
★世界遺産・姫路城下町で楽しむ大博覧会とモノレール
兵庫★世界遺産・姫路城下町で楽しむ大博覧会とモノレール
まいどまいど! かつて姫路市内にモノレールが走っていたことを皆さんはご存知でっしゃろか。 昔と言っても、1979年に廃線が決まった姫路モノレールのことでんねんけど、その存在を知る人も年々、少なくなってきました。 せやけど、今でも姫路モノレールの名残を見ることができまんねん。 1966年、姫路大博覧会が開催されたこととしても知られる開催地・手柄山中央公園の一角に、当時のモノレールをそのままに展示した展示室がおまして、当時の駅の写真やモノレールの構造、ほんでモノレールとともに歩んできた姫路の歴史も詳しく展示されておまして、おもろおまっせ。 ますます姫路のことが好きになる、そんなスポットやおまへんでっしゃろか。 日本で初めて、亀に触れることのできるタッチプールを開設。 ウミガメやオオサンショウウオの研究などで知られている。 周辺の河川や海などに棲息する生き物を中心に展示、本物のカメの甲羅が背負える体感などができる水族館も。 姫路は地酒が有名で、姫路駅の南部に位置する灘菊酒造。 ここで工場見学や試飲ができまっせ!
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姫路駅から近い場所に位置する手柄山には総合公園がある。 1966年、姫路大博覧会が開催。 閉幕後、跡地を姫路市が整備し現在に至る。 公園内には、既存の太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔、姫路球場、回転展望台、平和資料館、水族館、温室植物園、武道館、文化センター(コンサートホール)、手柄山遊園、市民プール、中央体育館、陸上競技場などの大型公共施設が数多く立地する。 1998年、国土交通省から「手づくり郷土賞」を受賞。
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最上階は展望台
内部を自由に見学することができ、最上階からは姫路市内を一望することができる。
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姫路市内を一望しながら
姫路大博覧会の名残が随所に残っており、自由に見学することができる。
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1966年、開業。 姫路博テーマ塔として建設された。 展望台では、カフェが開設され、姫路市内を一望しながらドリンクや軽食を楽しむことができる。
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手柄山中央公園内にある手柄山交流ステーションでは、かつて姫路市内を営業走行していた姫路市交通局モノレール線(通称、姫路モノレール)の車両や資料が展示されている。 1966年、姫路駅から手柄山駅(現在の手柄山中央公園)までを結ぶ鉄道(モノレール)路線として開業。 1974年に休止、1979年に廃止されるまで活躍していた。 路線距離は、約2kmで、跨座式(ロッキード式)。 停車駅は、姫路駅、大将軍駅、手柄山駅の3駅。
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内装
車内は一般開放され、自由に見学することができる。 また、姫路モノレールを紹介する展示物も多数。
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当館は、手柄山に位置するため、別名、「山の上の水族館」と呼ばれている。 1966年、開館。 日本で初めて、亀に触れることのできるタッチプールを開設。 ウミガメやオオサンショウウオの研究などで知られている。 周辺の河川や海などに棲息する生き物を中心に展示。 本物のカメの甲羅が背負える体感などができる。
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戦争に関する展示を行っている博物館。
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無宗教の慰霊塔。 地中に突き立てた刀は不戦の誓いを表している。 太平洋戦争の折、空爆などで被災した都市の犠牲者を追悼するためにつくられた。 1947年、当時の姫路市長・石見元秀が全国で被災した都市に呼びかけ、全国戦災都市連盟(財団法人太平洋戦全国空爆犠牲者慰霊協会)が結成。 毎年、太平洋戦全国空爆犠牲者追悼平和祈念式が開かれている。
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遊園地と姫路市民プール。 1966年、手柄山に開園。
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1910年に創業した日本酒メーカーの一つとして知られる灘菊酒造では、清酒「灘菊」などを製造・販売している。 創業者は川石酒造作。
