
自然とふれあい、科学を学び、歴史と出会う、素敵な一日を。
大阪自然とふれあい、科学を学び、歴史と出会う、素敵な一日を。
まいど! 皆さんは、大阪市内に飛行場があったことをご存知でっか? 今や飛行場、つまり、空港といえば関西国際空港や大阪国際空港、八尾空港のことを指しますが、かつては大正区に木津川飛行場、そして、ここ大阪市西区にも米軍飛行場がありましてん。 なんや想像つきまへんな。 当時の米軍飛行場は戦後、日本に返還され、靭公園として、整備。 現在、春には桜、秋には紅葉に染まり、公園内におます花壇では四季折々の花を咲かせ、年間を通してぎょうさんの見物客、花見客でにぎわう素敵な公園でんねん。 ほんでまた、靭公園界隈では小さなお子様から楽しめる入場無料のテーマパークでおます大阪科学技術館があり、科学のこと、技術のことがわかりやすく丁寧に紹介され、大人の皆さまでも楽しめまっせ! さらに、周辺では最近、おしゃれなお店が続々、オープンしてはりまして、別の注目も集めてはります。 靭公園やその周辺では大正時代から昭和時代にかけて流行したモダニズム建築(近代建築物)が今も現存し、その一つの山内ビルにあるカフェは人気。 今回はそんな靭公園とその界隈を散策していきまひょ。
-
かつて、魚市場の一つである雑喉場魚市場や靱塩干魚市場があった。 1931年、大阪市中央卸売市場の開場後に閉鎖。 戦後、占領軍に接収され、占領軍の常用飛行場となった。 1952年、講和条約発効をもって大阪市に返還され、靱公園として整備された。 東西に細長い形をしているのは滑走路跡地であることによる。 公園内にある靱テニスセンターでは、世界スーパージュニアテニス選手権大会など国際的な大会も行われている。 かつて、サッカー専用の靱蹴球場があったが、現在は閉鎖されている。
-
ブロンズ像
まるで生きているかのような心温まる作品。
-
ブロンズ像
ベビーカーを押しながら歩く一家はまるで生きているかのような心温まる作品。
-
初めての自転車
自転車にまたがり、まるで生きているかのような心温まる作品。
-
永代浜跡
靭本町には、全長約550mで幅員約20mの海部堀川が開削された。 川の上流部では、永代堀、その岸は、永代浜と呼ばれていたと言う。 永代浜には当時貴重な肥料であった干鰯(ほしか)の荷揚げ場や市場が設けられ、とてもにぎわっていたと言う。 1951年、海部堀川は埋め立てられ、永代浜も姿を消した。
-
靭海産物市場跡
かつて周辺は、靭の海産物問屋の荷揚げ場や塩干魚・鰹節などの専門市場であった。 大阪随一の魚市場で、雑喉場魚市場や靱塩干魚市場が栄えていた。 大阪湾で獲れた鮮魚は、雑喉場魚市場で一手に扱っていたと言う。 1931年、大阪市中央卸売市場の開場後に閉鎖された。
-
花見スポット
毎年春なると桜が見ごろを迎え、多くの見物客、花見客でにぎわう。
-
花見スポット
毎年春なると桜が見ごろを迎え、多くの見物客、花見客でにぎわう
-
花見スポット
毎年春なると桜が見ごろを迎え、多くの見物客、花見客でにぎわう
-
花見スポット
毎年春なると花が見ごろを迎え、多くの見物客、花見客でにぎわう
-
花見スポット
毎年春なると桜が見ごろを迎え、多くの見物客、花見客でにぎわう
-
紅葉スポット
毎年秋になると紅葉が見ごろを迎え、多くの見物客でにぎわう。
-
紅葉スポット
毎年秋になると紅葉が見ごろを迎え、多くの見物客でにぎわう
-
-
靱公園の東出口の南隣、五代友厚の屋敷跡に建つ大阪科学技術センタービルの1階・2階に施設がある。 館内は、環境技術・資源エネルギー・都市開発・建設技術・生活科学・エレクトロニクス・バイオテクノロジー・地球環境・新素材等それぞれの分野の先端科学技術をゲーム感覚で学ぶことができる。 展示分野 マテリアル(新しい素材をさぐるコース) ニューライフ(楽しい暮らしのコース) アース(地球をみつめるコース) インフォメーション(情報・映像のコース) エネルギー(エネルギーのコース)
-
テクノくん
大阪科学技術館で誕生したロボット。 科学の魅力の宣伝を目的に活動を行っている。 大阪科学技術館のイベントに登場するなど、様々な活動を行っている。 特技は、ローラーブレード。
-
-
1793年、大塩平八郎中斎が生まれた。 大塩平八郎は、大坂町奉行所の与力で、陽明学者としても知られる。 1837年、飢餓に苦しむ市民の救済に尽力し、武士や農民を率いて、幕府に立ち向かった。 これを後に大塩の乱と呼ばれる。 大塩の乱後、大塩平八郎は靭公園近辺にある美吉屋五郎兵衛宅に潜伏していたと言う。
-
1924年、信濃橋洋画研究所が開設された。 開設の際、洋画家として知られる小出楢重氏や国枝金三氏、鍋井克之氏らが中心となった。 ここでは、理論と実技を組み合わせた教育を行っていたと言う。 後に、多くの専門画家を輩出した。 1931年、研究所を中之島に移転し、「中之島洋画研究所」と改称した。 1944年、大阪の近代洋画界の発展に大きく寄与したが閉鎖された。
-
