
ブラタモリからの大阪が日本一の商都になる歴史探索!
大阪ブラタモリからの大阪が日本一の商都になる歴史探索!
ブラタモリの「#53 大阪」の回がすごく面白かったです!大阪が日本一の商都になる歴史を解明するルートを、番組で取り上げられた内容を踏まえながらプランにしてみました。発端は大阪を「日本一の境地なり!」と織田信長が言ったところ。実は戦国あたりの大阪のほとんどは海の中で、大阪城を突端とした上町台地だけが半島のように陸地になっていたそうです。その北は淀川の堆積湿地で西は海。そんな非常に興味深い地形を踏まえた商都大阪の散策歴史探索プランです。しかしブラタモリ最高です。
展望台に上り、大阪を上から見下ろし半島のような上町台地の様子を把握しましょう。写真でもわかるように緑も多い隆起した台地の様がわかります。
「うめた!」て地=埋立地。梅田の地名の由来はまさにそうなんだ!って驚きです。
上町台地は湿地帯に囲まれた半島。この北の端に作られたのが大阪城です。この大阪城を起点として城下町が作られていきます。
秀吉の?
秀吉の大阪城ってイメージですが、実はこれは3台目の復元天守閣。しかも天守台すら秀吉のではありません。大坂夏の陣後に徳川に破壊されたので、これは徳川天守台の上に昭和の市長が徳川と豊臣を混ぜて復元した超絶よくわからない天守閣です。
石垣
石垣もすごい!ただしこの石垣も徳川時代に諸大名に作らせたもので豊臣のは当然大坂夏の陣で埋められてます。
上町台地の北のヘリ。タモリさんが番組で降りて登った階段があります。地形ヲタクのタモリさんが異様に喜んでいましたね。この先が天満の駅で八軒家浜につながります。
この船着き場から瀬戸内海、アジアへと国際貿易の起点地になると構想して、織田信長が「日本一の境地」と呼んだわけです。
八軒家浜?
永田屋昆布本店に面していたと言われる八軒家浜船着場。八軒の船宿があったというのはその名の通りで、実は熊野詣の陸の拠点だったので、近くに熊野街道の起点の碑もあります。
船着場
弥次さん喜多さんや、森の石松が大阪に上陸するのもこちり。 京都から船でやってくるのですが、江戸時代の船だと京都→大阪は川下りで6時間、大阪→京都は川上りで12時間の長旅ですね。
住所の切れ目が注目です。通りを境に町名が変わるのではなく建物を背中合わせにして町名が変わります。これが豊臣秀吉のアイディアで、通りを真ん中に挟んで通りの両側が同じ町になっているという作りになっています。通りを南北に歩くとこの通りの境がわかります。
両側町
通りを真ん中に挟んで通りの両側が同じ町内という作りを「両側町」といいます。「向こう三軒」両隣っていうのが町内として構成され、顔を突き合わせて安心して商売が出来るように町の作りを作ったと言われているそうです。
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豊臣秀吉は、上町台地の地形の高低差を活かして下水道を作り清潔な商都としての発展を進めたそうですが、その下水道を太閤下水といい実は今でも現役。その太閤下水を地上から覗けるスポットがここにあります。小学校の目の前。
タモリさんが谷町の「谷頭(こくとう)」を探して歩く途中で見つけたテント屋さん。銅座公園のすぐ近くです。
「うどん100円」!っていうインパクトが凄かった通りすがりのうどん屋さん。実は立呑屋さんみたいです。
上町台地にある谷の頂上部分。地形ヲタクのタモリさんが「どうしても谷頭を見たい」といったことから辿り着いた場所。ちょろちょろと沸き水が出ていましたが、昔は金魚がいるような池があったようです。「町の中の水源」にタモリさんがご満悦でした。
タモリさんが
森の中の水源ではなく「町の中の水源」がいいんですよとご満悦ダッタ様子です。
秀吉は武家の居住地域である上町台地の整備が終わると新たな商業地を求めて上町台地の西側の湿地を埋め立てる土木工事を始めます。このことをタモリさんは「豊臣建設」なんて呼んでました。 この地域が船場地域で、まさに大阪の商業の中心地へと発展していくことになるそうです。
豊臣時代の船場
様々な商人の店が並んでいる様子が描かれていると紹介されていたのでチェックしてみましょう。
豊臣時代
そういうわけで豊臣時代の開発であるため公共事業として整然とした直線で構成されり街路となっています。直線好みと言われた秀吉の特徴とブラタモリでは紹介かれています。
うどん屋
両替商、魚屋などもみつけられますが、このうどん屋さんが大阪名物のあの澄んだ出汁のうどん屋に発展していく!?
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豊臣時代に商業地として埋め立てられた船場地区は伏見にも共通する直線で整備された碁盤の目のような地域です。その終わりがこの西横堀で現在は上を高速が走っています。
橋の親柱
西横堀にかかる橋の名残りが、高速の下にあります。
豊臣の船場とその先
画像の右の水平な黄色線は豊臣時代に埋め立て開発された船場地区の街路です。上町台地の街路と同じで両側街が用いられた整然とした都市計画地区になります。その船場地区の先、西横堀を越えた地域は、江戸時代に商人たちが民間で埋め立て開発した地域で川の流れに沿った水平ではない曲がった街路を持つ地域になっています。
直線の秀吉
ブラタモリでは「直線の秀吉」と紹介されていました。 伏見城、聚楽第、名護屋城、大阪城と秀吉は数々の大規模土木建設を行ってきましたが、その意味では城下町も整備し、まさに町づくりのプロだったといえるのかもしれません。そういえば、信長が死ぬ前まで特異な城攻めも水攻めなどの土木建設でしたね。
船場から西横堀をわたって江戸時代の整備地域に入ってくると、「江戸堀」という名前の店が目立つようになります。秀吉が整備した公共事業開発地域の船場から西横堀を越えるとそこは民間の商人達が開発した民間整備地域になるので、川の流れに合わせた水路を備えた街区になるのですね。西横堀に対しては垂直な水路がいくつもあるのですが、そのうちの1つがこの「江戸堀」なのです。面白い。
南北にかかった橋の親柱があります。この橋は「撞木橋」。西横堀に対して垂直に江戸堀があり、それにかかった南北の橋が「撞木橋」なんだそう。撞木橋ビルの1階のレストランの脇です。
民間開発地域
秀吉が整備した公共事業開発地域の船場から西横堀を越えるとそこは民間の商人達が開発した民間整備地域になるので、川の流れに合わせた水路を備えた街区に。西横堀に対して垂直な水路(これが川の流れと同じ方向)がいくつもあるのですが、そのうちの1つがこの「江戸堀」なので、これにかかった橋が撞木橋です。
江戸堀のような江戸時代の商人が埋め立ての際に作っていった細かい水路は現代ではすべて埋め立てられてしまっています。しかし、今でもその痕跡は街路の道並みに残っているということをブラタモリでは解明していきます。このお店も江戸堀沿いのお店で昔は堀に面した場所だったと思われます。このお店の角をブラタモリでは覗き込み隣の堀の痕跡をさがします。
お店の角を
お店の角から脇道を覗き込みます。
この部分
この部分ですね。右が少しくねっているように見えます。 くねりの間に江戸堀の隣の堀がありそこを橋が通っていたのでしょうかね。
堀
このように堀があった?ブラタモリではそう推察していました。
ブラタモリでタモリさんが堀の様子を聞きに訪ねる看板店です。
不自然な道の流れ
何かくねっている、そうここを堀が流れていたと伺わせる場所です。看板屋さんの隣ですね。左手前が看板屋さんです。
昭和12年撮影
昭和12年、1937年当時のこの場所です。
写真比較
むむ。確かに電柱が同じ。
看板店訪問
タモリさんも訪問し、昔の様子を店主夫婦に伺っていました。タモリさん訪ねて来たら嬉しいですね!昔は堀で洗濯や泳いだりもしていたそうで、溺れたりする子がいたそうです。
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船場地区⇒江戸堀地区ときてブラタモリは最後に中之島へと向かいます。淀川添いにあるこの中之島には海路全国から物品が届く全国各藩の蔵屋敷が立ち並んでいたそうです。なるほどですよね。この大阪大学中之島センターの場所あたりには廣島藩の巨大蔵屋敷があったそうです。
空き地
この大阪市科学館と大阪大学に挟まれたこの空き地には廣島藩の巨大蔵屋敷があったそうです。
各藩の蔵屋敷
中之島には全国の各藩の蔵屋敷が立ち並ぶことになります。蔵屋敷には船での乗り入れを可能とした施設があり、まさに物流拠点となっていったそうです。
蔵屋敷
船で搬入できる様がよくわかりますね。結局歴史上の様々な権力も経済が支えているわけで、こういうものが藩の勢力を裏付けてたのでしょう。
水運
自動車が発展するまではやはり水運が物流の核だったわけです。水路の充実が日本中からの物産を大阪に運ぶことを可能にし、まさに「商都」として「天下の台所」などと呼ばれることになる大阪の発展を支えていたことがわかります。 鉄道時代になると鉄道乗り入れを前提に作られた築地中央卸売り市場へとつながる感じですかね。