せやせや!関西が好っきゃねん
せやせや!関西が好っきゃねん

プランにスポットを追加しました

東の浅草、西の新開地

東の浅草、西の新開地

まいどまいど! 現在の兵庫県を代表する繁華街といえば、神戸の三宮。 ここには、JR神戸線の三ノ宮駅をはじめ、阪急線、阪神線、地下鉄線、そして、ポートライナーなどがひしめく一大ターミナル。 そんな三宮の駅前には商店街をはじめ、ぎょうさんの商業施設、横浜や長崎と並ぶ中華街の南京町の他、モダンで昔ながらの異文化な雰囲気が漂う北野など、見どころが満載でんねん。 そんな繁華街の三宮から少し離れた場所に位置する新開地という場所。 ここにはかつて市役所があり、神戸の中心地としてにぎわってはったんやとか。 また、新開地には昔、ぎょうさんの劇場があり、「東の浅草、西の新開地」とも謳われていたんやとか。 市役所の移転後は商店街の衰退に伴い、松竹座などが閉鎖され、観光客が激減してしもたようですが、最近、再び注目を集めるようになりまして、大阪の上方落語寄席の繁盛亭に並ぶ喜楽館が開業し、新たな賑わいの場所として観光客が集まるようになりました。 また、平清盛ゆかりの地としても知られ、新開地周辺には平清盛ゆかりの名所がぎょうさんおまっせ。 今回はそんな新開地を含む神戸市兵庫区を散策していきまひょ!

大倉山公園
U

大倉山公園

大倉山は小高い山として知られ、名称の由来は明治時代、御用商人として活躍し、一代で財閥を築いた大倉喜八郎氏が周辺の土地を別荘として買収後、神戸市に寄贈したことから。 大倉山はかつて安養寺山と称した。 大倉山の標高はかつて約55mであったが、山頂を公園や野球場に整備したため、現在では約40m。 園内には市内35県人会による「ふるさとの森」、大倉山公園野球場、神戸市立図書館、児童遊園などがある。 大倉喜八郎は1834年生まれ。 日本の武器商人、実業家。 渋沢栄一らと共に鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。 東京経済大学の前身である大倉商業学校を創設。

孫文先生の像
V

孫文先生の像

孫文は中華民国の政治家、革命家、思想家、政治運動家、初代中華民国臨時大総統、中国国民党総理。 1866年生まれ。 別名、中国革命の父、国父。 1894年、清仏戦争など政治問題に関心を抱き、ハワイで興中会を組織。 翌年、日清戦争終結後、広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫、日本に亡命。 1897年、宮崎滔天の紹介で政治団体玄洋社の頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。 1913年、孫文は袁世凱打倒の第2革命に敗れ、船で神戸に到着。 当時の川崎造船所社長の松方幸次郎らと面会、夜陰に紛れて川崎造船所から上陸し、諏訪山の常盤花壇別荘に身を潜めた。

橋本関雪の碑
X

橋本関雪の碑

兵庫県神戸市の大倉山公園内にある石碑。 日本画家として活躍。 本名は貫一。 1883年、楠木氏一門の橋本八郎正員の後裔・橋本海関・フジ夫妻の子として神戸市で生まれた。 中国の古典文学や風物を題材にした作品や「新南画」を確立。 1903年、父から漢学を学び、竹内栖鳳の竹杖会に入った。 1913年と1914年の文展で二等賞。 1916年と1917年の文展で特選を受賞。 帝展審査員、帝室技芸員、帝国芸術院会員となる。

伊藤博文銅像台座
Y

伊藤博文銅像台座

兵庫県神戸市の大倉山公園内にある伊藤博文公銅像台座。 銅像は太平洋戦争中の金属供出により撤去。 伊藤博文は初代兵庫県知事、初代内閣総理大臣。 初代は1904年に湊川神社本殿横に設置されたが、日露戦争の講和条約の内容に不満を募らせた民衆に引き倒され、姿を消した。 伊藤の暗殺後、親交のあった大倉財閥創始者、大倉喜八郎が再建し、2代目として神戸市に寄付。 銅像はフロックコートを着用、自身が起草の中心となった帝国憲法草案を手に持っていた。 台座の設計は、京都大学の時計台や京都府立図書館などを手掛け、「関西建築界の父」と呼ばれた武田五一。 弟子の一人、吉武東里がデザインしたとされる国会議事堂にも通じる。

坂本龍馬と神戸海軍操練所記念碑
Z

坂本龍馬と神戸海軍操練所記念碑

かつて神戸には海軍操練所があり、付近には「神戸海軍操練所跡碑」が建立。 1965年、神戸の開港、発展の先駆けとなった海軍操練所を記念して、神戸の財界や港湾関係者らが旧軍艦の錨を兵庫県に寄贈。 坂本龍馬も学んだとか。

ご利用のブラウザでは正しく画面が表示されない、もしくは一部の機能が使えない可能性がございます。以下の推奨環境でご利用ください。

推奨環境:Google Chrome 最新版、Safari 最新版