関西が好っきゃねん
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勝竜寺城下町・長岡京をめぐる

勝竜寺城下町・長岡京をめぐる

まいどまいど! 京都の長岡京市といえばかつての日本の中心地「長岡京」としても有名で隣接する向日市や京都市と同様、長岡京当時の遺構やそれに関連する歴史が各地に点在してはります。 駅前には長岡京発見の地と題した石碑が建立され、長岡京の詳細が刻まれておます。 駅から少し歩いた場所には勝竜寺城跡を中心とする公園が整備され、自由に見学することができますねん。 緑豊かな園内には池があり、鯉が優雅に泳ぐそのそばには博物館。 特に2階は城や長岡京に関する歴史が展示されておます。 その他、周辺には遺跡や古墳が点在し、歴史にロマンを感じることができまっせ。 小畑川と犬川に挟まれた低位段丘上に立地する旧石器時代から江戸時代にかけての複合遺跡・神足遺跡。 弥生時代には環濠があり、内側には多数の竪穴建物や高床倉庫が立ち並んでいたとか。 遺物には石鏃、石剣などの磨製石器が見られ、集落内には石器の工房があったとも。 隣接する神足神社には陸上選手やサッカー選手など多くのスポーツ選手が参拝に訪れるとも。 馬の池公園にはかつて湧き水と三角の形をした小さな池があった。 小倉神社の祭りの際、稚児を乗せる馬を清めたとも。

神足神社
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神足神社

祭神は、産土神、舎人親王。 社名「神足」は「神の足」と表記されるため、陸上選手やサッカー選手など多くのスポーツ選手が参拝に訪れるとも。 800年頃、桓武天皇は夢の中で、田村(神足村の前身)の池に神が降臨し、宮中を南方から襲撃しようとした悪霊を防いだところを目撃。 それが縁で、田村に社を建てた。

勝竜寺城公園
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勝竜寺城公園

公園として整備された市民の憩いの場。 かつて当地には勝竜寺城が存在した。 城名は勝龍寺に由来。 勝龍寺城は小畑川と犬川の合流地点に位置し、西国街道と久我畷が交差する交通の要衝で、京都では山崎城につぐ防衛拠点であった。 1339年、南朝方に対抗する北朝方の細川頼春が築城。 一説によると山城守護畠山義就が郡代役所として築城。 1470年、軍事施設して使用された。 淀古城と共に松永久秀、三好三人衆の属城となった。 観音寺城の戦いで勝利した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛する前に柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ら4人の家臣に先陣を命じ、桂川を渡河し三好三人衆の岩成友通が守る勝龍寺城を攻撃させた。

勝龍寺
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勝龍寺

平安時代 、空海(弘法大師)によって開基。 元の寺号は恵解山青龍寺。 観音堂を始め九十九坊が建てられたとも。 大干ばつ大飢饉の年、住職千観上人の祈祷で雨が降り、龍神に勝ったという意味から「勝龍寺」と改名。 付近に築城された勝龍寺城の由来ともなった。

勝龍寺城大門橋
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勝龍寺城大門橋

勝龍寺城は1339年、南北朝時代後醍醐天皇を擁する南朝方は、男山八幡宮まで進出し、京を窺う情勢であった。 北朝方の足利尊氏は細川頼春(細川氏遠祖)とその弟師氏に命じて、京を守るために前戦基地として勝龍寺に土塁を持って周囲を囲む城塞を築いた。 784年、宇波多川(小畑川)は向日市から東流し、京都府伏見区で合流。 その河道を西南に移動して勝龍寺域の外堀の役目を果たしながら、大山崎町で桂川に合流させる河川工事を担当したのが弟の細川師氏。 1571年、織田信長の許可を得て細川藤孝(幽斎)は鉄砲戦術に対抗するため総構を拡張。 大手門、搦手を構築。 大手門に架かる橋を大門橋と呼んだ。

長岡京市立中山修一記念館
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長岡京市立中山修一記念館

考古学者、歴史地理学者として活躍した。 1915年、生まれ。 長岡京の調査・研究等に携わったことから「長岡京発見の父」とも。 長岡京跡発掘調査研究所所長、京都文教短期大学名誉教授などを歴任。

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