湘南発祥の地そして明治→昭和の別荘地「大磯」の歴史ブラリ
神奈川湘南発祥の地そして明治→昭和の別荘地「大磯」の歴史ブラリ
大磯は明治期に海水浴に利用されたのをきっかけとして明治の元勲たちの別荘地として繁栄しました。その影響もあって吉田茂に代表される政治の中心地として戦後昭和史にその名を刻んでいます。古くは「湘南」の名前の由来にもなった景勝地でもあり、その魅力をブラリ歴史散歩しましょう。そういえばタモリさんもブラタモリで湘南発祥の大磯にやってきてました。
大磯の城山公園という公園になっている一角に吉田茂の邸宅が作られています。「吉田学校」と言われる吉田茂の政治期には大磯詣でと言われ、政治案件の舞台となりました。大平総理の時代にはカーター大統領との会談の舞台となったこともあり、まさに昭和史の舞台といえます。2009年に火災で邸宅自体は消失してしまったのですが、その後再建され公開されています。
火災
2009年の火災で邸宅自体はサンルーム以外全焼してしまっています。
玄関
応接室
吉田茂が大磯詣をしている人と応接したのがこの部屋。実は大平総理とカーター大統領の会談もこの部屋で行われたとか。家具なども写真に基づきすべて復元されたそうです。
吉田茂
日本の外交官出身の政治家で、戦後の公職追放が行われたことから自由党総裁となり、内閣総理大臣となり、官僚出身者たちを吉田学校と呼ばれる形で政治家として登用し、戦後政治の基礎を築いた。外交に長け、サンフランシスコ講和条約締結にも成功し、憲政の常道に基づく、経済成長重視政治の基礎を築いた。
書斎
応接から階段を上ると吉田茂が執務を行なっていた書斎が。
黒電話
書斎の奥には官邸に直結している黒電話があったそうです。
礎石
食堂
食堂解説
サンルーム
火事で唯一焼け残ったのはこちらのサンルーム。写真の右上をみると焼け焦げた跡があるのがわかります。
金の部屋
3階に上がるとそこには金銀の部屋が2つあります。
金の部屋からの眺め
相模湾から箱根や富士山の見事な眺望です。
富士山
うっすら見えますか?
銀の部屋
銀の部屋は寝室です。吉田茂もこの部屋で亡くなられたそうです。
庭園
七賢堂
元々明治の四元勲(大久保利通、岩倉具視、三条実美、木戸孝允)を祀ったものだったところに二人(伊藤博文、西園寺公望)が加えられ、最後は死後吉田茂自身も追加された七賢堂となったそうです。
七賢堂解説
庭からの全景
旧吉田茂邸には吉田茂の銅像もあります。非常に立派な銅像なので一見の価値あり。ちなみにその実績でもあるサンフランシスコ講和条約の地であるサンフランシスコの方角を見つめているそうです。
動画
吉田茂
解説
大磯は明治の元勲たちの別荘地として反映するのですが、代表格はなんといっても伊藤博文邸の滄浪閣です。洋館と日本館を揃えた非常に大きなものでその後は李王朝の李氏、西武グループなどによって保有されていました。私も子供の頃中華料理店だった時代に親戚の集まりでよく来ていました。
西武グループ
西武グループによって作られた宴会施設。今は閉鎖され何にも利用されていません。
明治150周年記念公開
2018年の年末に記念公開されていたのですが、その資料ブースが滄浪閣前にありました。
四人
左から陸奥宗光、伊藤博文、大隈重信、西園寺公望
滄浪閣の隣にあるので「隣荘」と名付けられた旧西園寺公望邸です。
西園寺公望
西園寺公望の時代は和建築でした。
池田成彬
池田時代に洋館とされたそうです。ちなみに池田成彬は三井銀行出身の日銀総裁です。
解説
すでにマンションに開発されてしまった旧鍋島直大邸跡。 それだけ良い場所に立っているマンションとも言えます。滄浪閣と大隈重信邸に挟まれた場所です。
鍋島直大
幕末期の大名。肥前国佐賀藩最後の藩主。明治・大正時代の政府高官。侯爵。
早稲田大学の創始者として有名な大隈重信の邸宅跡もあります。ここにはブラタモリでもタモリさんが来ています。 今は隣の旧陸奥宗光邸と同様古河電工の大磯荘になっています。明治150周年で公開されていましたが、今回、国に寄贈されたそうなので今後どのように利用されるか楽しみです。
正面玄関
明治期にも大磯に多くの客がやって来ていたそうで自動車の車寄せがあるのが象徴的ですね。
車寄せ
大広間
富士の間と呼ばれる宴会用の広間の建物
解説
宴会好きだった大隈の性格を表し、玄関を入るとすぐに大広間で毎晩宴会が繰り広げられたそうです。
庭園
解説
当時の間取り
現在の間取り
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坂本龍馬の海援隊出身のカミソリ外相陸奥宗光の別荘も大磯にあります。山縣有朋と大隈重信の間に位置しています。 現在は大隈重信邸同様古河電工により所有されていたものが国庫に寄贈されたそうです。
玄関
聴漁荘
右から読みます。
和室付近
中央部の和室付近
庭園
隣は大磯中学
隣は磯中のテニスコートです。庭からのぞけます。
