春帆楼 下関本店 (しゅんぱんろう)
山口県下関市阿弥陀寺町4-2豊前中津の藤野玄洋が伊藤家の紹介で眼科医院を開院。
玄洋の妻・みちは、割烹「春帆楼(伊藤博文が命名)」を開き、ふぐ料理公許第一号に認定された。
玄洋は奇兵隊の軍医を務め、長州の志士との親交を深め、伊藤博文や山縣有朋なども訪れた。
伊藤博文が宿泊した折、禁制であったふぐを手打ち覚悟で出したところ、大変、喜ばれ、当時の山口県令(県知事)に命じて、豊臣秀吉の頃から続いていたふぐ食の禁令を解いた。
日清戦争で敗北が濃厚になった清国が日本に講和を打診。
伊藤は講和会議を春帆楼で開催し、日本全権の伊藤と陸奥宗光、清国全権の李鴻章が両国の代表団を率いて講和会議に臨んだ。
下関条約(馬関条約)が締結された。