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写真撮影スポット
旧酒蔵を利用したレストランや販売店が多く立ち並んでいる。
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宗派は浄土真宗本願寺派。 山号は霊亀山。 本尊は阿弥陀如来。 別名、亀山御坊、亀山御堂。 1515年、蓮如の門弟空善が飾磨郡英賀の英賀城下に本堂(英賀御堂)を開山。 1580年、羽柴秀吉は三木城攻めにより、別所長政城主の三木城を落城。 別所長政を支援した三木通秋が居城とする英賀城攻め(兵庫県姫路市)に先立ち、秀吉は亀山に移築。 1602年、京都府京都市に位置する本願寺が西本願寺(本願寺派)と東本願寺(真宗大谷派)に分裂。 当寺は姫路城に入城した池田輝政の政策の下で本願寺派に属した。 1618年、姫路城主は本多氏となり、真宗大谷派が当寺から分立し姫路城下の船場(姫路船場別院 本徳寺)へ移った。
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本願寺派の根本道場
当地は播磨国における本願寺派の根本道場として発展。 江戸時代、西国総録所として傘下に380余の寺院を擁した。 1868年、本堂が火災で焼失。 西本願寺から北集会所の建物を移築。 北集会所は新撰組が不動村屯所へ移る前に一時使用した。 1702年、松原八幡神社の祭礼である灘のけんか祭りの八家村地域の屋台の太鼓が作られた。 元は姫路城の登城太鼓であったが亀山本徳寺が譲り受け、後に八家村へと贈られたとか。
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ハラミ、カルビ、ロースなどを味わうことができる焼肉の専門店。
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牛すじやハンバーグ、カルビ、ホルモン鍋セット
店舗の入り口付近には自動販売機が設置され、牛すじやハンバーグ、カルビ、ホルモン鍋セットなどが冷凍の状態で販売されている。
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とんこつスープと半熟味玉が特徴のラーメン専門店。 店内はカウンター席とテーブル席があり、テイクアウトも可能。 2002年、開業。 メニューは冷し豚骨つけ麺、油かすらーめん、野菜らーめんなど。 一番人気はチャーシューや味玉が乗った味玉らーめん。
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宗派は真宗大谷派。 本山は真宗本廟(東本願寺)。 山号は、轉亀山。 本尊は、阿弥陀如来。 別名、船場御坊、船場本徳寺、姫路御堂。 1515年、蓮如の門弟法専坊空善が英賀城下に本堂の英賀御堂を開創。 1580年、羽柴秀吉の英賀城攻めを前に、亀山本徳寺に移転。 1602年、本願寺は東西に分立、亀山本徳寺は姫路城主池田輝政治下で本願寺派に。 1618年、姫路城主本多忠政により本堂を建立、亀山本徳寺より分立。 明治時代、旧制姫路中学校(兵庫県立姫路西高等学校)の前身、勧開中学校や崇徳学校を設立。 第一次世界大戦参戦時、ドイツ軍捕虜の収容所となった。 現在も当時の捕虜が作った望郷塚が残る。
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1921年、旧第三十四銀行姫路支店として建築。 三十四銀行とは三和銀行(鴻池銀行、山口銀行)、UFJ銀行を経て三菱UFJ銀行の前身にあたる。 1878年、大阪船場の繊維関係の森井太兵衛、伊藤家現伊藤忠商事、宮崎家、天野家らによって開業。 百二十一銀行、大阪中立銀行、摂陽銀行(旧北浜銀行)と合併。
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姫路駅から手柄山駅までの範囲では、かつて存在した姫路市営モノレールの軌道桁や橋脚が残り、廃線跡が現代遺跡との異名も持っている。 かつて、姫路市営モノレールの大将軍駅として営業していたアパートにはホームが残り、3階から4階の部分は吹き抜けとなっていた。 3階には軌道、4階にはホームが設置され、駅名標は旧字体で「大將軍駅」。 現在は、建て替えられ、現存していない。
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928年、疫病の流行によって人々が苦しんでいた時、一夜にして12本の蓬が生えた。 そこに、少彦名神が出現し、この蓬で疫病を治癒すべしとの神託があり、里人の病は癒え、感謝した人々は少彦名神を祭祀した。 1175年、現在地に遷座。 12本の蓬にちなみ、社名を十二所神社。 神紋は蓬の葉。 祭神は「菊姫命(お菊)」。 お菊が十二所神社に参詣したという伝承から祀られた為、別名、お菊神社とも。 また、お菊は播州皿座敷の主人公として知られ、お菊の亡霊が井戸で夜な夜な「いちまーい、にまーい、さんまーい・・・」と皿を数える情景として一般的に知られている怪談話の総称。
