お気に入りに追加お気に入りを外す
徳川家康が竹千代と言われた1547年、今川氏の人質として駿府に護送中に蔵法寺に泊まっている。このことから将軍家の小休憩所に定められ、1603年将軍徳川家康より寺領として朱印地二十三石を受けた。これによって当時蔵法寺は大繁栄し、参勤大名の武士や小者の控所など大規模な建物も設けられていた。住職は将軍代替わりの度に、御朱印状書き替えのために江戸城までを往復した。その時の住職の乗り物である駕籠は、のぞき窓の簾が黄色の綾糸で編まれ装麗を極め、「黄のお駕籠」と言われ行列も美しく十万石の大名の格式を備えていた。現在将軍より与えられた朱印状の写し九通、御朱印状箱が残っている、との事。
2021年5月18日
スポット情報に誤りがある場合や、移転・閉店している場合は、こちらのフォームよりご報告いただけると幸いです。
ご報告いただきありがとうございます。 お送りいただいた内容は、スタッフが確認次第なるべく早く対応いたします。
送信に失敗しました。 お手数ですが、時間をおいて再度お試しください。
ログイン
Facebookでログイン
パスワードを忘れた方はこちら
初めての方は ユーザー登録をしてください
ご利用のブラウザでは正しく画面が表示されない、もしくは一部の機能が使えない可能性がございます。以下の推奨環境でご利用ください。
推奨環境:Google Chrome 最新版、Safari 最新版
徳川家康が竹千代と言われた1547年、今川氏の人質として駿府に護送中に蔵法寺に泊まっている。このことから将軍家の小休憩所に定められ、1603年将軍徳川家康より寺領として朱印地二十三石を受けた。これによって当時蔵法寺は大繁栄し、参勤大名の武士や小者の控所など大規模な建物も設けられていた。住職は将軍代替わりの度に、御朱印状書き替えのために江戸城までを往復した。その時の住職の乗り物である駕籠は、のぞき窓の簾が黄色の綾糸で編まれ装麗を極め、「黄のお駕籠」と言われ行列も美しく十万石の大名の格式を備えていた。現在将軍より与えられた朱印状の写し九通、御朱印状箱が残っている、との事。
2021年5月18日
2021年5月18日