内部は、天井や柱、壁面は狩野派の絵師の手によって荘厳されている。 また、徳川2代将軍秀忠公の寄附によって納められた『宋版一切経』約6千帖を安置する八角輪蔵が備えられており、その輪蔵を一回転させれば、『一切経』を読誦するのと同じ功徳を積むことができるといわれている。
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法然上人像 / 知恵の道
知恵の道と呼ばれるこの石段を上ると、 法然上人がお念仏のみ教えを広められた大谷の禅房の故地&知恩院発祥の地と言われるエリアに✨
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御廟(ごびょう)と勢至堂へ
【勢至堂】 現在の勢至堂は享禄3年(1530)に再建されたもので、現存する知恩院最古の建造物。 堂内正面に掲げられている額「知恩教院」は後奈良天皇の宸翰であり、知恩院の名の起源がここにある。
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勢至堂【重要文化財】
(つづき) ご本尊はもともと法然上人のご尊像(御影)だったが、現在の御影堂が建立された折に移されたため、それ以降は上人の本地身(ほんじしん)とされる勢至菩薩像(重要文化財)をご本尊としておまつりしている。 これが勢至堂といわれる由縁。 また、上人ご終焉の本地の堂ということで、本地堂(ほんじどう)ともいわれている。
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御廟や勢至堂の手前
【御廟】(内部非公開) 広大な知恩院境内の最上段に位置する御廟。 専修念仏の本拠であり、法然上人入寂の聖跡。 法然上人のご遺骨をご奉安する廟堂。 建暦2年(1212)この地にあった大谷の禅房で法然上人はご入滅。⇒門弟たちによって廟堂が建てられ、ご遺骨がご奉安され。 現在の御廟は、慶長18年(1613)常陸国土浦藩主 松平伊豆守信一の寄進を得て改築されたもの。
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御廟【京都府指定文化財】の拝殿
廟堂の蟇(かえる)股には「雲に龍」「桐に鳳凰」「梅に鶯」「雲に麒麟」「松に鶴」「桜に鳥」「孔雀に牡丹」など、桃山様式の華麗な彫刻が施されており、法然上人のご生涯を偲ぶにふさわしい静粛さと格調のある建物。 宝永7年(1710)御廟の手前には拝殿がある。 800年大遠忌(平成の大修理)では、御遺骨をお祀りする「御廟堂」前面の「唐門」、そして参拝のための「拝殿」のすべてが修復された。
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創建:不詳 御祭神: ・国常立尊(くにのとこたちのみのと)…国土の守護神 ・八千矛神(やちほこのかみ)=大国主神(おおくにぬしのかみ)…武勇に秀でた経営・医薬の神 ・神功皇后=息長帯日売尊(おきながたらしひめのみこと)…安産と子育ての守り神 社格:式内社
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城南鳥居
【歴史】 平安時代後期、白河上皇や鳥羽上皇によって、城南宮を取り囲むように城南離宮(鳥羽離宮)が造営されて院政の拠点となると、城南宮は離宮の鎮守として一層崇められ、9月の城南祭が盛大に行われるようになった。 例)神輿行列、流鏑馬、競馬(くらべうま) 2K㎡にも及ぶ離宮は政治・文化の中心となり、歌会や雅やかな宴や船遊びも行われ、王朝文化が花開いた。
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拝殿
【歴史】 また城南離宮の御殿は、京都御所の裏鬼門を守る神となり、方位の災いが無いように願って行う、方違(かたたがえ)の宿舎に選ばれることがも多かった。 熊野詣に出かける際、離宮に7日間滞在し、身を清め旅の無事を祈って出かけられた。 ここに「方除(ほうよけ)の大社」と仰がれる城南宮の方除の信仰を見ることができる。
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本殿
1978年(昭和53年)再建。 写真撮影禁止だが、本殿裏をコの字に囲むように稲荷社などある。 【歴史】 孝明天皇から正月・五月・九月の祈祷に与る「正五九参り」など皇室の崇拝を受け、城南鳥居には菊の御紋と御神紋の三光の紋(日・月・星を表す)が輝いている。 明治維新を決定づけた鳥羽伏見の戦いは、城南宮の参道に置かれた薩摩藩の大砲が轟いて始まった。 明治2年 明治天皇の東京行幸安泰の祈祷を承った。
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椿
2022.2.12 この時期咲いてる椿はかなり少なったです。 写真の椿は「初音」だと思われます! 【古典椿】 品種改良が盛んであった江戸時代頃から見られる椿のこと。 毎年期間は違いますが、令和4年の「しだれ梅と椿まつり」は2/18~3/22です🌸 城南宮のHPを確認すると、現在の開花状況を確認できます✨
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雲龍梅
2022.2.12 ・探梅(たんばい)…咲き始め~6分咲き ⇒春の訪れを感じる。比較的来苑者少ない。 ・観梅(かんばい)…見頃・満開 ⇒150本のしだれ梅が咲き誇る圧巻の景色。 ・惜梅(せきばい)…散り始め ⇒花びらの絨毯を楽しめる。
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しだれ梅
