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方広寺(ほうこうじ)は、京都市東山区にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は盧舎那仏。通称は「大仏」・「大仏殿」・「大仏殿方広寺」。方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件)の引き金となった「国家安康」の梵鐘を有することで知られる。
2023年12月17日
豊国神社のすぐ北側にあるのは「鐘事件」で知られる方広寺があります。豊国神社も三十三間堂も このお寺の寺域だったと言いますからすごい広さを誇っていたのでしょうね。 秀吉・秀頼親子が足掛け26年の歳月をかけて造った大仏殿があったのもここ。今となっては、その基壇だった巨石が残るだけですが…。 神社からも見えるびっくりするぐらい大きな鐘楼…この鐘に刻まれた文字が家康の怒りに触れ豊臣家滅亡へとつながったのです。
2017年6月18日
豊臣家滅亡のきっかけとなった、「国家安康」の鐘があることで有名なお寺です。 方広寺は豊臣秀吉が東大寺大仏殿にならって創建しました。 お寺の建物は、慶長の大地震で倒壊。秀吉の死後、家康のすすめで茶々(淀殿)と秀頼が再建しました。
その時、この鐘の銘文に家康が怒り、「自分の名前を真っ二つにする不吉な銘文だ…!」と、クレームを付けました。 これが徳川VS豊臣、大阪の陣が始まるきっかけになったと伝えられています。
鐘に彫られた「国家安康、君臣豊楽」の文字はとても小さくめだたない…。わざわざ白く塗っています。塗っていないと気が付かないほどでした。
2016年11月7日
かつては豊臣秀吉が建立した大仏殿がそびえたっていた壮大な寺院であった。奈良、鎌倉に並ぶ巨大な大仏で、大仏殿は江戸時代の絵図にも度々描かれるほどであった。当時は三十三間堂や妙法院も含まれる広大な境内であったが、現在方広寺は豊国神社の隣にひっそりとたたづんでいる。当時の面影を見る事が出来るのは大きな梵鐘と石垣だけである。
2015年1月31日
2017年1月10日
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方広寺(ほうこうじ)は、京都市東山区にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は盧舎那仏。通称は「大仏」・「大仏殿」・「大仏殿方広寺」。方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件)の引き金となった「国家安康」の梵鐘を有することで知られる。
2023年12月17日
豊国神社のすぐ北側にあるのは「鐘事件」で知られる方広寺があります。豊国神社も三十三間堂も このお寺の寺域だったと言いますからすごい広さを誇っていたのでしょうね。
秀吉・秀頼親子が足掛け26年の歳月をかけて造った大仏殿があったのもここ。今となっては、その基壇だった巨石が残るだけですが…。
神社からも見えるびっくりするぐらい大きな鐘楼…この鐘に刻まれた文字が家康の怒りに触れ豊臣家滅亡へとつながったのです。
2017年6月18日
豊臣家滅亡のきっかけとなった、「国家安康」の鐘があることで有名なお寺です。
方広寺は豊臣秀吉が東大寺大仏殿にならって創建しました。
お寺の建物は、慶長の大地震で倒壊。秀吉の死後、家康のすすめで茶々(淀殿)と秀頼が再建しました。
その時、この鐘の銘文に家康が怒り、「自分の名前を真っ二つにする不吉な銘文だ…!」と、クレームを付けました。
これが徳川VS豊臣、大阪の陣が始まるきっかけになったと伝えられています。
鐘に彫られた「国家安康、君臣豊楽」の文字はとても小さくめだたない…。わざわざ白く塗っています。塗っていないと気が付かないほどでした。
2016年11月7日
かつては豊臣秀吉が建立した大仏殿がそびえたっていた壮大な寺院であった。奈良、鎌倉に並ぶ巨大な大仏で、大仏殿は江戸時代の絵図にも度々描かれるほどであった。当時は三十三間堂や妙法院も含まれる広大な境内であったが、現在方広寺は豊国神社の隣にひっそりとたたづんでいる。当時の面影を見る事が出来るのは大きな梵鐘と石垣だけである。
2015年1月31日
2017年1月10日