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炉端焼きや揚げ物、おでんなどが味わえる居酒屋。
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店内
店内はカウンター席とテーブル席がある。
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メニュー
メニューは炉端焼き・海鮮のさば、くじら、肉・豚肉、野菜・なすびなど。
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駅の立ち食いそばとして有名な「えきそば」は、まねき所品さんが運営する姫路の名物。 駅構内や地下街、そして、姫路城の目の前にある大手前店など、姫路駅周辺で多数、出店している。
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姫路名物のえきそば
「えきそば」とは、うどんのようなつゆを使用した味で、中華そばに近い麺が使用されている。 「黄そば」のようなえきそばは、「姫路のそば」として親しまれている。 1949年に販売が開始され、姫路を代表するロングヒット商品となっている。
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祭神は刑部親王(光仁天皇の皇子)、富姫(親王の王女)。 古墳時代から飛鳥時代にかけての中央豪族の私有民である部民の一つ、刑部(おさかべ)氏に由来とも。 刑部親王は藤原百川の讒言によりその地位を追われ、富姫も幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去。 国司の角野氏が2人を守護神として姫山に祀ったことが始まり。 1580年、羽柴秀吉が姫路城を改築のため、播磨国総社の射楯兵主神社の境内に摂社となった。 江戸時代、池田輝政が姫路城に入城、輝政が病に倒れて以後、当神社を移祠した祟りであろうと噂され、八天堂として建立。 1639年、松平氏が藩主となり、再度城下へ遷座。
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姫路ゆかたまつり
1649年、榊原氏が藩主となり、城内の社殿を再建し、城内と総社境内の二社併存となる。 1741年、榊原政岑に認められ、長源寺の境内に分霊・長壁大明神として勧請。 大正時代、長壁大明神が長壁神社として独立。 戦後、毎年6月に開催される例祭「姫路ゆかたまつり」が姫路市の代表的な祭りの1つとなっている。 初夏の風物詩で、毎年6月に大手前通り、姫路城三の丸広場、大手前公園、城南公園周辺で開催。
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ゆかたまつり
最盛期には800店近い夜店が出店し、その数は西日本一とも日本一ともいわれた。 1732年、播磨姫路藩の第3代藩主、榊原家宗家の8代当主・榊原政岑は、徳川吉宗が出した倹約令を無視して贅を尽くし、奇抜な服装で江戸城大手門を警備、江戸・吉原で派手に遊興に耽り、新吉原の三浦屋の名妓・高尾太夫(遊女)を身請け、奢侈を好んで風流大名や好色大名として有名となった。
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享保の改革
やがて享保の改革に対する抵抗と見なされた。 吉宗は1741年、政岑に出府を命じて越後高田に転封。 転封前の1742年、政岑は庶民も気軽に長壁神社に参拝できるようにと長源寺の境内に社を遷座させ、遷座祭を開催。 政岑は庶民に対して浴衣姿での参加を認めたことが始まり。
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江戸時代、三木家はかつて屋号「椀箱屋」とする有力商人で、大名や旗本・幕府の役人が宿泊する脇本陣に指定。 一時、本陣でもあった。 伊能忠敬の「測量日記」にも記載されたとか。
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兵庫・相生の出身で江戸時代、本陣に準ずる脇本陣に指定され、大名や旗本・幕府の役人が宿泊した。
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ヤマサ蒲鉾の大手前店の他、西二階町にも、アンテナショップを開設している。 基本、ここでは、無人となっているが、店内には、自動販売機が設置され、ヤマサ蒲鉾の関連商品やキャラクターのさっちゃんが販売されている。 また、プリクラも設置され、記念撮影を楽しむことができる。
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さっちゃんと記念撮影
さっちゃんの家の奥には、ソファーが置かれ、さっちゃんが左に座っていた。 さっちゃんとの記念撮影が可能。
