
イチローの聖地・神戸とキャンドルナイト・須磨離宮を楽しむ
兵庫イチローの聖地・神戸とキャンドルナイト・須磨離宮を楽しむ
まいどまいど! 今回は、平清盛と源頼朝による治承・寿永の乱(源平合戦)の激戦地として知られる須磨を散策しまひょ。 源平合戦でゆかりの地の一つ、須磨寺。 須磨寺では宝物館があり、現代に残る遺品が大切に保管され、自由に見学することができまんねん。 源平合戦は一ノ谷の戦いともいわれ、全国的に有名でんねんけど、境内では、その一部が復元。 そのほか、激戦地の一つが須磨区にある須磨浦公園で、鉢伏山と鉄拐山、そして、旗振山によって構成される。 兵庫県を代表する六甲山系の一部としても知られ、多くの人がハイキングを楽しんだり、ロープウェイ、カーレーターで移動することもできまっせ! また、須磨浦公園目の前には自然豊かな瀬戸内海が広がり、一年中、海釣りが楽しめるスポットとして定評があり、海遊館に次ぐ人気を持っているのが須磨海浜水族園。 ここでは、イルカショーなどが人気を呼んではりまんな。 須磨離宮公園では緑豊かな環境の中でキャンドルナイトという幻想的な世界へ。 須磨浦公園の鉢伏山・鉄拐山山頂付近には、須磨浦山上遊園があり、ハイキングコースが整備されてまっせ。
1957年、東洋一の規模を誇った神戸市立須磨水族館として開園。 年間入場者数240万人を記録(1987年当時の日本記録)。 1895年、京都で第4回内国勧業博覧会が開催、「和楽園水族館」が開設され、博覧会附属の施設として、遊園地の和楽園に和田岬水族放養場を開設。 和田岬で第2回大日本水産博覧会が開催。 設計は、水族館の父と呼ばれる飯島魁東京大学教授。 「水族館」という名称はこの時に日本で初めて使用され、日本の水族館発祥の地とも。 博覧会終了後、湊川神社の境内に移転、「楠公さんの水族館」と呼ばれたが閉館。
1867年、幕府は英国との間で大坂条約を結び、洋式灯台5基の建設を計画した。 そのうちの一つが、和田岬灯台で、兵庫の開港を前に設置された。 1871年、初代の八角型で木製灯台が完成し、翌年に初点灯。 1884年、2代目の鉄製灯台に改築され、1963年に廃灯になるまで活躍した。 現存する鉄製の灯台は「日本の灯台の父」と呼ばれるイギリス人リチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計。 高さ15.76mメートル、六角形の三階建。 また、現存する日本最古の鉄製灯台として知られ、旧和田岬灯台の名称で国の登録有形文化財に登録。
住友家第15代当主、住友友純が1893年、別荘を建てた。 これが須磨の別荘地開発の草分けとなった。 1903年、別荘の隣に洋館の別邸を新築。 1945年、戦災で焼失し、跡地に須磨海浜公園が整備。 現在、別邸の門柱のみが現存する。
様々なヨットやモーターボートが並ぶヨットハーバー。 施設内には展望デッキやレストランがある。
展望デッキ
展望デッキでは須磨海浜海岸、淡路島、瀬戸内海、明石海峡、明石海峡大橋などを一望できる。
1914年、当地は、月見山に位置する旧武庫離宮(須磨離宮)。 1907年、大谷光瑞別邸を宮内省が買収した。 庭園の設計は福羽逸人氏。 植物園は岡崎財閥の旧岡崎邸の敷地と建物を再利用。 宮殿を模したレストハウスを奥に、手前にはメインフォールの滝と水の流れ、小噴水と大噴水が楽しめる。 芝生広場では草花が生い茂り、夜間の噴水ライトアップは幻想的であると注目を集めている。
噴水とレストハウス
レストハウスからは、噴水や庭園、そして奥には大阪湾を一望することができる。 夜間は、ライトアップされ7色に変わる噴水を楽しむことができる。 ここでは、お食事やティータイムが楽しめる。
温室
