
日本の中心地・国会議事堂と霞が関
東京日本の中心地・国会議事堂と霞が関
まいどまいど! 現代の日本の政治の中心地として知られる国会議事堂。 ここには衆議院と参議院それぞれの建屋があり、内部を見学する人もぎょうさんいたはりまんな。 建物そのものは戦前の1936年に建設され、政治の中枢を担ってきた。 その他、周辺には、霞が関と呼ばれる場所があり、ここには中央省庁が集積。 内閣府をはじめ、農林水産省や国土交通省、国家公安委員会などのビルが立ち並んでまんねん。 また、伊達政宗ゆかりの日比谷公園は区民憩いの場ともなってはりまんな。 ほんで最寄りの有楽町駅やその周辺にはにぎやかな繁華街となっておまして、観光客や買い物客で行き交ってはりまんな。 そんな有楽町駅やその周辺にも深い歴史がおまして東京の歴史を語る上では外されへん存在ともなってまんねん。 そんな有楽町、霞が関界隈を闊歩していきまひょ。
1936年、帝国議会議事堂として建設。 建物は左右対称形。 左は衆議院、右は参議院が配置。 1881年、国会議事堂の建設案が浮上。 設計は、ドイツの建築家ウィルヘルム・ベックマンとヘルマン・エンデ。 当初、ネオ・バロック様式、ルネサンス様式のデザインを採用したが、財政難を理由に、仮議事堂(木造2階建ての洋風建築)を建設したが、焼失。 その後、エンデが引き継ぎ、和風と中国風が混在するデザインであったため、中止に。 1918年、設計のコンペを開催し、宮内省技手の渡邊福三の案を採用。 設計は、ギリシャ様式でルネサンス風の建物。 建設中、関東大震災が発生し、設計図や模型などを紛失。
麹町地域の南西側に位置する霞が関は、港区(赤坂、虎ノ門、西新橋)との区境にあたる。 日本の行政機関の庁舎が建ち並んでいることで知られる。 江戸時代、大名屋敷が並ぶ地域であった。 明治時代、大火があり、跡地に外務省(旧福岡藩黒田家上屋敷)や海軍省、有栖川宮邸などが置かれて以後、官庁街へと発展した。 1968年、日本初の超高層オフィスビル「霞が関ビルディング」が完成。
農林水産省、林野庁、水産庁、内閣府、厚生労働省、環境省、人事院、法務省、最高検察庁、東京高等検察庁、東京地方検察庁、東京区検察庁、国家公安委員会、公安調査庁、公正取引委員会、東京地方検察庁、東京区検察庁、東京家庭裁判所、東京簡易裁判所、東京地方裁判所、赤れんが棟(法務省旧本館)、東京高等・地方・簡易裁判所合同庁舎、弁護士会館、経済産業省、中小企業庁、資源エネルギー庁、日本郵政ビルなどがある。
警視庁、総務省、消防庁、国家公安委員会、国土交通省、運輸安全委員会、海難審判所、海上保安庁、観光庁、外務省、財務省、国税庁、 内閣府、内閣法制局、霞が関コモンゲート、文部科学省、金融庁、文化庁、特許庁などがある。
1903年、開園。 園内では市政会館、日比谷公会堂、野外音楽堂、日比谷図書文化館(旧東京都立日比谷図書館)、緑と水の市民カレッジ、日比谷グリーンサロン、フェリーチェガーデン日比谷(旧公園資料館)、テニスコート、松本楼などがある。 ホセ・リサール像、ルーパ・ロマーナ(ローマの狼、ロムルスとレムス)、ルーン石碑に模した「古代スカンジナビア碑」、南極の石などの記念碑が建立。 江戸時代、周辺には御用屋敷・萩藩毛利家・佐賀藩鍋島家、三草藩丹羽家・吹上藩有馬家・福知山藩朽木家・盛岡藩南部家・唐津藩小笠原家・狭山藩北条家など多くの上屋敷が置かれた。 明治時代、廃藩置県により更地となり、日比谷ヶ原と呼ばれた。
日比谷公園
1871年、日比谷・霞が関の旧武家地一帯に陸軍操練所(日比谷練兵場)が設置。 1888年、青山火薬庫跡、明治神宮外苑に移された。 ドイツ式庭園を目指していたが、日本的な要素も残した。
日比谷公園
日露戦争祝賀会や多くの国葬の開催場所として活用された一方、東京市電賃上げ反対運動や普通選挙運動、シーメンス事件に対する第2次山本内閣弾劾国民大会など、民衆を中心とした社会運動の拠点ともなった。 1942年、太平洋戦争の勃発により、軍用地となった。 戦後、GHQの接収を受け、米軍の拠点として利用された。 1951年、接収が解け、再整備を開始。
戦国時代に活躍した出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。 1567年、出羽国米沢城で伊達氏第16代伊達輝宗の嫡男として、正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)から生まれた。 幼名、梵天丸。 1577年、元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。 「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖で室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗から命名。 1579年、仙道の三春城主・田村清顕の娘、愛姫を正室に迎える。 1581年、隣接する相馬氏との合戦で初陣を飾る。
伊達政宗の終焉
1584年、父・輝宗の隠居に伴って家督を相続、伊達家第17代当主となる。 小田原合戦や関ヶ原の戦い、大坂の陣などで奮闘。 ヨーロッパ諸国などで、その名を轟かせた。 晩年、2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕えたが、当地で終焉を迎えた。
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「合歓の広場」にあるゴジラの像は、ゴジラ生誕40周年を記念して建立。 1995年、東宝映画「ゴジラvsデストロイア」の公開に合わせて建てられたもので、東宝映画に出演した映画スターの手形のプレートも地面に貼られている。
1965年、複合商業施設として竣工。 地下4階、地上15階建。 施設内には店舗、オフィス、展示場などがある。 正式名称は東京交通会館ビルディング。 1960年、東海道新幹線の東京駅乗り入れの決定に伴い、東京交通会館が設立。 1964年、東京オリンピック開催前、有楽町周辺では都市整備が進められていたが一部、太平洋戦争後の闇市より発展した立ち飲み屋・寿司屋など木造店舗が立ち並ぶ「すしや横丁」があった。 1968年、「すしや横丁」は姿を消した。
江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行の一つ。 その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務していた。 1717年、名奉行大岡越前守忠相は1736年まで南町奉行として執務をしていた。 1707年、南町奉行所は常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転、幕末まで当地に存在した。 その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯。
大岡越前守屋敷
発掘調査では奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見された。 また、「大岡越前守屋敷」と墨書きされた荷札も出土した。
1691年、外濠川に面したこの付近は、肥前島原藩(現在の長崎県)などを治めた深溝松平家の上屋敷が置かれた。 明治時代、屋敷は貸し出され、民権結社による演説会などが盛んに催された。 1881年、法律家の岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操は、屋敷の一部を借り受け、明治大学の前身にあたる明治法律学校を開校。 1886年、神田区駿河台南甲賀町(現在の神田駿河台)に移転。 1995年、「明治大学発祥の地」碑が建立。