解説
当時の間取り
現在の間取り
陸奥宗光
日本の武士、外交官、政治家。明治初期に行われた版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に大きな影響を与えたそうです。また、カミソリ大臣として、第2次伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正に辣腕を振っています。
旧山縣有朋の邸宅跡は今大磯中学校となっています。私の母校でもあります。校舎からは相模湾が凄いビューで見えますし、授業中はいつも相模湾奥を通るタンカーを数えていました。
登校門
この東海道の松並木の前にある門をくぐって登校します。
陸奥宗光邸宅からの中学校
なんと陸奥宗光邸の隣が中学校のテニスコート。当時はそんなこと知りませんでした。
山縣有朋
長州藩士で明治政府でも活躍した軍政家。高杉晋作の奇兵隊で頭角を頭角を現し、その後日本の陸軍を整備することに尽力。また政治家としては総理大臣も2度務めています。
旧東海道であり現在も国道1号線の下りの両脇には旧東海道を偲ばせる松並木が残っています。そして照ヶ崎への道から続くこの周りに明治の元勲たちの別荘が続いているのです。
東海道の老松
明治元勲たちの別荘
大磯中学から下に向かって順に、山縣有朋、陸奥宗光、大隈重信、鍋島直大、伊藤博文、西園寺公望と並んでいます。
大磯が日本最初の海水浴場となった場所、照ヶ崎海岸です。岩場であり今のイメージから海水浴場?って感じなのですが、ブラタモリでも解説されていたように当時の海水浴は湯治だったので棒に捕まって浸かったりしていたようです。
当時の海水浴写真
海水浴場発祥の地の碑
松本順医師の恩碑
徳川慶喜のお抱え医師だった松本順医師が、背後に山があり風が強くないこの地を海水浴に適した場所として選びました。
照ヶ崎を中心とした別荘地
まさに海水浴を中心に別荘が広がっています。
歌舞伎役者
松本医師は人気歌舞伎役者を連れてくることで大磯の海水浴場を有名にすることを試みました。
当時の海水浴浮世絵
崇雪の発言を踏まえて湘南と呼ばれるようになったことをふまえ、鴫立沢のすぐ隣の国道1号線沿いに「湘南発祥の地」の石碑が建てられています。
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西行法師の「鴫立沢の秋の夕暮れ」の句で有名な鴫立庵。当時は句会などを開く場所だったそうです。そしてここに湘南地方が「湘南」と呼ばれるようになったきっかけとなる石碑があります。
石碑
実は現在鴫立庵はあまりにも多くの石碑がある場となっています。その一番奥の奥の「鴫立沢標石」のしかも裏側に「湘南」の文字が。
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崇雪という歌人が、「この地は素晴らしい、中国の湘南地方の形式のようだ」と謳ったそうなのですが、そのことが彫られています。 正式には「著盡湘南清絶地」と刻まれているそうです。 そしてこのことが神奈川県南部の地域が湘南と呼ばれるようになったきっかけなのです。 そういう意味ではこの石碑が湘南のはじまりなわけです。
「湘南」
拡大してみると「湘南」の文字がかすかに見て取れます。
鴫立庵
鴫立沢に立つ鴫立庵
鴫立庵
全景
大磯に鉄道が通るのは明治20年。これも別荘地の発展に寄与しています。というより、実は当初駅設置の予定はなかったそうですが、海水浴場を設置することを意図していた松本順医師の提案により駅が設置されたとのことですから、今で言うところのビーチリゾート開発が行われたということなのでしょう。新橋→桜木町の鉄道開通が明治5年ということで、横浜→国府津の開通に合わせてのことです。
駅古写真
駅舎
大磯迎賓館の中に飾られている写真
解説
大磯駅前にすぐある目立つ建物は実はピザ屋さん。表参道にあるバンブーのグループによって運営されています。 建物は明治の洋館で、設計は東京駅丸の内口の設計者と同じで明治の名建築家「辰野金吾」。 今回のブラリ、ランチはここで食事がふさわしいか。
ライトアップ
食事をしなくてもライトアップだけは楽しめます。
シラスのピッツァ
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政治家、伊藤博文の料理長として活躍した創業者が、伊藤公から「松月」という屋号を拝領し明治36年に開業した料亭です。 加賀の名料亭出身だったので料理は逸品。 「一夕、公とともに松林を逍遥の折、かねて誓願の料亭建造をここにせよとご指定、時あたかも月の掲ぐるを眺め『松月』と命名」されたそうです。 夕食まで食べるならやはりこちらでしょう。
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玄関
テーブル席
テーブル席も用意されています。