藩校跡
和歌山県和歌山市湊紺屋町1丁目江戸時代、紀伊国紀州藩によって設置された藩校、学習館。
徳川頼宣が登用した那波活所により、紀州藩の家臣に対する儒学教育を開始。
1713年、徳川吉宗は儒学振興のため、湊に講堂を開設。
仁斎学者・蔭山東門や朱子学者・祇園南海が講師を務めた。
1776年、徳川治貞は藩政改革の際、思想的統制を目的に仁斎学者・伊藤蘭嵎や朱子学者・祇園餐霞などの講釈日割を定めたが、天明の大飢饉により、廃止。
1791年、徳川治寶は湊の講堂を学習館として開校。
1792年、国学者・本居宣長が登用され、以後も宣長の子孫によって講釈が行われた。
1793年、学習館規則を定め、藩学は朱子学を含んだ広い定義の宋学とした。