展示室には、四季折々の花々が展示。
和室と和庭園
植物園の前所有者、岡崎財閥から引継いだという建物。 展示会やお茶会などのイベント会場として一般開放することも。
坑道
本園と植物園とを結ぶトンネルは、坑道。 かつては離宮造成時、災害が発生した時の避難用として整備され、現在に至る。
珪化木
埋もれていた樹木の細胞組織に地層中の珪酸分が染み込んで化石化した「珪化木」。 約3500万年前の栗の木が化石化したものであるという。
キャンドルナイト
日没後、噴水の周りで一個ずつ点灯されたキャンドルナイトは、来客を幻想的な世界へといざなう。 撮影場所はレストハウス前から。 目の前にはキャンドルナイトで「MERRY X’MAS」。 そして、その奥には芝生広場と噴水。
キャンドルナイト
同じ場所から振り返ってみるとレストハウス側にもライトが点灯。 緑や黄、青など色とりどりのライトアップは異国のよう。
キャンドルナイト
同じくレストハウス前。 足元にはハート形を模ったキャンドルナイトが2か所。 会場内を流れるおしゃれなサウンドとともに、デートスポットとして定評がある。
キャンドルナイト
芝生広場側からレストハウスに向けて撮影。 噴水と滝を一望。
キャンドルナイト
芝生公園の奥からレストハウスに向けて撮影。 ライトアップされた噴水と奥にはレストハウス。 まわりはキャンドルナイトで囲まれている。
須磨離宮公園内にあるレストハウスは、和食 花離宮。
御膳
ご膳は、菊水ご膳、須磨ご膳、離宮ご膳、武庫ご膳から選ぶことができる。
離宮オリジナルカレー
須磨離宮限定のオリジナルカレー。
離宮うどん・そば
須磨離宮限定のうどん、そば。
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祭神は菅原道真。 菅原道真は大宰府への左遷の途中に立ち寄り、地元の漁師らは綱で円座を作ったという。 979年、この伝承から、天神信仰の広まりに合わせて祀られたことに始まる。
坐った仔牛
「菅原道真公の出生年は丑年である」 「大宰府への左遷時牛が道真公を泣いて見送った」 「道真公は牛に乗り大宰府へ下った」 「牛が刺客から道真公を守った」 「道真公の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など菅原道真公と牛にまつわる伝説が数多く残る。 これにより、牛は御祭神の使者とされ、縁起がいいとされている。
波乗り祈願
成功を収めるため、うまく時流の波に乗ることを祈願する。 自分本位な行動をとるのではなく、時を読み、流れに逆らわず、自らの平衡感覚によって状況に適応していくことが、人間が生きていく上で大切であると説く。 この像は、時代の荒波に乗り、一人でも多くの方々が幸せになることを願い、須磨の海でサーフボードを抱える幼少時代の菅原道真公がモチーフ。
菅公母子像
父は菅原是善、菅原道真公の母は伴氏。 菅原氏は、道真公の祖父清公のとき土師氏より氏を改め、祖父と父は文章博士を務めた学者の家系であった。 母方の伴氏は、家系には大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人がいる。
北海道の名付け親
「北海道」名付けの親である松浦武四郎が納めた宝鏡。 松浦武四郎は1818年生まれ。 探検家・浮世絵師・著述家・好古家として活躍。 雅号は北海道人。 蝦夷地を探査し、北加伊道(後の北海道)という名前を考案したほか、アイヌ民族・アイヌ文化の研究・記録に努めた。 二十五霊社とは「北海道」を命名した松浦武四郎の定めた天神社25社を指す。
