
津和野で古き良き日本人の心のふるさとを感じる
島根津和野で古き良き日本人の心のふるさとを感じる
まいどまいど! 瀬戸内海沿いに位置し、山口県の玄関口の一つである新山口駅から日本海側に向けて走る西日本旅客鉄道(JR西日本)山口線の停車駅「津和野駅(島根県鹿足郡津和野町)」。 休日のみ運行されるというD51蒸気機関車(SLやまぐち号)に乗ってゆっくりゆったりと揺られながら辿りついた。 津和野駅はD51蒸気機関車(SLやまぐち号)の終着駅となっており、駅のすぐそばには蒸気機関車が回転するための転車台が設置され、現役でんねん。 この日もカメラや携帯電話で撮影する観光客が集まり、大いににぎわってはりました。 また、駅周辺では江戸時代から続く古い町並みが現存し、「山陰の小京都」との異名を持ってまんねん。 実際に街をぶらぶら歩いてみると、趣のある昔ながらの雰囲気が残る酒蔵や津和野町津和野庁舎、藩校養老館、太鼓谷稲成神社などがあり、見どころも満載。 その他、イタリア生まれの卵とバターを使ったパンの中に、ジェラートアイスを挟んだ「焼きアイス」というご当地グルメも味わいつつ、山陰の小京都を満喫する。 かつては津和野城の城下町としての賑わいを見せた津和野の街並みをゆっくりゆったりと歩いてみまへんか?
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島根県鹿足郡津和野町で活躍するマスコットキャラクター。 津和野町は日本遺産にも認定された昔ながらの町並みが今に残る街として知られ、小京都との異名を持っている。 つわみんは町民のふるさとへの想いから生まれた妖精。 2013年、登場。 名前には「つわのがみんなに愛されますように」という願いが込められているとか。
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西日本旅客鉄道(JR西日本)山口線の停車駅の一つ。 「山陰の小京都」と称される観光の町、津和野の玄関口の駅で、蒸気機関車C571が牽引する快速「SLやまぐち号」の終着駅となっている。 1922年、開業。 1977年、現在の2代目駅舎が竣工。
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蒸気機関車用の転車台
構内では蒸気機関車用の転車台がある。
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D51形蒸気機関車D51 194
D51 194が静態保存されている。 D51形蒸気機関車とは、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が設計、製造した単式2気筒で過熱式のテンダー式蒸気機関車。
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江戸時代、付近は津和野藩亀井氏の城下町であった。 現在、当時の雰囲気を今に伝え、山間の小さな盆地に広がる町並みは、「小京都」の代表格として知られ、商店街に張り巡らされた堀では鯉が泳いでいる。 明治時代、神仏分離の発令、長崎から配流されてきたキリシタンへ改宗の強要が実施された歴史がある。 また、文豪の森鴎外の出生地としても知られている。
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本名は、ふみあき。 1936年、島根県鹿足郡津和野町生まれ。 1960年、東京農業大学、東京総合写真専門学校を卒業後、水俣を皮切りに韓国、南ベトナム、ロシアなどを取材。 個展「水俣病」で日本写真批評家協会新人賞、「韓国」で講談社写真賞、日本写真協会年度賞、「ドキュメント二人展」で伊奈信男賞を英伸三とともに受賞、写真展「不知火海」及び写真集「水俣事件」で土門拳賞を受賞。 日本の報道写真家として活躍する。
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島根県鹿足郡やその周辺の観光案内、情報発信などを行っている。
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日本の画家、装幀家、絵本作家、元美術教員。 1926年、島根県鹿足郡津和野町生まれ。 1940年、山口県立宇部工業学校(山口県立宇部工業高等学校)採鉱科卒業。 1945年、香川県王越村(坂出市)で上陸用舟艇の秘匿場建設に従事。 1946年、山口県徳山市(周南市)で小学校の教員に就任。 山口師範学校(山口大学教育学部)研究科を修了、上京後、美術教員に就任。 玉川学園出版部で本の装幀、イラストなどを執筆。 主に「ふしぎなえ」「繪本平家物語」「天動説の絵本」「空想の絵本」「ABCの本」「旅の絵本」「算私語録」「空想工房」「空想書房」「わが友 石頭計算機」など。 2001年、安野光雅美術館が開館。
