
横浜・日本大通界隈で見つけた「日本の初めて」
神奈川横浜・日本大通界隈で見つけた「日本の初めて」
まいどまいど! 南京町(兵庫県神戸市)や長崎新地中華街(長崎県長崎市)と並ぶ日本三大中華街として名高い神奈川県横浜市。 ここは、一般的に中華街と呼ばれ、国内外問わず、ぎょうさんの観光客が訪れてはりまんな。 その他にも横浜みなとみらい21、横浜スタジアムなど、見どころはぎょうさんありますが、その中でも、現在の横浜が発展するその礎を築いたのが横浜港。 1241年に現在の横浜港の前身にあたる横浜湊が開港して以来、1859年に本格的に開港し、海外からぎょうさんの人が訪れ、横浜の街を行き交い、ぎょうさんの「もの・文化」が誕生しました。 例えば、それまでの日本には無かった食パンやアイスクリーム、洋裁業、消防・救急、ホテルなどが上陸し、人々を驚かせました。 また、ぎょうさんの外国人が住み暮らした居留地が整備されたことで、まちにはぎょうさんの洋風建築ならびに近代建築物が建てられ、その独特な外観からまるで海外を訪れたかのような雰囲気を漂わせてはります。 諸説ありますが、それらの横浜発祥・横浜元祖・横浜文化などなどの横浜らしさを日本大通界隈で見つけてきましたので、ぜひ、参考にしておくれやっしゃ~。
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キングの塔(神奈川県庁本庁舎)、クイーンの塔(横浜税関)、ジャックの塔(横浜市開港記念会館)は横浜三塔。 キングの塔は、横浜港の守り神・伊勢山皇大神宮の分霊を祀る。 愛称は、入港する船の外国人船員達がトランプのカードに例えて命名。 現在、この三塔を同時に眺望できるスポットを全てまわると願いが叶う都市伝説「横浜三塔物語」がある。 2007年、横浜観光コンベンション・ビューローは3月10日を横浜三塔の日と制定。 神奈川県庁舎は、1929年に発生した関東大震災で焼失した旧県庁舎の再建にあたり、小尾嘉郎の案を元に、設計は神奈川県内務部(成富又三)、建築顧問は佐野利器。 登録有形文化財(建造物)に登録。
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2003年、関東大震災以降の歴史資料など、横浜市の発展のあゆみを展示する博物館が開館。 テーマは、「都市形成」「市民のくらし」「ヨコハマ文化」。 1929年、建物は旧横浜市外電話局、横浜中央電話局として建築された。 設計は、建築家で逓信省・郵政省の営繕組織を率いた逓信省技師の中山広吉氏。 建物の外壁の全面には濃茶色のタイルが貼られ、古典主義様式の構成。 戦後、横浜市外電話局、NTT横浜情報案内センターとなった。 2000年、建物は「旧横浜市外電話局」として横浜市認定歴史的建造物に認定された建造物。
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2003年、横浜市にゆかりのある江上波夫氏が寄贈した考古学・歴史学・民族学・美術関係の資料を展示している博物館として開館。 テーマは、ユーラシア諸地域の多彩な文化と人々の「砂漠と草原」「色と形」「技」「装う」「伝える」。 1929年、建物は旧横浜市外電話局、横浜中央電話局として建築された。 設計は、建築家で逓信省・郵政省の営繕組織を率いた逓信省技師の中山広吉氏。 建物の外壁の全面には濃茶色のタイルが貼られ、古典主義様式の構成。 戦後、横浜市外電話局、NTT横浜情報案内センターとなった。 2000年、建物は「旧横浜市外電話局」として横浜市認定歴史的建造物に認定された建造物。
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1929年、建物は旧横浜市外電話局、横浜中央電話局として建築された。 設計は、建築家で逓信省・郵政省の営繕組織を率いた逓信省技師の中山広吉氏。 建物の外壁の全面には濃茶色のタイルが貼られ、古典主義様式の構成。 戦後、横浜市外電話局、NTT横浜情報案内センターとなった。 2000年、建物は「旧横浜市外電話局」として横浜市認定歴史的建造物に認定された建造物。
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横浜情報文化センターは、日本新聞博物館や放送ライブラリー、多目的ホール、オフィススペースがある複合施設。 1929年、関東大震災が発生し、市内商工業界の復興事業で商品陳列所の設置を目的として建築された旧横浜商工奨励館。 旧館部分は4階建、新館部分は12階建。 旧館部分は、「横浜市認定歴史的建造物」に認定。 1階と2階には商品陳列所、3階には各種事務所と貴賓室、4階には横浜商工会議所、屋上には横浜港や催し物を楽しめる施設があった。 性能対エネルギー比の良い半導体チップについての国際シンポジウムCool Chips(en:Cool Chips (symposium))の会場にもなった。
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1890年、横浜電話交換所として日本で初めてとなる交換業務を交換手4人で開始した。 横浜の加入者は42人で、市内通話の料金は年間35円の定額制であったとか。
