
オレンジストリートに遊びに行こう!四ツ橋と新町遊郭の歴史も探検
大阪オレンジストリートに遊びに行こう!四ツ橋と新町遊郭の歴史も探検
まいど! 江戸時代の大坂は天下の台所。 全国から米を中心とした食材・物資が集まり、取引が活発に行われていました。 当時の大坂には全国から集まった藩の蔵屋敷が乱立、荷物を運搬する船が行き来しやすいよう、町民によって道頓堀川や長堀川など、人工の川を新たに開削した。 大阪市西区では、木材を主に取り扱う市場などが登場、経済都市・大阪としての礎を築きました。 せやけど、時は明治、大正、昭和へと移り変わり、天下の台所・大阪から工業都市・大阪へと変貌を遂げていくこととなりまんねん。 名を大大阪(だいおおさか)。 大阪には工場が乱立し、東洋のマンチェスター(煙の都)と呼ばれ、東京市を抜いて世界でも6番目に並びました。 昭和時代、船だけでなく、飛行機・鉄道・自動車へと運搬方法が多様化し、町民によって開削された長堀川は埋め立てられ、自動車が走る長堀通へと姿を変えました。 同時に世界で初めてとなるリニアモーターカーの技術を取り入れた地下鉄の長堀鶴見緑地線が開通。 今後のさらなる発展が期待されている街。 それが、大阪市西区でんねん。 岩崎弥太郎による三菱財閥発祥のまち大阪市西区を散策してみまひょ!
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江戸時代、「橘通り」と呼ばれ、家具屋筋として存在していた。 明治時代、古道具屋が増えていた。 現在、「オレンジ通り」と呼ばれ、全長約800mある。 アメリカ村の西に位置し、インテリアショップ、ファッションブランドが多い。 通称、「オレンジストリート」とも呼ばれ、毎月第2日曜日にはフリーマーケットが行われる。
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1174年、宮廷行事であった相撲節会は廃止された。 1702年、大坂の最初の興行はここで、行われたという。 その後、四季8日の相撲が定例化し、東京の相撲集団と合併して、大日本相撲協会へと発展した。
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1816年、文人で勤皇志士だった藤井藍田が大阪で生まれる。 その後、家業「綿屋」を継ぎながら、田能村竹田に画を学び、広瀬淡窓に詩文を学んだと言う。 1856年、この地に私塾玉生堂を開いた。
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店先には多くの自転車が止められ、何やら、多くの人の姿が。 窓には、子供から大人まで、幅広い年代で愛されてきた人気アニメ「ドラえもん」の主人公のドラえもんやのび太、しずかちゃん、スネ夫、ジャイアンの姿が描かれていた。 気になったので、立ち寄ってみることにしましょう。 見上げて見ると、 え!顔? 多くの人の顔が所狭しと並んでいて、なんだか奇妙に感じました。 そんな不思議な看板に引き付けられて、店内に入ってみましたが、やっぱり、店内も不思議な感覚。 商品も、キッチン用品から、リビング&ダイニング用品、DIY用品、HOBBYなど幅広く、特に、青や赤などカラフルでポップな商品が多く並ぶ。
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おしゃれな雰囲気が漂う店内。 お昼からでもお酒を楽しむことができる。 ランチに、「カツカレー」を注文。 トッピングに選んだのは、豚かつ。 香ばしいカレーをいただきながら、素敵な雰囲気を過ごす。
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旧社格は郷社で、稲荷神として宇賀御魂大神を祀る。 創建の由緒は不詳。 1570年代、創建。 1717年、藩主山内豊隆が社殿を造営して蔵屋敷の鎮守社とした。 明治初年、土佐藩蔵屋敷とともに当社は岩崎弥太郎に譲り渡された。 岩崎弥太郎は当地で事業を営み、三菱の発祥の地となる。 境内は、江戸時代より桜の名所として知られる。 また、岩崎弥太郎の邸宅跡を示す碑があり、神紋には三菱グループを表すスリーダイヤが入っている。 第12代横綱陣幕久五郎が寄進した狛狐が現存する。
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三菱財閥発祥の地
玉垣には、大手三菱グループを中心とした名が刻まれている。
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なにわちょろけん
大阪府大阪市中央区に本社を置く一創堂の商品「なにわちょろけん ちょろけん飴」。 「ちょろを見る人 福来る」。 なにわちょろけんとは門付け芸のキャラクター。 特徴はシャッポを被って、大きな寸胴に描かれた顔は舌を出している。 大阪弁の「ちょける(おどける・ふざけるの意)」の語源とも。 江戸時代、町中を「ちょろが参じました ちょろを見る人福徳来たる 厄難厄病皆取り払う」と囃しながら歩くという。
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なにわちょろけん
江戸時代の大坂は天下の台所ともいわれ、日本中の名産品が集まっていた。 大坂・土佐堀にも船によって全国から多くの名産が運び込まれ、荷揚げ。 現在、土佐藩の蔵屋敷があった場所には「土佐稲荷神社」が鎮座。 浪花の「ちょろけん」と土佐の「芋けんぴ」がコラボレーションし、「ちょろけんぴ」も販売。
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1736年、木村蒹葭堂は、酒造家に生まれた。 物産本草学(博物学)に精通した。 その他、オランダ語やラテン語を学び著作や画も残っている。 彼の名は博学多芸の代名詞ともなり、文人墨客との交遊が広かった。 また様々な種類のコレクションも残している。
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1625年、長堀川が運河として開削された。 東横堀川から分流し、西に流れ、木津川に注いでいた。 全長約2.4km、幅は約44mであったと言う。 西横堀川以西は西長堀とも呼ばれていたと言う。 1970年、埋め立てられた。 また、土佐高知藩の蔵屋敷は、鰹座橋とその西の玉造橋の中間、西長堀川両岸一帯を占めていたと言う。 鰹座橋はそのため土佐橋・土佐殿橋とも呼ばれたが、もともと右岸に土佐の国産である鰹節を売買する鰹座があったため、鰹座橋と名づけられたものだと言う。 旧西長堀川両岸は江戸時代以来の材木問屋街でもある。