1926年、地上3階、地下1階として建てられた。 2006年、新鮮な魚介類を中心としたイタリア料理のレストランとして利用されている。 かつて、グレーのセセッション風の外観だったと言う。 改修後、赤いレンガタイルが印象的なビルへと変わった。
-
江戸時代、大阪市西区土佐堀や江戸堀、立売堀界隈は、かつて諸藩の蔵屋敷が集中していた。 蔵屋敷とは、米やその他の物品を貯蔵していたところ。 この地は、日本国内の物流の中心として機能していたと言う。 1863年、政変のあと、長州へ落ち延びる途中の三条実美ら七名の尊皇攘夷派公卿達がここに立ち寄ったと言う。
- アプリで地図を見る
-
江戸時代、大阪市西区土佐堀や江戸堀、立売堀界隈は、かつて諸藩の蔵屋敷が集中していた。 蔵屋敷とは、米やその他の物品を貯蔵していたところ。 この地は、日本国内の物流の中心として機能していたと言う。 1863年、政変のあと、長州へ落ち延びる途中の三条実美ら七名の尊皇攘夷派公卿達がここに立ち寄ったと言う。
-
1776年、篠崎三島氏が儒学塾を開設。 三島は伊予(愛媛県)出身で父・長兵衛の没後、二代目伊予屋長兵衛を襲名し、家業の紙問屋を経営していた。 隠居して私塾を設置した。 庭に緑萼梅を植樹したことにちなんで塾名を梅花社と称した。 三島は、菅甘谷、麻田剛立らに学び、詩文・書芸に優れ天文学や卜占などにも通じていた。 淡路国洲本の城主であった稲田氏に招かれて出講することもあった。 1813年、77歳で没した。 1793年、当時13歳であった門人、加藤金吾を養子に迎えた。 9歳から梅花社に学んでいた秀才で、後に篠崎小竹と名乗った。 梅花社は今橋4丁目に移転し、大阪最大の私塾へと発展させた。
-
1933年、法律事務所として建設された。 有形文化財に指定されている。 また、里山カフェでは、無農薬・有機農法で作った 野菜や果物を使った料理メニューが人気である。
-
昭和初期、建設されたとされる。
-
1933年、法律事務所として建設された。 有形文化財に指定されている。 また、里山カフェでは、無農薬・有機農法で作った 野菜や果物を使った料理メニューが人気である。
- アプリで地図を見る
-
日本で一番短い商店街である。 日本で一番長い商店街である天神橋筋商店街は、大阪市北区にある。 この商店街はかつて、玉水商店街と呼ばれていた。 ラーメン、居酒屋、イタリア料理などの店舗が並ぶ。 商店街の全長は、79m。
-
大同生命大阪本社内のメモリアルホールにて特別展示「大同生命の源流“加島屋と広岡浅子”」を開催。
-
NHKの連続テレビ小説「あさが来た」
ペンネームは、九転十起生。 「一代の女傑」として知られている。 京都府京都市油小路通出水の小石川三井家六代当主・三井高益の4女として育つ。 簿記や算術などを独学。 第8代加島屋久右衛門正饒の次男・広岡信五郎と結婚。 家運の傾いた加島屋を救う為、第9代広岡久右衛門正秋らと共に、加島屋の立て直しに奔走する。
-
大同生命と広岡浅子の軌跡
潤野炭鉱(福岡県)を買収、加島銀行を設立、大同生命創業に参画した。 社会貢献事業に専念し、愛国婦人会に参加。 婦人運動や廃娼運動に参加し、女性雑誌に多くの論説を執筆。 「女性の第二の天性は猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴であり、西洋婦人は宗教により霊的修養をしている」とし、大阪YWCA創立準備委員長を務めた。
-
-
江戸時代に活躍した大坂の豪商・加島屋。 広岡姓の久右衛門家と長田姓の作兵衛家の2系統があった。 久右衛門家は、大坂御堂前で米問屋・両替商をはじめ、後に十人両替に任命された。 明治時代、政府に対して援助を行い、加島銀行を設立したが世界恐慌により廃業。 作兵衛家は、大坂で米仲買として玉水町に店を構え、肥後藩蔵元掛屋、宇和島藩紙方蔵元掛屋を勤めた。 大川町に移転後、諸藩に貸付を行い、万延御用銀は鴻池、玉水町加島屋とともに最高額3000貫目を引き受けた。 明治時代、政府に対して財政的な援助を行ったが、陸軍省預り金の即時上納を命ぜられ、果たすことができず、倒産・閉店。
-
1896年、成瀬仁蔵・梅花女学校校長との出会いをきっかけに、日本女子大学校(現・ 日本女子大学)設立に導く。
-
大阪市高速電気軌道四つ橋線の肥後橋駅で活躍するマスコットキャラクター「ひごマシーン」。 肥後橋駅は1965年、開業。 2018年、大阪市交通局の民営化により、大阪市高速電気軌道となる。
- アプリで地図を見る
-
1937年、建設された。
-
1780年、大阪市西区生まれ。 幼名は久太郎(ひさたろう)。 父の頼春水は大阪市西区江戸堀で私塾「青山社」を開き、その居宅を「春水南軒」とした。 1781年、広島県へ転居した。 1797年、江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に師事した。 1800年、放蕩仲間・福井新九郎がいる京都へ。 1804年には、政治経済論の『新策』が完成した。 1826年、『日本外史』が完成した。 翌年には老中・松平定信に献上された。 『日本外史』とは武家の時代史のこと。