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津和野町のお土産や地酒、名特産物などを販売する。 また、レンタサイクル、手荷物の預かりサービスなどを行っている。
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文化庁が認定する「津和野今昔~百景図を歩く~」の物語を、映像やパネル展示などで解説するガイダンスセンター。 展示室では、百景図(複製)が公開されている。 ストーリーでは、「四季」「自然」「歴史文化」「食」というテーマ別で紹介され、百景図を通じた津和野の魅力、観光案内、情報発信などを行っている。
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1878年創業。 清酒を醸造、販売する老舗の酒蔵。 代表銘柄は初陣。 また、酒蔵の見学もできる。
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1730年、創業。 清酒を醸造、販売する老舗の酒蔵。 代表銘柄は華泉。 また、酒蔵の見学もできる。
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外観は、西洋ゴシック建築でステンドグラスや石造りなどが特徴。 1929年、長崎浦上のキリシタン信徒の殉教地として知られるシェーファー神父によって創設。
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乙女峠展示室
乙女峠展示室が隣接する。
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1919年、旧鹿足郡役所として竣工。 一時的に、警察署として利用された。 1955年、町村合併で津和野町役場となった。 ここでは、家老大岡家の正門、多胡家老門があるのが特徴。 家老職を亀井氏十一代に渡って務めた多胡家の表門として知られている。
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旧鹿足郡役所
敷地内では当時そのままの趣が現存する。
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1786年、津和野藩の藩校として8代藩主亀井矩賢によって設置された。 藩主矩賢自らによる校名の揮毫がなされた。 当時、儒学が中心で、儒学者の山口剛三郎、吉松儀一郎らが携わった。 その他、和学、医学、兵学、算法、習礼、弓術、馬術、剣術、槍術などがあった。 津和野藩11代藩主亀井茲監のときに規模を拡張し、田村の殿町へ各練武場とあわせて新築。
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武術教場と書庫
建物は武術教場と書庫が現存する。 武術教場は津和野町の民俗資料館となっている。
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祭神は、須佐之男命 1428年、三本松城主吉見氏が祇園社の分霊を太鼓谷山に「滝本祇園社」として勧請。 1437年、吉見弘信が社地を現在地の下元原に遷座し、三本松城の鬼門を守る社とした。 吉見氏以降、坂崎成正を経て亀井氏が藩政を執るようになり、廃藩に至るまで藩主の造営や寄進を受けた。 1867年、弥栄神社に改称。 毎年6月30日には輪くぐり神事が行われる。 境内には石見神楽奉納が行われる。 毎年7月20日、27日には、古典芸能神事である鷺舞が舞われる。
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通称、津和野のおいなりさん。 全国の神社では唯一「いなり」を「稲成」と表記する。 「稲成」と表記するのは、願い事が叶うように、という思いから。 祭神は、宇迦之御魂神(稲荷神)、伊弉冉尊。
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日本五大稲荷の一つ
伏見稲荷大社・笠間稲荷神社・竹駒神社・祐徳稲荷神社と並ぶ日本五大稲荷の一つとされる。
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太皷谷の峰に社
1773年、津和野藩7代藩主亀井矩貞が、藩の領民安寧のため、京都の伏見稲荷大社から勧請を受け、三本松城(津和野城)の鬼門に当たる太皷谷の峰に社を創建した。