2022.2.12 【神苑 源氏物語 花の庭】 城南宮を取り囲むように広範囲に作られた庭で、5つのエリアで構成されている。「源氏物語」に描かれた花や木々が80種余りある。 【春の山】 椿、しだれ梅、三つ葉ツツジが次々と花開く「春の山」エリア。 白河上皇は城南離宮を築く際に、『源氏物語』に描かれた光源氏の大邸宅「六条院」を真似て春の山や秋の山を築き、四季の景色に優れた離宮を作ったと言われている。
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落ち椿
2022.2.12 春の山⇒平安の庭 までの道に、「神紋に関わる椿」の道がある。落ち椿も美しい♡
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御神木
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平安の庭
【平安の庭】 平安時代の貴族の邸宅、寝殿造りの庭をモデルにした「平安の庭」。 寝殿造りを模した神楽殿の南に、木々の影を映す池に続く。 この池には中ノ島があり、段落ちの滝(階段状の滝)から清流が注ぎ、2筋の遣水(やりみず・小川)が流れています。
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平安の庭
神楽殿と中ノ島と錦鯉𓆟
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曲水の宴
「平安の庭」をさらに進むと王朝の雅を偲ばせる曲水の宴が催される苔の庭が広がっています。生気あふれる新緑、そして紅葉と、特に初夏~晩秋にかけてみごたえがある。 曲水の宴は、奈良時代から平安時代にかけて宮中で催された歌会を再現した行事。 4/29(昭和の日)に約1時間で行われる。 生で見てみたいな〜🥺💓
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室町の庭
【室町の庭】 茶道、生花、能楽などの日本文化が大成された室町時代の様式でつくられた池泉回遊式庭園の「室町の庭」。 池の中央には不老長寿を象徴する松が生える蓬莱島があり、その対岸の3っの石(三尊石)は三体の仏を表し理想の世界を象徴している。 池には錦鯉が泳ぎ、4月末の藤、5月のつつじ、秋の紅葉が特に美しい。
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室町の庭 と 楽水軒
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楽水軒
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室町の庭 と 楽水軒
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室町の庭
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室町の庭
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桃山の庭
【桃山の庭】 水を用いずに海を表した枯山水様式の庭で欧州の文化に出会い、武士が天下統一を目指した桃山時代の豪壮な気風を反映している。 広々とした芝生が大海原、点在する岩が沿岸の島々を表している。 船の形に剪定された松を欧州から黄金の国ジパングに来た船と想像するのも楽しい。 4月の桜、5月のつつじ、青空澄み渡る新緑の季節のころが美しい。
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城南離宮の庭
【城南離宮の庭】 城南宮の一帯が最も華やかであった平安時代後期の様子を表す枯山水の庭園。 平らな石を敷いた苑路が鴨川を、敷き詰められた白い石が離宮の池を、緑の草が陸地を、そして岩組みが殿舎を表している。 ここ城南離宮で、上皇のもと貴族が花見の宴や和歌の会を催し、また武士が流鏑馬で弓馬の技を競った時代が150年余り続いた。
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椿餅
城南宮名物 椿餅(つばきもちい) 可愛らしくて美味しい🥺💓
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神苑 源氏物語 花の庭 パンフレット
2/12に訪問したけど、温かい時期に行った方が楽しめますね〜😂🌷
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創建:1236年(嘉禎2年) 山号:慧日山 宗派:臨済宗 東福寺派 寺格:大本山 / 京都五山第四位 本尊:釈迦如来 開基:藤原(九條)道家 開山:聖一国師(円爾弁円)
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臥雲橋から通天橋を望む
【歴史】 1236年 摂政九條道家が寺院建立を発願。 1255年 東福寺完成。奈良最大の寺院「東大寺」、奈良で最も盛大を極めた「興福寺」から字を取り東福寺と名づける。 1243年 聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ,天台・真言・禅の三宗兼学の寺院となる。 1319年、1334年、1336年 相次ぐ火災のために大部分を焼失。 20年後 再建し完全な禅宗寺院に。 ,
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日下門