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2階にもさっちゃん
さっちゃんの家には階段がなく、2階に上ることはできないが、2階には、さっちゃんがいて、1階を眺めるように立っていた。
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兵庫県姫路市にある碑。 江戸時代、京都の羅城門(東寺口)から下関の赤間関まで続く街道の一つとして整備された。 別名、近世山陽道、西国路、中国街道、中国路、山陽路などとも呼ばれている。 江戸幕府は、道幅二間半(約4.5m)と定め、幕府巡視使の巡視を契機とした。 1635年、参勤交代制の確立のためにも重要な街道となった。 当地付近にはかつて大名などが宿泊する国府寺家の本陣があった。 江戸幕府の三代目の将軍として知られる徳川家光公の時代、姫路城主の本多忠政公が中堀を浚渫した泥土を、西の坂元町に敷いたため旅人が難渋したとも。
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兵庫県姫路市にある碑。 江戸時代、ここには町の大年寄りらが政務を行う年行事があったという。 1877年、元藩士や大年寄らが旧藩主の慈悲に報いようと、ここに旧藩祖酒井正親公を御祭神とした神社を創建。 当時、御霊社と呼んだ。 境内には幼稚園や姫路信用組合などの事務所も置かれた。 1927年、国道の敷設が決まり、姫山公園内に遷座。
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兵庫県姫路市にある碑。 お夏清十郎ものがたりに登場する主人公のお夏の生家跡。 お夏清十郎ものがたりとは1659年、このあたりに店を構える旅籠で米問屋の但馬屋で暇を出された奉公人の清十郎が、主人を恨んで斬りつけるという事件が起きた。 その凶行の裏には、主家の娘お夏との恋沙汰があったとも。 そもそも清十郎とは播州室津(兵庫県たつの市)の造り酒屋を営む家系の出身で幼いころから色道に狂い、遊里でもてはやされ、遊郭の高級遊女が集まる揚屋に乗込んできた父親に勘当を言い渡された、 但馬屋でお夏と出会い駆け落ちするも飾磨津の港で但馬屋の追手に捕まり連れ戻される。
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お夏清十郎物語
座敷牢で日々を送った清十郎は、但馬屋の内蔵の金戸棚から紛失した小判七百両のあらぬ嫌疑をかけられて奉行所に出頭。 お夏に盗み出させて清十郎が取って逃げたと訴えられ、これに対する弁明も通らず、25歳で処刑されてしまう。 お夏はある日、巷で「清十郎殺さばお夏も殺せ」の歌を耳にして錯乱。 自害を試みるも友人らに説得されて正気を取り戻し、剃髪出家して日夜供養を欠かさない尊い比丘尼となった。
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兵庫県姫路市にある碑。 江戸時代、法度、人相書きなどの触書を記した高札場があったため、札の辻という。 当地は中之門筋と西国街道が交差、城下町で最も多くの人々が往来していた。
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姫路城下町まちづくり協議会
姫路城下町まちづくり協議会が作成、兵庫県立歴史博物館による写真。 看板には、在りし日の中濠、昭和40年頃の中之門筋、戦前の藤森病院などかつての姫路城下町の街並みが展示、公開されている。 兵庫県姫路市本町231
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兵庫県姫路市にある碑。 1659年、このあたりに店を構える旅籠で米問屋の但馬屋で暇を出された奉公人の清十郎が、主人を恨んで斬りつけるという事件が起きた。 その凶行の裏には、主家の娘お夏との恋沙汰があったとも。 そもそも清十郎とは播州室津(兵庫県たつの市)の造り酒屋を営む家系の出身で幼いころから色道に狂い、遊里でもてはやされ、遊郭の高級遊女が集まる揚屋に乗込んできた父親に勘当を言い渡された、 但馬屋でお夏と出会い駆け落ちするも飾磨津の港で但馬屋の追手に捕まり連れ戻される。 座敷牢で日々を送った清十郎は、但馬屋の内蔵の金戸棚から紛失した小判七百両のあらぬ嫌疑をかけられて奉行所に出頭。
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お夏清十郎物語
お夏に盗み出させて清十郎が取って逃げたと訴えられ、これに対する弁明も通らず、25歳で処刑されてしまう。 お夏はある日、巷で「清十郎殺さばお夏も殺せ」の歌を耳にして錯乱。 自害を試みるも友人らに説得されて正気を取り戻し、剃髪出家して日夜供養を欠かさない尊い比丘尼となった。 今ではお夏清十郎物語として語り継がれている。
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