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太鼓谷
江戸時代、津和野城の城山の一角に位置し、時刻を知らせる太鼓が鳴り響いた谷間であったことから太鼓谷と呼ばれる。
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地域の名産品や特産品を販売している他、レストランもあり、ゆったりと過ごすことができる。 そんな中で、最近、津和野町の新たな名物として注目を集めているのが、焼きアイス。
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焼アイス
焼きアイスとは、イタリア生まれの卵とバターを使ったパンの中に、ジェラートアイスを挟んで200度で15秒、焼いたもの。 外は、焼きたてパン。 中は冷たいアイスという変わったデザート。
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1856年、島根県鹿足郡津和野生まれ。 日本の地球科学者(地質学、岩石学、鉱物学、火山学、地震学等)で活躍。 藩校の養老館で漢学や蘭学を学ぶ。 1870年、藩から大学南校(後の開成学校、東京大学)貢進生を卒業。 1877年、東京帝国大学(東京大学)理学部地質学及び採鉱学科卒業。 1880年、ドイツに留学、ライプツィヒ大学、ミュンヘン大学へ留学。 1883年、東京大学地質学科と地質調査所の関係者によって地学会が結成、「地学会誌」創刊。 1884年、東京帝国大学理学部地質学科講師に就任。 1891年、濃尾地震の断層地震説を発表。 1939年、日本人初の鉱物で小藤に因んだ小藤石が発表。
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1893年、島根県鹿足郡津和野生まれ。 日本の脳外科学者、俳人、新潟大学名誉教授として活躍。 俳号は、みづほ。 1917年、東京帝国大学医科大学卒業。 1922年、新潟医科大学助教授兼新潟医科大学附属医学専門部教授に就任。 日本初の脳神経外科を新潟大学で設立。 一説によると日本初の大脳半球切除手術(いわゆるロボトミー手術)に成功した。 中田みづほの俳号をもつホトトギス派の俳人で、高浜虚子と親交があった。
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高岡兄弟とは、高岡直吉と高岡熊雄。 高岡直吉は、1860年生まれ。 藩校養老館で学び、上京。 北海道に渡り、札幌農学校で学んだ。 以後、宮崎県知事、島根県知事、鹿児島県知事、門司市長を歴任。 大正時代、札幌市の初代市長に就任し、札幌市の発展に尽力。 高岡熊雄は、1871年生まれ。 津和野小学校高等科、山口中学校卒業。 北海道の札幌農学校卒業。 新渡戸稲造が教師として赴任以後、影響を受けた。 卒業後、学校に留まり研究を続けた。 農政学・農業経済学研究のためドイツに留学。 第3代北海道帝国大学総長に就任。 その他、農政諸問題の各種委員や様々な統計調査などの役職を歴任。 札幌名誉市民。
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別名、三本松城、一本松城。 藩主屋敷は高等学校、庭園は嘉楽園となった。 1282年、吉見頼行は沿岸防備の為、西石見地方の地頭として赴任。 当初、木薗(木曽野。現在の津和野町木部)に屋敷(吉見氏居館)を設け、御嶽城や徳永城を築城。 1295年、標高367mの霊亀山に築城開始、1324年に完成後、吉見氏14代の居城となった。 戦国時代、吉見氏は大内氏に属したが、11代当主正頼は大寧寺の変で大内義隆を滅ぼした陶晴賢に対して挙兵。 1554年、100日以上に及ぶ籠城戦(三本松城の戦い)が勃発。 厳島の戦いに勝利した毛利氏が防長経略を開始、吉見氏はその傘下に入り、津和野城を居城とした。
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城下町の雰囲気
関ヶ原の戦いで西軍の毛利輝元らが敗れ、毛利氏が防長2か国に減封、吉見氏も津和野を退去、萩に移住。 東軍の坂崎直盛が入城。 1616年、直盛は千姫事件で没し、坂崎氏は改易となった。 1617年、因幡国鹿野藩より亀井政矩が入城。 以後、亀井氏の居城となり、山麓に居館(津和野藩邸)や外堀を設置、城下町が整備。 1871年、廃藩置県となり廃城。 城は津和野の商人・三上喜左衛門に払い下げ、解体。
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