【歴史つづき】 仏殿本尊の釈迦仏像は15m,左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5m。 足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ,東福寺は永く京都最大の禅苑として兵火を受けることなく明治に至る。 明治14年12月 惜しくも仏殿・法堂、方丈、庫裡を焼失。大正~昭和にかけて再建。
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通天橋
【通天橋】 洗玉澗を渡るため、本堂から開山堂を結ぶ橋廊。 1380年に春屋妙葩が架けたとされる。 眼下に楓の木々が広がり、秋の紅葉シーズンには京都屈指の眺望を誇る。
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通天橋から臥雲橋方面
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開山堂までの階段 上からの眺め
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開山堂
【開山堂】 通天橋を渡った境内の北、最も高い場所に建つ。 1階の礼堂最奥の祠堂に、開山である円爾弁円(聖一国師)の尊像が安置されている(非公開)。 円爾はここ開山堂に隣接する普門寺(現在の普門院)に住し、東福寺建立のようすを眺めていた。 1280年79歳で入寂した地でもある。 開山堂上部にある伝衣閣では阿弥陀如来立像、布袋和尚坐像、薬師如来坐像を祀り、布袋和尚坐像は伏見人形のルーツとされる。
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愛染堂
【愛染堂】 丹塗りの杮葺き八角円堂。 南北朝時代の建築。 昭和12年、万寿寺より移された。 愛染明王をまつる。
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方丈へ 東庭
【東庭】 雲文様地割に円柱の石で北斗七星を構成し、「北斗の庭」と呼ばれる。 北斗七星に見立てた石は、もと東司(旧便所)の柱石の余石を利用したもの。 後方には天の川を表した生垣が配され、夜空が足元に広がるかのような小宇宙を造り出している。
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方丈 南庭
「八相の庭」…四庭に配された「蓬莱」「方丈」「瀛洲(えいじゅう)」「壷梁(こりょう)」「八海」「五山」「井田(せいでん)市松」「北斗七星」の八つを、「八相成道(釈迦の生涯のうち八つの重要な出来事)」に因んで命名されたもの。 古来中国大陸の蓬莱神仙思想では、東の大海の彼方に仙人が住む「蓬莱」「方丈」「瀛洲」「壷梁」と呼ばれる四仙島があり、島には仙薬財宝があると信じられた。
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方丈 南庭
【南庭 つづき】 枯山水庭園である南庭は、この四仙島を長石を基本に巨石を剛健に配し、渦巻く波紋によって「八海」を表す。 西方には「五山」になぞらえた築山を置き、その苔地と砂紋とを区切る斜線の表現も効果的である。 南正面に設けられた向唐破風の表門は昭憲皇太后の寄進と伝わる。恩賜門とも呼ばれ、小型ながら明治期唐門の代表作である。 ※写真左から、「瀛洲」「蓬莱」「壷梁」「方丈」「五山」の巨石。
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方丈
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方丈
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方丈 南庭
恩賜門。手前に「八海」の表現。
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方丈 南庭
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方丈から通天橋を望む
通天台と呼ばれる舞台から、渓谷「洗玉澗(せんぎょくかん)」を一望。 通天台の左に「西庭」の「井田市松」があり、 右側に「北庭」がある。
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三門
【三門】 大仏(天竺)様を思わせる、室町初期の再建。 扁額「玅雲閣(みょううんかく)」は足利義持筆。 楼上内部には諸仏が並び、天井や柱には明兆と弟子による極彩画が描かれている。
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本堂
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本堂
【本堂】 昭和9年築の重層入母屋造の大建築。 天井には蒼龍図は堂本印象作。 春の涅槃会には明兆の大涅槃図が公開される。
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六波羅門
【六波羅門(重要文化財)】 南正面に立つ伽藍の最南端にある鎌倉時代前期の門。 鎌倉幕府の六波羅探題にあったものを移したことから、この名で呼ばれている。 月下門とともに、寺内で最古の建築物。
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