平安時代、多井畑の村長の娘「もしほ」(松風)と「こふじ」(村雨)が在原行平を慕って建てた庵の跡。 887年、歌人で公卿の在原行平が、光孝天皇の怒りにふれて、京から須磨へ左遷、蟄居した際、多井畑の村長の娘「もしほ」と「こふじ」の姉妹に出会い、2人をそれぞれ「松風」「村雨」と名付けて愛人とした。 帰京の際、行平は狩衣と烏帽子を松に掛けて姉妹への形見として旅立った。 行平が都に帰った後も姉妹は、行平を慕い続け、行平の居宅の近くに庵を結び、観世音菩薩を祀って無事を祈った。 都に帰る行平と2人の姉妹の伝説は、謡曲などにも取り入れられた。
元宮長田神社 菅原道真の左遷の際、須磨に上陸し、旧家・前田家から差し出された井戸の水を喜び、自画像を前田家に与えたとも。 前田家では、その井戸を「菅の井」と名付け、この水で銘酒「菅の井」を作って毎年、太宰府天満宮へ献上したとも。 また、史跡「菅公手植えの松跡」も。
かつて旧家前田家の邸内であった。 前田家は長田区に鎮座する長田神社と深い関係を持ち、證誠神社が栄えて須磨一帯を氏子地とする中世以前、須磨が長田神社の氏子地だった頃の名残とも。
源平合戦の際、東門生田の森を守った平重衡(清盛の五男)は源氏の軍勢を防ぐことができず、西に遁走した。 西須磨で源範頼の家来に生け捕られてしまう。 松の根に座り、無念の涙を流す重衡を見て、村人が濁酒を一杯差し出したところ、重衡は喜んで、「ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁酒なれ」と、一首を詠んだとも。
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祭神は、村上天皇。 平安時代、藤原師長は琵琶の名人として知られ、唐に渡って琵琶の奥義を極めたいと考えていた。 都を出て須磨を訪れた夜、村上天皇と梨壺女御の霊が現れ琵琶の奥義を伝えたので、師長は入唐を思いとどまり、名器「獅子丸」を埋めて都に帰った。 この伝承を題材として能の「絃上」(玄象)が作られた。 師長による琵琶塚は前方後円墳。
平安時代、藤原師長は琵琶の名人として知られ、唐に渡って琵琶の奥義を極めたいと考えていた。 都を出て須磨を訪れた夜、村上天皇と梨壺女御の霊が現れ琵琶の奥義を伝えたので、師長は入唐を思いとどまり、名器「獅子丸」を埋めて都に帰った。 師長による琵琶塚には琵琶が埋められ、前方後円墳となっている。
祭神は稲倉魂神。 名前の由来は、源兼昌が詠んだ百人一首のうちの一首に登場する須磨の関があったことから。 須磨の関とは、大宝令に定められている摂津の関のことで、海陸を兼ねた関であったとも。 天下の三関、(「伊勢の鈴鹿の関」「美濃の不破の関」「越前の愛発(あらち)の関」)に次ぐ関であったが、790年頃に廃止。 「源氏物語」で光源氏が須磨に退居していた時、巳の日祓をしたところをここになぞらえ「巳の日稲荷」とも。
「長田宮」「川東左右関屋跡」
境内には明治時代に現光寺で掘り出された「長田宮」「川東左右関屋跡」と書かれた大きな石柱が移されて保存されたもの。
正式名称は、上野山福祥寺。 境内では、平敦盛の青葉の笛、弁慶の鐘、敦盛首塚や義経腰掛の松など「源平ゆかりの古刹」として知られている。 兵庫県にある和田岬の海中より出現、給える聖観世音菩薩像を安置するため、淳和天皇の勅命により恵偈山北峰寺が建立。 886年、光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が現在地に上野山福祥寺を建立。 北峰寺より聖観世音菩薩像を遷し、本尊としてお祀りしたのが、当山の開基。 境内の三重塔は、昭和59年に再建。 室町時代様式を基調として、内部には大日如来を祀っているとか。 塔敷地の周囲には四国八十八カ所お砂踏み霊場があり、各札所の砂をガラス越しに踏んでお詣りができる。
源平の庭
1170年から1180年頃、平敦盛と熊谷直実による一騎討ちの場面を再現したという庭。 当時、16歳の無官太夫平敦盛が一の谷の浜辺において、源氏の武将熊谷直実に討たれたという話は平家物語で登場する。
宝物館
平敦盛公が愛用していた青葉の笛をはじめ、源平ゆかりの宝物や須磨寺の歴史的宝物が展示されている。
小石人形舎
アートデザイナーの木島武雄氏による作品。 須磨や各地の小石を集めて、作り上げたという作品「小石人形」が展示。 音楽に合わせて、作品が動き出す。
神戸七福神霊場
写真は、福禄寿尊。 ”福”は幸せ、”禄”は金銭、”寿”は長生き。 福も禄も寿も頭を使わなければ、と長い頭が示す。 笑う門には福来る、と笑顔。
五猿
見ザル、言わザル、聞かザル、怒らザル、見てごザルの五猿。
安徳天皇は、平清盛の娘の建礼門院徳子を母として生まれた。 1180年、2歳で即位。 1185年、壇ノ浦の戦いで平家滅亡とともに祖母二位尼に抱かれて入水したとも。 伝説地には一時、内裏が置かれたといい、 安徳天皇の冥福を祈って安徳宮が祀られた。 江戸時代、松尾芭蕉も来訪。
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1954年、みどりの羽根運動の一環で平和の象徴として女神像が建立。 刻像は薫風と題し、神戸市の発展飛躍を表現、レリーフは希望と平和を象徴。 女神像のまわりには石塀が設置され、石塀の左右両端の石柱には一対の地球儀がある。
地球儀
1995年、阪神淡路大震災が発生し、左側の地球儀が落下して割れた。 現在もその状態のまま保存されている。
鉢伏山・鉄拐山が中心となった公園。 山頂付近には、須磨浦山上遊園があり、ハイキングコースが整備されている。 また、山麓と山頂を須磨浦ロープウェイ「やまひこ」「うみひこ」、カーレーターで結ばれている。 旗振山はかつて、摂津国と播磨国の国境であったとか。 「鉢伏山」という名前の由来は、神功皇后が朝鮮遠征(三韓征伐)の帰路、山頂に兜の鉢を埋めたことによる。 「旗振山」は江戸時代から明治時代にかけて大坂堂島(堂島米会所)の米相場価格を山上で大きな旗を振ることによる信号で西へと伝えていた(旗振り通信)ためであるとか。 サクラの名所としても知られ、神戸市の「花の名所50選」に選定。
敦盛塚
古くから須磨浦公園は歴史的な場所として知られ、源平の古戦場、一ノ谷の戦いの地としても知られている。 敦盛塚は、神戸市指定有形文化財に指定。
句碑や歌碑
須磨浦公園には正岡子規、高浜虚子、松尾芭蕉、与謝蕪村、五十嵐播水、草野藤次、松笠要、松瀬青々らの句碑や歌碑などが建立。
須磨浦公園内にある石碑。 当地を含む一の谷から西一帯の海岸は、1184年、源平の戦いの一の谷の戦いの舞台となった。 別名、戦の濱。 一の谷は東西2つに分かれているが、西の谷は、東の一ノ谷川本流に対して「赤旗の谷」といわれ、平家の赤旗で満ちた谷であると伝えられている。 毎年、決戦のあった2月7日の夜明けには、松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえたとも。
1976年、日本で初めてとなる公立の釣り公園として開園。 マダイやクロダイ、ブリの回遊もあるという須磨海岸沖には、一年を通して多くの釣り人が訪れる。
山陽電鉄本線、神戸市営地下鉄西神・山手線の板宿駅前にある商店街。 飲食店や居酒屋、雑貨店などが立ち並ぶ。 商店街にはヤドカリをモチーフにしたキャラクター「いたやどかりちゃん」が活躍するとか。
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