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1860年、日本で初めてとなるパン屋「富田屋」が開業した。 江戸幕府が設置した外国人日用食品街で、フランス人に製法を教わった内海兵吉氏が創業した。 その後、イギリス人のクラーク氏によって「ヨコハマベーカリー」が開業し、そこで製法を教わった打木彦太郎氏が元町で「ウチキパン」を開業させた。 富田屋が販売していたフランス流のパンは焼きまんじゅうのような形をしていたとか。 ウチキパンが販売していたイギリス流のパンは山の形をした食パンであったとか。
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1859年、横浜港開港と同時に関税業務や外交業務などを扱う神奈川運上所が神奈川奉行によって設置。 通関業務、船の入出港手続き、洋銀両替、各国領事との交渉、違法行為取締りなどの業務を行った。 1871年、神奈川運上所が横浜運上所に改称。 1872年、横浜運上所を横浜税関に改称。 1934年、横浜税関の本関庁舎(クイーンの塔)竣工。 神奈川県庁(本館(キングの塔))前に碑が建立。
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1854年、江戸幕府と米国が締結した条約。 別名、神奈川条約。 日本側全権は林復斎(大学頭)、米国側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリー。 日本は下田と箱館(現在の函館)を開港、鎖国体制は終焉を迎えた。 1842年、アヘン戦争で清国が敗北、江戸幕府は諸外国の船舶を帰国させることを目的に異国船打払令から薪水給与令に改めた。 1853年、フィルモア米大統領の命を受けたペリー提督は艦隊(黒船)を率いて日本に来航、大統領の開国・通商を求め、幕府に開国・通商を求めたが、幕府側が1年の猶予を求めたため一時退去。 再度、来航して江戸湾(東京湾)へ入港し、幕府は応接所を設置、日米和親条約を締結、調印。
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1981年、開館した。 1931年、旧英国領事館であった。 明治時代から昭和時代にかけて日本に出版された外国語と日本語の新聞などが展示。 植えられているタマクスの木はマシュー・ペリー来航時の記録画にも描かれ、横浜開港のシンボルとして知られている。 開国博Y150のマスコットキャラクター「たねまる」もタマクスの木の精であるとか。
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正式名称は、シルクセンター国際貿易観光会館。 横浜港における生糸・絹産業及び貿易の振興、観光事業の発展を目的とした施設。 開港当初、イギリスの貿易商社ジャーディン・マセソン商会のオフィスがあり、英一番館と呼ばれた。 1959年、横浜開港100周年を記念してオープン。 かつて、シルクホテルがあり、横浜港を代表するホテルとして世界的にも知られていた。 1998年、創業・ベンチャー企業向けのインキュベート施設「SOHO YOKOHAMA INCUBATION CENTER」が開設され、「横浜シルクセンターSOHO」となった。
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1854年、マシュー・ペリー提督は、応接所で日米和親条約を締結した。 江戸幕府に献上するため、汽車模型の試運転、電信の送信実験が行われた。 幕府側は当初、「鎌倉か浦賀を交渉の場としたい」としていたが、ペリー側は「首都である江戸」をと希望し、幕府側は妥協した。 1882年に築造された煉瓦造りのマンホールと下水道の遺構は国の登録有形文化財に登録。 園内に展示・保存されている大砲は、外国人居留地90番地のスイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会が扱っていたもの。 内の時計塔は1891年、大さん橋に立てられたポールを模したもの。 横浜市主催の第1回まちなみ景観賞を受賞。
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1875年、日本の近代郵便制度が創設され、外国郵便は在日外国郵便局が扱っていたが、アメリカ郵便局の業務が横浜郵便局に移管され、日本政府の所管となった。 現在、外国郵便創業の局として知られている。
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1894年、現在の横浜銀行協会の前身にあたる横浜銀行集会所は、横浜の銀行業界の社交施設として設立。 当初、弁天通4丁目に位置していた、加盟銀行の増加に伴い建物が手狭になったことからを受けて、弁天橋際の本町6丁目84番地(現在の横浜市庁舎所在地)に移転。 設計は建築家の遠藤於菟氏。 横浜銀行集会所は、1905年に事務所を設立した遠藤の第1作。 建物は煉瓦造り2階建。 階段の踊り場部分には鉄筋コンクリートが導入。 デザインは当時ヨーロッパで流行していたという新様式アールヌーボーを採用。
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愛称は、「ジャックの塔」。 神奈川県庁本庁舎(キングの塔)、横浜税関本関庁舎(クイーンの塔)とともに「横浜三塔」の一つに数えられる。 1909年、横浜港開港50周年記念事業として、1913年に計画され、1917年に完成。 1927年、関東大震災により全焼したが、復元され、国の重要文化財に指定された。 現在、横浜市中区公会堂となっている。 設計は福田重義と山田七五郎。 建築様式は、辰野式フリークラシックの様式が採用され、時計塔の高さは約36m。
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現在は町名の一つとなっており、弁天通1丁目から弁天通6丁目まで存在する。 江戸時代、1859年の横浜港開港に伴い、建設された日本人居住区の一角。 当初、北西から順に2丁目から5丁目まで置かれたが、1871年に南東から順に1丁目から6丁目に改められた。 当初は横浜町、1878年に横浜区、1889年に横浜市、1947年からは横浜市中区の町名となる。 町名の由来は横浜村の鎮守である洲干弁天社に通じる道沿いであったことに由来。 1869年、洲干弁天社は中区羽衣町に遷座している。
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上野彦馬や鵜飼玉川らと並ぶ日本最初期の写真家(写真師)、画家。 1823年、静岡県下田市生まれ。 号は蓮杖、通称は久之助 父は浦賀船改御番所の元、下田問屋六十三軒衆の一人。 幼少期、江戸で絵師を目指すも日本橋横山町の足袋問屋で丁稚奉公。 1843年、下田奉行所の臨時下田御台場附足軽に就職。 上役の取次を得て江戸に向かい、伊豆出身の狩野菫川に入門。 菫円(園)、菫古、全楽堂、伝神楼とも。 師の用事で旗本家に出向き、オランダ船の1枚のダゲレオタイプを見て、蓮杖は写真術を学ぼうと決心。 恩を忘れないため「菫」の字が蓮の根を意味することから5尺3寸の唐桑の木で蓮根の形を表した杖を作って持ち歩いた。
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蓮杖
そのため蓮杖と呼ばれるようになり、自身も名乗った。 写真術を学ぶため浦賀奉行の足軽として浦賀平根山台場の御番所警衛係の職を得た。 日米和親条約で下田が開港、船で下田に帰省中、安政東海地震に遭遇。 下田では米国人が多く利用する市場「漂民欠乏所」があり、足軽として外使への給仕役として勤務。
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横浜開港
横浜開港の談判のため来日したタウンゼント・ハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンから、写真術の原理や基本概要を学ぶ。 下田開港場は閉鎖、菫川の江戸城再建に伴う絵画制作のため江戸に行く。 横浜で雑貨貿易商を営むユダヤ人レイフル・ショイアーの元で勤務。 ショイアーの妻アンナは画を好み、蓮杖の日本画を高く評価、蓮杖はアンナから西洋画法を学び、蓮杖はアンナに日本画法を教えた。
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日本の景色風俗のパノラマ画
米国の写真家ジョン・ウィルソンが寄宿し、蓮杖に写真術を授けた。 宣教師・S・R・ブラウンの長女・ジュリア・マリア・ブラウン(後のラウダー夫人)がウィルソンから写真術を学び、蓮杖はジュリアを通じて写真術を学ぶ。 ウィルソンは写真機材や薬品と蓮杖が描いた日本の景色風俗のパノラマ画と交換し、ウィルソンはロンドンでパノラマ画の展示会を開く。
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石版印刷業、牛乳搾取業、乗合馬車営業
1862年、蓮杖は横浜で写真館を開業。 当初、日本人は写真を撮影すると寿命が縮まるとされ、客の多くは外国人であった。 一方、箱館戦争、台湾出兵などのパノラマ画を描く。 石版の技術を有していた米国の建築技師リチャード・ブリジェンスから石版印刷を学び、石版画「徳川家康像」を制作、日本における石版印刷業、牛乳搾取業、乗合馬車営業の開祖となった。
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1922年、川崎銀行横浜支店として建設された。 設計は、川崎銀行の本店・支店の建築を数多く手掛けた矢部又吉。 矢部は隣接する横浜正金銀行本店(神奈川県立歴史博物館)を設計した妻木頼黄に師事していた。 建物はネオルネッサンス建築。 1階にはイタリアに多い「ルスティカ積み」。 1989年、ファサード保存として建物の一部が残される形で改築が完工した。 横浜市認定歴史的建造物の第1号として認定された。 1990年、日本建設業連合会主催の第31回BCS賞を受賞した。
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1968年、神奈川県立博物館として開館。 1995年、自然科学系の分野を小田原市の神奈川県立生命の星・地球博物館に移設し、歴史博物館となった。 横浜の貿易商であった丹波恒夫の浮世絵コレクションなどを所蔵。 建物は、明治時代に建設された横浜正金銀行本店。 設計は妻木頼黄。
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旧横浜正金銀行本店本館
1923年、関東大震災により建物のドームが焼失。 1947年、横浜正金銀行を引き継いだ東京銀行が発足し、東京銀行横浜支店として使用。 1964年、神奈川県が関東大震災で焼失したドーム屋根の復元を行い、博物館を開館。 建物が「旧横浜正金銀行本店本館」として国の重要文化財に指定。
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