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かつて、この地を流れていた長堀長堀川と西横堀川がここで交差していた。 その交差する地点を4つの橋が「ロ」の字型に架けられた。 橋は、上繋橋、下繋橋、炭屋橋、吉野屋橋である。 地元では、四ツ橋と呼ばれ、親しまれていた。 現在は、埋め立てられ、長堀通と四つ橋筋の交差点名となっている。 かつてこの付近には大阪市立電気科学館が立っていた。 1937年、東洋初のプラネタリウムとして親しまれていた。 1965年、地下鉄四つ橋線の四ツ橋駅が完成する。
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1616年、浪人だった木村又次郎氏が幕府に遊郭の設置を願い出た。 1672年、西横堀川に新町橋が架けられた。 廓の中心であった瓢箪町筋にあったため、「ひょうたんばし」とも呼ばれていた。 井原西鶴や近松門左衛門らの作品の舞台ともなっていた。 1872年、橋長21.8m、幅3.6mの鋳鉄製構アーチに架け換えられた。 1875年、改造がなされた。 1927年、鉄筋コンクリート製のアーチ橋に架け替えられた。 1971年、西横堀川の埋め立てにより姿を消した。 現在、碑だけが当時のにぎわいを物語っている。
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初世中村贋治郎・生誕の地
中村贋治郎の本名は、林玉太郎。 ここにあったとされる揚屋「扇屋」に生まれたと言う。 父は、3世中村翫雀。 近代の上方歌舞伎界を代表する名優といわれるようになった。
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間長涯天文観測の地
間長涯は町人天文暦学者である。 当時の暦は、実際の太陽の運行との間に差異が大きく、幕府も改暦に着手し、長涯もこれに参画した。 1797年、完成し、英国製の観測器具を用いて、天文観測に従事した。
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1600年代後半に架けられたとされる。 富田屋という名前の由来は、当時、土地の豪商だった富田屋の屋号にちなんだもの。 大正時代に架けかえられ、昭和初期には、改修により、照明灯などが鋼鉄製に取り換えられた。 1960年代後半、埋め立て工事により、橋が撤去された。
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1655年、近世三大遊里の一つとして親しまれたと言う。 他に、島原(京都)や吉原(江戸)がある。 当時、大阪唯一の公認の遊所であったと言う。 九軒と言う名前の由来は、玉造の九軒茶屋を移したからだとか。 井原西鶴や近松門左衛門の作品に登場する吉田屋は、戦災前まであったとされる。 また九軒町の夜桜としても有名であった。
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1832年、長瀬伝兵衛が複合商社として鱗形屋を創業した。 主に化成品・医薬品事業を中心としている。 1928年、建設された。
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通称、「ウェルシティ大阪」と呼ばれている。 1968年に大阪府最大級のコンサートホールとして完成した。 大ホールや芸術ホール、レストランなどがあり、ミュージカルや演芸などが行われている。
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新町演舞場に関しては、かつてこの地にあった新町遊郭の歴史に遡る。 1616年、浪人だった木村又次郎氏が幕府に遊郭の設置を願い出た。 1627年、江戸幕府公認として大阪唯一の新町遊郭としてにぎわい始める。 その後、歓楽地が松島新地へ移行し、新町周辺は商店街となった。 その遊郭にあった一つに新町演舞場がある。 現在、大阪屋本社社屋として利用されている。
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1620年代、土佐藩の申請によって材木市が立売堀川で始まり、 やがて土佐藩が蔵屋敷を白髪町にかまえると西長堀川でも材木市が許可される事になったと言う。 全国各地の材木が集まるようになり、川の両岸には、材木を扱う店が軒を並べるようになったと言う。 このあたり一帯は、江戸時代から昭和時代に至るまで, 年中材木市が開かれてたと言う。 1960年以降、埋め立てられ、川は姿を消したが、現在でも、多くの材木商の看板が残っている。
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問屋橋跡
1625年、長堀川開削のときに問屋橋は架けられた。 江戸時代初期、問屋橋周辺には木材の問屋が立ちなた美、問屋の手によって架設されたことが由来。 1925年、橋長35.6m、幅員9.2mの鋼板桁橋に架け替えられた。 1967年、四ツ橋から木津川間の西長堀川埋め立てと共に、姿を消した。
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1927年、鴻池組によって建設された。 1961年、南館は戦災により焼失した部分を再建した。 北館は、当時のまま残っている。
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江戸時代、大阪は天下の台所として栄え、全国から米などを中心とした物資が船によって運び込まれた。 市内は、立売堀川などが開削され、その多くは市民の手によって工事が進められた。 1620年代、薩摩堀川は薩摩屋仁兵衛氏によって開削された。 昭和に入り、埋め立てられたが現在は公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれている。