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福沢諭吉誕生地
1835年、大阪市福島区(大坂堂島浜)にあった中津藩蔵屋敷で、下級藩士福澤百助・於順の次男として生まれた。 日本の武士、著述家、啓蒙思想家、新聞時事新報の創刊・発行者、教育者、東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。 また、専修大学(当時の専修学校)の創設にも尽力した、明治の六大教育家の一人である。 1855年、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が大阪市・船場に開いた蘭学の私塾である適塾に通うこととなる。
五代友厚精藍所・西朝陽館跡碑
1835年、鹿児島県で五代友厚が生まれる。 明治時代初期、大阪の経済が低迷していた。 1865年、ヨーロッパ諸国を視察し、貿易に関心をもった。 大阪に戻り、鉱山・紡績・鉄道事業に手をひろげた。 当時、国産の藍は質が悪かったので、インドからの大量輸入に頼っていたと言う。 それに対抗するため製法に研究努力を重ね、従業員300名を越す近代的製藍所を建設した。 1883年、製品は欧米各地に輸出されたが、後に閉鎖された。
淀川から分流してきた大川は大阪市内中心部を流れ、大阪市役所がある中之島で、堂島川と土佐堀川に分流する。 その堂島川に面した場所に石碑が建立。 中津藩豊前国中津藩(大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と妻・於順の次男(末子)として生まれ育った。
逆櫓の松跡
かつて、この付近にあったとされる老松。 源平合戦において、この老松の下で源義経と梶原景時が論争した事で知られる。 1185年、源頼朝から平家追討の命を受けた源義経が摂津国の港・渡邊津に軍を集めた。 源義経と梶原景時がこの地で出会う。 暴風雨のため、景時は出航を見合わせようとするが、義経は出航する。 義経勢は阿波国勝浦に到着し、平家の軍が居た屋島を急襲した。 現在、逆櫓の松址碑が建てられている。
大阪開港の地
1853年、大阪港として開港した。 江戸時代、「天下の台所」と言われ栄えていた大阪の船着場の一つである。 幕府の官用地として船番所・船蔵や、船奉行をはじめ与力・同心などの屋敷があったと言う。 その後、機能を大阪市港区へ移転した。
長州藩蔵屋敷跡
加賀屋当主の広岡九右衛門が蔵元を務めた。
大村益次郎先生寓地址
儒学、蘭学、医学、西洋兵隊学に通じ、幕末から明治維新にかけて日本の近代化に非凡な才能を発揮した。 長州藩(現・山口県)の医師だったという。 長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。 1849年から大阪市西区にある倉敷屋作衛門の座敷に住みながら緒方洪庵の適塾で医学を学び、後に明治新政府の兵部大輔(兵部省次官)となり、近代国家の制定に貢献した。
宮武外骨ゆかりの地碑
明治から昭和期に活躍したジャーナリスト。 新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家でもある。幼名は亀四郎。 1867年、香川県綾南町小野に生まれた。 "外骨"と言う名で、亀四郎の亀は"外骨内肉"の動物であることにちなみ、自ら正式に改名したもの。 晩年の外骨と生活をともにし、外骨の伝記や復刻本を多数刊行、近代史関係の著作もある吉野孝雄は甥。
野田城跡
#史跡
大和田城跡
小説「泥の河」舞台の地碑
中天游邸跡
江戸時代に活躍した日本の蘭方医、蘭学者である中 天游。 1783年、京都府・丹後に生まれた。 江戸で、大槻玄沢の私塾・芝蘭堂に入門。 のちに稲村三伯より蘭学や蘭方医学を学んだ。 大坂に移り、靭本町で町医者として開業した。 その後、江戸堀に移転した。 弟子の一人に、緒方洪庵がいる。
大阪商業講習所跡
波除山跡
弁天東公園内に設置されている碑。 1684年、淀川の治水対策として河村瑞賢が幕命をうけ九条島を開削し、新川(現在の安治川)を通した。 その時の土砂を南岸に積み上げてできたのがこの山である。 現在は平坦化されている。
名村造船跡
2007年、国の近代化産業遺産に認定。 2009年、近代化産業遺産(名村造船所大阪工場跡地)を未来に活かす地域活性化実行委員会が発足。 北加賀屋クリエイティブビレッジ構想が始動し、現在はアートを中心にした各種の活動が展開。 クリエイティブセンター大阪は工場の移転後、休眠状態の敷地を活性化させる目的で設立。 敷地内にはライブスペースSTUDIO PARTITA、総合事務所棟と野外スペースなど、複数の会場がある。
木村蒹葭堂邸跡
1736年、木村蒹葭堂は、酒造家に生まれた。 物産本草学(博物学)に精通した。 その他、オランダ語やラテン語を学び著作や画も残っている。 彼の名は博学多芸の代名詞ともなり、文人墨客との交遊が広かった。 また様々な種類のコレクションも残している。
雑喉場魚市場跡碑
大坂三大市場の一つである雑喉場の魚市が300年続いた。
大阪市役所江之子島庁舎跡
1889年、市制・町村制により大阪市が成立した。 また、同時に施行された市制特例により、府庁内に市役所が置かれ、府知事は市長を兼務していたと言う。 1899年、府庁から市役所を独立させるため、この地に市役所を移転した。 1912年、大阪市北区中之島に移転した。
雙松岡塾跡
長崎県を拠点に活動していた大村藩(肥前国彼杵郡大村)が大阪市福島区に蔵屋敷を建立。 1861年、大村藩に所属していた松林飯山氏、三河刈谷藩の松本奎堂氏、仙台藩の岡鹿門氏らが中心となって塾を開校。 3名の名前を一字ずつ取って「雙松岡(そうしょうこう)」とした。 尊王攘夷思想を理由に、大坂町奉行所によって閉鎖に追い込まれた。
松瀬青々旧跡
1872年、松瀬青々は、船場の薪炭商の長男として生まれた。 本名は弥三郎。 北浜上等小学校を卒業後、丁稚奉公や呉服行商となる。 20代後半、子規と会い、勤めていた第一銀行を辞めて上京し「ホトトギス」の編集にあたった。 1900年、大阪へ戻り大阪朝日新聞社に入り朝日俳壇を担当。 1901年、「宝船」(のちに「倦鳥」と改題)を創刊。 1906年、当時の大阪市中央区北浜からこの付近に移った。
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